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第5話 青年の暗愁


 エスカレーターから降りて辺りを見渡してみると、そこは幾層にも重なって出来た建造物のブロックが連なる“人工の渓谷”ともいうべき空間を形成していた。一切の陽光がさし込まない下層では、海底を連想させるほど薄暗くなっている。

 空路用の案内標識のパネルは、『s2‐D5』『E4』や『s3‐A1』『A2』といった文字と、複雑に入り乱れる矢印だけで構成されており、どう見ればいいのかまるで分からなかった。

 すると、すぐ隣の空路を凄まじい勢いで反重力車両が通過していき、そのあまりの風圧でステラの髪がバタバタとはためいた。だが、次の瞬間にはその車両はブロック群の間に消えて、あっという間に見えなくなるのだった。


 目に砂ぼこりでも入ったのか、俺はゴリゴリと感じる異物を取ろうと目をかく。そして現実拡張UIを展開し直してから、闇医者のいる方角へと歩き出した。


「セクター3、コンビナート地帯の電柱の明かりは全て「廃品回収業者スカベンジャー」が掻っ攫っていったから、深夜になると治安が悪くなる。セクター6までは中心街を通っていって、なるべく早く済ませよう」

「……うん……」

「今は五時半だから、あと一時間で日没か」

「……うん……」


 衛生管理という言葉を知らない飲み屋、廃棄済みアンドロイドを魔改造して働かせる娼館、自我がトリップするパブやクラブ、「廃品回収業者スカベンジャー」が経営するジャンクショップ、投棄された大量のコンテナの山。そのすべてが、ここの住民にとって必要な仕事場や住処であり、下層の大半がこうした光景で溢れかえっている。


 アリの巣のように縦横無尽に乱立する路地は、未だにベテランの傭兵であっても迷う者が出るくらいなのだ。とはいえ、それも中心部を除けばの話だが。


 この都市の下層には、中心部と呼ばれる比較的安全で地価の高いエリアが存在する。三大企業の本社ビルを線で引いた、小さな三角形エリアのことだ。外周区と比べれば強盗殺人などの発生率も低く、それなりに成り上がった傭兵はまず、ここに住むことを考える。


 俺たちはセクター3の工業区画を抜け、そのままセクター6へと最短で移動するために下層の中心部のさらに中央へと足を運んでいく。

 そこには、ここがこの街の中心だと言わんばかりに、反重力で浮く謎のモニュメントが置かれた広場が設置されていた。


 金属板の床にはときおり下が透けて見える強化ガラスがあり、そこには最下層との間に設置された空路を飛び交う反重力車両を見下ろすことができる。木々などの植物はなく、芝生なんてものはもってのほかとばかりに砂埃を吸った赤錆付きの鉄板か、無数の傷がついた強化ガラスしか広場にはない。


 さすが中心部というだけあってか、上下左右を見渡してみても反重力車の交通量はすさまじく、独特のモーター駆動音が鳴りやむことはない。いかに静音だからといって、ここまで行き交いが激しければちょっとした公害である。


 そんな広場でも、小銃をだるそうに持ちながら電子タバコをふかしながら、もし地下組織の襲撃でもあれば応戦ができるように待機している者たちがいた。ぼんやりと広場を照らす橙色の街灯の下で、何人かの武装した男たちがちらりとこちらを確認したのが分かった。


 不審者かどうかを判断しているのだろう。よく見てみると、彼らの近くには無個性タイプの人型戦闘用ロボットが何体か待機しており、微動だにしないまま一つ目の義眼をキロキロと動かしている。ボディーが灰色で塗装されていたため、近づくまで気がつかなかったが、彼らが持つ武骨な軽機関銃は異様なほどの殺気を放っていた。


「ステラ、あれって何やってるんだ?」


 俺はふと、そんな彼らに囲まれながら、広場のド真ん中で珍妙なポーズをとるやたらと軽装な人たちに目をやった。この時期には寒そうにも思える運動服だけを着ながら、彼らは敷かれたマットの上で音もなく何かのポーズをとっている。


