第21話 黒い感情
顔面へと注がれる無数の雨粒が、上から降り注いできている。
上体を起こそうにも、体が重くて動きそうにない。
俺は仕方なく体を反転させると、霞む視界の中、川岸から這っていくことにした。気づけば下半身はドブ川に半分浸かっており、泥水特有の濁った茶色は、波打つたびに白い泡を浮かべている。
どうやら、運よく川岸に流れ着いたらしい。強化服が衝撃緩和機能にすべてのエネルギーを使ったのか、全身が鉛のように重い。水浸しになりながらも、俺は川から這うようにして濁流からの脱出を果たす。
【!警告!】
【現在、体温の急激な低下が計測されています】
【早急にナノマシンもしくは強化服による体温調節を行ってください】
先の落下の衝撃でイカれたのかは分からないが、強化服の一部が故障したらしい。体のところどころからスパークが走り、ときおり肌を焦がす鈍痛がじくじくと染みた。
安価なナノマシンが本格的に活動を開始したのか、全身の毛穴から漏れだすほどの蒸気が生じ、せっかく治したはずのメカ・ケロイドが再び全身に現れはじめる。
「……っ……」
重度の日焼けしたときのような痛みは、顔や手の平の皮膚を真っ赤にしたあと、噴き出る汗とともに徐々に引いていった。久しぶりの激痛に思わず涙があふれる。
人体は義体ほど頑丈にできていない。こんな扱い方をしていれば、すぐに肉体寿命など使い切ってしまうだろう。
簡易処置として強化服のスイッチを切り、ひとまずの解決をする。
幸いにも頭部のこめかみにつけられた現実拡張装置は無事だったため、GPSによる現在位置を網膜に映しだす。すると、あの落下地点からわずか2、3キロ程度しか離れていないことに気が付いた。
強化服による身体能力の上昇は見込めなくとも……、ナノマシンによって日頃から鍛えていた心肺機能のおかげで、数キロ程度の距離なら五分もせずに辿り着けるだろう。
だが、このあと何をすべきなのか。
何をしたいのか、俺にはまるで分からなかった。
なぜ、レベル5が唐突に現れたのか。なぜ、三ツ橋重工の護衛はあの場から消えていたのか。そして何より、どうしてステラは俺のことを突き飛ばしたのか。ステラは無事なのか。いまどこにいるのか。あのときステラが言った『さよなら』の意味はなんだったのか。レベル5との戦いはどうなったのか――。
疑問が数珠状に溢れだしては、意味のない問答を延々と繰り返している。
「………………」
俺はそこでようやく、背負っていた荷物や武器をロストしたことを悟った。
色々と詰め込んでいた荷物はなく、主要武器である突撃銃もどこかへと消えてしまっている。あるのはハンドガンと小型の加熱式ナイフ、そしてエディの銃だけ。予備マガジンが入ったリグもすべて流されてしまったらしい。
(そうだ、ステラ、ステラはどこに――)
近くにステラの姿はなかった。
周囲にはただ、倒壊した家屋の残骸と廃墟、そして河川敷があるだけだ。元は三百年前に人が住んでいたのだろう場所も、河川の氾濫で流されてしまったのだろう跡があるだけだ。後ろを振りかえれば、逃げだした獲物に手を伸ばすようにして、濁流は徐々に迫ってきている。
そもそも、いまから元の広場に辿り着いたとして、できることがあるとは思えない。
時間はあれから十分は経っている。もう、俺にできることなんて、なにも――
【■■■■■■、□□□□――】
耳鳴りがする。ひどい耳鳴りだ。
脳内でキィンというガラスでも引っ掻いたような音が、奇妙なノイズとともに自分に似た声へと変わっていく。
『それで、いいじゃないか』
雨が激しくなっていく。
それなのに雨音は一層小さくなっていく。
幻聴がより、際立っていく――。
『逃げれば、逃げて生き延びれば、それでいいじゃないか』
その幻聴は、まるで録音した自分の声を聞いているような違和感があった。
誰もお前のことを責めたりしないと言わんばかりの声の主は――逃げれば、逃げてしまえば命だけは助かる。また、一からやり直せばいい。今度は都市の下層で細々と暮らしていけばいい。――そう誘惑するようにして囁きかけてくる。
「――――――」