「……ん、ああ、あれはね、サイバーヨガっていう義体者向けのスポーツなの。……わたしも家でLIVE配信に参加しながらやったことあるけど、本当に人工筋肉のコリとか神経のラグとかが減るんだよ! オーナーも今度、一緒にやってみようよ!」

「へェー」


 明らかに人体――この場合は義体なのか――が曲がってはいけない方向に曲げている彼らを見ながら、俺は合点がいったとばかりにポンと手をうった。


「後ろで警備しているのは【V.I.P(ビップ)_C.O.P(コップ)】の連中か。……ってことは、……ああ、なるほど。……あいつらは三大企業のどれかの社員ってことか。道理で警備がしっかりしてると思った。でなきゃNMM都市警察の金稼ぎ部門なんて、よほど金が余ってなけりゃ雇えない」

「それでね、それでね! 最近、流行ってるのは擬似オペラキャット脊髄ぶっこ抜きの姿勢ってやつで――」

「猫もどきの話なんてしたくないよ」


 俺たちは雑に会話しながらも広場を足早に抜けていき、地下通路や連絡橋を歩いていくと、やがてセクター6の見慣れた街へと入っていった。そして、一歩でも他の道に足を踏み入れようものなら、この地区から一生出られないのではないかと思ってしまうほど複雑な街並みに思わずため息をついた。


 それでも視界に表示される位置情報サービスの矢印に従って、薄暗い路地を抜け、地下へと通じる階段を下り、何百回と曲がりくねった路地裏の先で、俺たちはようやく目的地へとたどり着いた。


【ディール医院】


 そう書かれた看板を前に、俺はやっとたどり着いたとばかりに気を抜きそうになった。

 そのときだった。



『じ、冗談じゃねえ! あんなもん投与するなんて、頭イカれてるんじゃねえか⁉ 』



 直後、そのボロボロに錆びれたドアが凄まじい音と共に開け放たれ、そこから一人の男が叫びながら、何かから逃げるようにして現れた。そのあまりの剣幕に、一瞬、背中の銃を構えそうになるが、その這うような情けない姿をした男の格好を見て、その必要はないと判断して銃を納める。


「スカベンジャー……」


 ボソリと呟くステラに頷き、無言の肯定をする。


 その、ボロ雑巾のように汚れきったカーキ色のジャケットに、何世代前のだよと言いたくなるほど古いフルフェイス型の感覚拡張外部ユニット:【RABBIT】、戦闘用ですらない両脚の義足――よく見れば大戦以前に使われていたアスリート用のもの――を魔改造したものらしい。


 そして何より、ただの対人用のSMGを持っている見た目から判断するに『廃品回収業者スカベンジャー』らしい。あれではエイドフェイカーすら、まともに倒せまい。もはやアンティークの真骨頂とも呼べるレベルの装備に、俺は頭が痛くなるのを感じていた。


 大方、金を持っていないことを理由に、ディールに魔改造されたナノマシンでも投与されたのだろう。当の本人は悲鳴を上げながら、とても最初期世代の義足とは思えないほどの速度で路地裏へと走っていき、あっという間に見えなくなるのだった。


「身体強化剤か……」


 下層では、あの男のような格好をした連中に高確率で会うことがあるが、その際にもっともやってはいけないことが、自分よりも下の実力だと思われることだ。

 ヤツらは基本的に、矮小で狡猾、そして残忍な行為を平然とやってのける者たちの集まりだ。基本的には、ゴミ山から使えそうなガジェットを見つけては売りさばき、ときに女、子ども関係なく身体パーツを強奪するためには、容赦なく銃火器をぶっ放す外道どもというのがこの世界での常識である。


 だが、スカベンジャー同士の結束は固く、数多くの反都市勢力の蔓延る下層内部で、一つの勢力としての力を持つ。あの男が腹いせに、この病院を襲撃しようだなんてバカな考えに至らなければいいのだが。