自分の不甲斐なさに、思わず呼吸が震えた。
同時にその自分の弱さにかこつけて、無意識のうちに、そこにここから逃げる正当性を見出してしまう。ここから逃げても誰も自分を責めないだろう。そんな予感がじくりと良心を蝕み、気づけば俺は別の方向へと足を踏みだしていた。
だが、その瞬間――
「――ぅ、――ァ――」
何かが、終わる。
ここから逃げれば――リリーだけではなくステラをも失えば――今度こそ何かが自分の中で崩れて、終わってしまう。そんな強烈なまでの強迫観念が、俺の足をその場から動けなくさせた。
足の裏から釘でも打たれているようにして、凄まじい激痛が脳髄まで走り抜ける。
ざわざわと心がざわめいていて五月蠅い。
恐怖に負けて逃げようとする自分と、命を捨ててでも何かのために戦おうとする自分。
どちらも、人格を牛裂きにでもするようにして逆の方向へとひっぱっていく。俺は両手で自分の顔を抑えながら、必死に現実から目を背けようと下を俯いた。
【■■■■■■、□□□□――】
『また、奪われるぞ』
そのとき、同じ自分の声を真似た幻聴なのに、明らかに今までの自分とは違うやつの声が聞こえた。
どこか嘲るような声は嬉しそうに話しかけてくる。意志薄弱、優柔不断。そんな自分の欠点を指でさされて嗤われているような感覚に、俺はたまらなく不快な気分になった。
瞬間、心臓に沸騰した水銀を直接注入したような激痛が走り、俺は空気を求めて喘いだ。なんだ、誰かの悲鳴のようなものが聞こえる。銃声、爆発、悲鳴にまみれた幻聴の中で、誰かが俺の耳元で囁きかけてくる。
『誰かを守りたければ――殺せ』
復讐の火。
それは最初、ちろちろと漂うだけの小さな種火のようなものだった。だが、それは突然誰かに燃料を投下されたようにして、己が身を焦がすほどの炎へと変わっていく。
『動け、犯せ、欲望のまま――すべて殺せ』
これは、自分の内から出てきた憎しみじゃない。
そんなことは理解っている。それでも、吐き気を催すほどの幻聴は脳内で声高に叫んでいる。
『邪魔なやつはすべて排除しろ。ぜんぶ、――ぜんぶだ‼ 』
悪魔が一線を超えるよう唆すように、その声はしだいに憐れむようなものへと変わっていく。
『それとも、また、奪われてもいいのか――』
【■■■■■■、□□□□――】
瞬間、リリーが死んだときの記憶が脳裏をよぎった。
また、同じ目に合う。そんなことがあれば、もし、そんな“約束”が守れないようなことがあれば、俺は――
「ふざけるな」
もう一度味わいたいのか、あの地獄を――。
誰かが問いかけてくる。自分の声、誰かの声、自問自答をする他の声。
「――ふざけるな!」
リリーだけではなくステラまでもを亡くせば、お前にはもう存在価値はない。脳内のそんな誰かの声を振り払うようにして、俺は必死に叫んだ。
『なら、どうする――』
それは、ひとえに言えば『図られた』ような、そんな予感に満ちあふれていた。だからこそ、口から発せられた言葉はもはや一切の情と慈悲を排斥した、どこまでも冷たく研ぎ澄まされた音の連なりでしかなかった。
「――――」
***
レベル5と遭遇した現場へとしばらく歩いていくと、その道中に見知った人物が川岸に倒れているのを発見した。漂白地帯仕様の真っ白な服を着たそいつは、たしか蔵馬とかいう名前だったか。
「………………」
俺は息を吸う過程で枯れた声を漏らしながらも、その青年の元へと歩いていく。強化服がほぼ壊れかけなせいか、足元はふらふらとおぼつかない。それでも、俺は川岸の雨粒が跳ねる砂利を踏みしめながら、なんとか蔵馬の近くへとたどり着く。
「起きろ」
蔵馬は左腕にあの大楯を持っていた。だが、その盾は三分の一ほどが欠損しており、かろうじて『シールド発生器』が現存している程度だった。
俺は蔵馬の元まで歩いていき、濁流に下半身が浸かったままのそいつを引き上げていく。雨を凌ぐために近くにあった廃墟へと引き摺っていくと、蔵馬はようやく目を覚ましたのかむくりと上体を起こした。
「げっほげほ、おえっ、……ぺっ……」