「…………」


 ギィ――。


 錆びついた扉が閉まり始める。それを見て、俺は慌てて取っ手を掴み、再びそれを中へと押し戻した。もはや数々の弾痕が残る鉄の防弾扉も、錆止め塗装が禿げた箇所が強酸性雨に晒され、その部分が赤錆によって浸食されていた。


「入ろう」

「うん」


 若干の躊躇いの後、俺たちはその扉の中に入ることを決意する。

 ギィ――、と、再び閉まる扉の中の暗闇に、二人は呑まれるようにして消えていった。



             ***



 中に入ると、そこには少し前も見えないほど薄暗く、鼻をツンと刺激するホコリ臭い空間が広がっていた。俺たちが着ている強化服のエネルギー循環装置やステラの目、俺の義手も同様にして暗闇の中に浮かび上がり、周囲を緑色の蛍光色でぼんやりと照らしだした。


 ボイラー室。


 端的に言えばそう表現できるだろう。今は動いていないせいか、少しヒンヤリとした冷気が肌を撫でる。下層の更に奥地、言わば都市のライフラインが接続されていない区域では、こうした設備が置いてある建築物も多い。もっとも、ここのボイラー室はあちこちに穿たれた銃痕のせいで一部配管が損傷しており、使用することは出来なさそうだが。


『ううム……。やはり、グリスニウムをナノマシンに強制的にコーティングするだけでは、正常に機能してはくれなナイか……。となると、ヤハリ――』


 直後、その部屋の奥――ほんの少し開いたドア隙間から白い光が漏れており、その向こうから誰かの話し声が聞こえてきた。

 そのドアをそっと開けると、若干の錆びついたドア故の音が鳴る。だが、その声の当事者は気が付く様子もなく、仕方なしに俺はヤツへと話しかけた。


「久しぶりだな、ディール」

『強制的に移植するしか方法は……、……オオ! 実験動物:719番じゃなイか‼  事情はゲーテから聞いているゾ。また倒れたんだってナ!』


 ヤツは、バッ、と俺の方へと首を向け、それと連動するようにして照明が俺に集中する。


「久しぶりだな、カマキリもどき。また一段と気持ち悪い姿になったな」

『ハハハ、失敬失敬。被験体の間違いダッたね‼ 』

「……チッ……」


 無影灯による光を浴びながらも、俺はディールに半ば呆れ果てた表情を浮かべた。


【ディール】


 その声の主であるソイツは、天井から黒い無数のケーブルによってぶら下げられた頭部が、逆さになりながらも口を開いて言葉を発する、気色の悪い生命体だった。肉体の九割以上が機械に置き換えられ、あまつさえこの建物全体と接続している生物。


 黒板をひっかくような耳障りな機械音声を時折奏でながら、かつてヒトだったものは肉体を捨て、生命や倫理さえもを嬉々として冒涜し続けている。


『今日はゲーテとは、一緒じゃナイんだねェ?』


 直後、その首が俺の目の前までケーブルに繋がれたままやってきて、まじまじと俺の顔を覗き込む。すると逆に、俺たちもヤツを間近で観察することになるのだが、見れば見るほど気味の悪い生命体、という感想しか出てこない。


 艶消しのように黒色に塗られた人工頭蓋に、赤く光る人工の眼球。首から生えた黒色のケーブルが、その頭部の移動を担っている。逆に、体の役割をしているのが、その黒いケーブルから無数に生えた義手や義足たちだと言うのだから、心底、気味が悪いビジュアルだ。