どうやら蔵馬は右腕を骨折しているらしく、肘が反対方向に曲がっていた。蔵馬は喉奥に溜まっていた青い血痰を吐き捨てると、自分の口に簡単な布を咥えさせ、躊躇することなく肘を元に戻した。
――メキョッ、メキョメキョ。
「……いってェー、げほっげほっ、……ここは、どこだ? ……レベル5は……」
どうやらリアルな肌質に寄せただけの義手だったらしい。
蔵馬は一部の内臓だけを有機生体部品にした義体者なのか、激痛に苦しむような仕草は見せなかった。だが、それでも肘の機械関節を破損したらしく、右腕はピクリとも動かせないようだった。
蔵馬はすぐに視界を再起動して視界内の時計を確認し、レベル5との遭遇からどれだけ時間が経ったのかを把握しようとする。
俺はそれに対し、埃の積もった廃墟から軒先の雨だれを眺めながら、ボソリと呟いた。
「あれから十分経った。俺たちしかいないらしい」
蔵馬はさして驚くわけでもなく肩をすくめた。
「そうか」
「驚かないのか」
「そりゃな。あれだけの被害だったんだ。生きてるだけでも儲けもんだ」
「…………」
「そうしょげた顔をするな。あんたは生身だからあれだが、オレにはバックアップもあるし、死んでも一回ポッキリの残機があるからな」
蔵馬はそう言って立ち上がると、盾の具合を確かめながら再び電源を入れていく。その間も雨は激しさを増していき、ついには稲光が暗雲の中を走るようになってしまう。
雷鳴の後、濁流が一瞬の閃光に照らされ、崖際の樹木もろとも紫色に照らされてはどぷりと暗闇に落ちていく。それは上空に寿命が近い紫色のストリップライトが点滅しているようでもあった。
「帰らないのか」
「ああ、オレは帰らない。アイツに勝てる方法を思いついたからな」
「…………」
「オレは仕事柄、地下のQ粒子溜まりでぶくぶくに太ったサンドワームを討伐することがあるんだが、レベル5はあんなに弱いはずがない。せめて、レベル4くらいが妥当な評価だろう」
俺はそんなヤツになんで三ツ橋の役員が殺されたんだと疑問を抱くと同時に、蔵馬の自信がどこから湧いているのか少し気になった。
「文献の内容が盛ってる可能性もあるが、それでもレベル5というのは天変地異をも可能にするレベルの強さと書いてある。一度、あいつの殴りを受け止めたことがあるから分かるが、あれなら深部から来たサンドワームの方がまだ強い」
「………………」
「それに、ヤツには弱点がある」
「弱点?」
そう聞き返した俺に、蔵馬は深々と頷いた。
「あいつは熱に弱い。三ツ橋の簡易戦略兵器『箕二ヒドラ』が爆発したとき、あいつは自分の目を保護膜で覆って上空に跳んだ。つまり、アイツは自分の体温が上がるのを嫌ったんだ」
「…………」
「おそらく、ヤツの背中あたりにコアと直結した排熱口があるはずだ。チルドレンのレベルは高ければ高いほど、そのコアが生成するエネルギー量と熱量も多くなる。普通はそれに比例して体のサイズも大きくなるが、アイツは精々3、4メートル程度の大きさでしかない」
「つまり、無理に体のサイズを抑えている分、そこに付け入る隙があると……?」
「そうだ」
蔵馬は忌々しげに雨雲を見上げると、付いてこいとばかりにこちらを見ては、稲光走る砂利道へと歩きだした。雨宿りをしていた廃墟から出ると、途端に湿気と雨粒が顔に張りついてくる。獲物を見つけた蚊柱のように、どこまでも雨粒は追ってきては全身をずぶ濡れにしていく。
俺と蔵馬は上空に走る稲光が自分に落ちてこないことを祈りながら、互いに無言のまま泥濘んだ山道を歩いていく。この様子であればそう時間はかからない。何なら、ステラを見つけ次第、逃げてもいい。
レベル5がリリーを殺したという憎悪と、ステラを見つけ次第逃げ帰りたいという恐怖。そんな情けない自分への自己嫌悪がぐちゃぐちゃに入り混じりながらも、俺は足に纏わりつく泥を見下ろしながら歩きつづけるのだった。
だが、何かを見落としている。
あのレベル5は熱に弱い。蔵馬の観察眼を疑うわけではないが、それは本当にそうなのだろうか。
決定的な何かを見落としている。
そんな嫌な予感に苛まれながらも、俺は憎悪という首輪付きの奴隷のように、ふらふらとした足取りで歩きだす。