「あいつはいないよ。今日は、俺とステラだけだ」


 そうぼやきながら、俺は傍に置いてあった、経年劣化で中の黄色いウレタンが顔を覗くソファーへ、背負っていた銃火器とジャケットを脱いで放り投げる。

 そして、黒色のインナー(強化服)の上に白のYシャツを着ただけの姿になりながら、ディールからの返事を待った。


『へえ、というコトは……、シャットダウン症候群が再発しタのか……』

「――ああ、だからそのテコ入れをしに来た。……はい、これ。俺がコツコツ貯めてたクーポン券「80%オフ」のやつ」


『ゲッ、いつのまにか、そんな貯まってたのカ。これじゃ、今日はタダ働きじゃないカ』

「そういうことだ。……ステラ、しばらく暇させるようで悪いが、そこで待機していてくれ」

「……うん、わかった」


 ステラに待機するように言うと、ステラは意外にも大人しく、その壊れかけのソファーへと腰を下ろした。


「――で、肝心の俺はどこに座ればいい?」


 俺はシャツの裾をたくし上げ、さっさと施術を終わらせたいという意思表示をする。

 だが、俺がいつも治療を受ける際にいつも使用している簡易手術台は、既に息をしてない先客で埋まっていた。


『アア、それは先日、死体販売業者から買い取った遺体なんダケドネ。どうニモ、健康状態が良好のヤツを競り落としたハズなんだが、うマく人形化できなくてねェ』

「……また業者にハメられたんだろ。はやくどかしてくれ。患者が死人よりも優先度が高いのは、西暦以前から決まってるだろうに」


 そうボヤキながら、俺は手術台に乗っている実験体をどかしてくれと、暗に伝える。


「……ん……」

『……ムッ……』


 ディールは面倒臭そうに被験体をどかしたあと、顎を器用に動かして『座れ』と指図してきたので、俺は素直に従った。


「よいしょ、っと。……にしても、ずいぶんと古い手術台だよな、うっかり上の照明が落下してくる、なんてことはやめてほしい」

『型番こそ古いガ、歴とした【月庵】でも使われていた手術台メーカーのだからな。よほど悪運の持ち主でナイ限りは、大丈夫ダロウ。……デ、少し胸を開けてもラウぞ。シャツのボタンを少し脱げ』


 俺は少し肩をすくめると、言われるがまま、シャツの第一、第二、第三、とボタンを取っていき第四ボタンまでを外そうとしたところで、ストップがかかった。


『……ああ、そこまででイイ。強化服も脱ぐ必要ハない。なにも、仰々しい手術なんぞをする気はナイからな。……しばらく準備があるカラ、そのままで待っていロ』


 少し肌寒いか、などと思いながらも、俺はその姿勢のままで待機することに。

 遠くのソファーでは、少し緊張した面持ちのステラがこちらをじっと見つめている。


 鮮やかな緑色の視線が痛い。

 ナノマシンの影響か、第六感なども特殊能力と呼べるレベルではないにしろ強化されているので、どうにもむず痒く感じてしまう。


 右隣ではディールが道具の準備をしているのか、継続的にカチャカチャという金属音が鳴っている。先ほど『手術をする予定はない』とは言っていたが、本当に大丈夫だろうか。


 そんな不安を募らせながらも、することがないので仕方なしに、首が回る範囲で部屋全体を見渡してみることに。すると、この部屋の隅に、ステラとはまた違った少女がこちらを覗いていることに気が付いた。


 ステラの鮮やかな緑色の蛍光色とはまた違い、その少女は少し澱みかかった紫色の瞳を持ち、下層の住人にしては比較的キレイな艶をした、茶色の髪を持っていた。


『レーン、ちょッと、そこにあるメスを持ってキテくれないカ?』


 レーンと呼ばれた少女はディールにそう尋ねられるも、気が付いた様子はなく、柱に顔を覗かせたままじっとしている。


「…………、――――?」

『……あア、そうカ。コウして、……こう、ト』

「――――ッ!」


 レーンと呼ばれた少女はしばらくポカンとした表情を浮かべていたが――何かを受信したのか、驚いた表情をした後に――そのままトテトテと可愛らしい足音を立てながら、裏の物置部屋へと走っていった。


『悪いネ。あの子はまだ聴覚ユニットの接続が悪くて、こうしてメッセージを送ってやらないと分からないんだ』


 しばらくすると、手に何かを抱え込んだまま帰ってくる。そして、後ろで馬の尾のように結わいた髪を揺らしながら、「ぁい、これ」と言いどもりながらも、三つほど液体の入ったパックをディールに渡す。

 すると、天井からディールの義手が何本か降りてきて、それを掴むのを確認すると、すぐに少女は恥ずかしそうにしながら走っていってしまった。


『安心しろ。点滴に見えるガ、ただの水分補給パックじゃなイ。ちゃんとした症状の進行を一時的に緩和させる薬が入ってイル。侵蝕系統の病気でなけれバ、これで時間稼ぎくらいはデキル』


 ディールが、俺の思ってもいないことを口ずさむ。

 別にそれを心配したような表情は、顔に出してなかったはずなのだが。


『マ、【月庵】の最高クラスの治療を施してモラえれバ、症状どころか一生病気にかからナイ体を手に入れることだって出来るからな。オレも元はあそこで働いていたからよく分かる。……マ、二度と戻りたくはないガナ』


「俺にはそんな大金はないし、これからも命を削ってまで稼ごうとは思わない。だから、こんな治療まがいの行為で、自分を騙しながら生きていくさ」


『そういうことダ。非常に謙虚でいいと思うゾ。ダガ――』


 やたらと上から目線な言葉に口角をへの字に曲げていると、ふいにディールが言いどもった。

 嫌な予感がする。


『今回はかなり長い期間、人工透析をサボってやがったカラナ。症状の進行がイツモより早い。通常よりもナノマシンの自動回復能力の上限と、治療薬の量を増やシタから、症状の進行自体は止められルとは思うガ――』

「なんだよ、はっきり言えよ……」


 ディールの煮え切らない返事に、俺は少し圧を強めてしまう。


『治療薬の量と比例して痛みは増していく。点滴を同じように針を刺すが、投与された際に伴う痛みはその比じゃない。マア、つまりハ……、今回の投与量は、麻酔しないとマズい』

「なんだ、新手の詐欺か? 麻酔で余分に金でも稼ごうとしているのか?」


 何をいまさら、そんなもの。

 脳内インプラントの痛覚鈍化機能で十分だろう、と俺は内心ぼやいた。


『イヤ、脳内インプラントしか搭載していないお前には、耐えられない痛みだロウ』


「しょうがないだろ、嫌なんだから。遺伝子を改造して体力を上げるとか、脳みそを集積回路に変えるだとか。まだ抵抗があるんだよ」


『未だに内部癒着パーツよりも外部ユニットの方が多いヤツなんて、お前くらいのものだろウ? いくら極貧ストリートキッズ上がりのチンピラでも、外部接続型ナンバーズなんて古臭いもノ、そもソも流行らないだろウに』


 ディールは見た目からして分かるとは思うが、全身の肉体を機械に置き換えている。

 むしろ、肉体を保っている部位など脳ぐらいしかないのではないだろうか。聞くところによると、この世界には機械化することこそが人間を次のステージに移行させるための必須条件だと考えている者は少なくないらしい。


『第七十世代あたりの旧式ゲノム編集や運カス「GRISPR」とかのバイオテックなら、オレもやりたくないと共感できるんダガ……。最近は、改造されたタンパク質が暴走して、宿主を喰い殺すなんて話もあるソウだからナ』


「つまり、それをしていない俺は痛みに耐えられるだけの許容値がないと、そう言いたいんだな?」


『アア、最悪ショック死スル』


 ディールが言うくらいだ。それ相応に痛いのだろう。

 だが、その言葉とは裏腹にディールは少し嬉しそうな声を出していた。そのことに若干引っかかっていると、ディールが再び口を開いた。


『まけといてやるヨ。その代わり、ソコの人形の『Q粒子崩壊炉』の点検代は、ウチでやってもらうシ、きちんとそっチの代金は払ってもらうからナ』


 そう言いながらディールは顎でステラを指し、その意図を俺に読ませる。


「分かった。そこまで言うなら仕方ない。……はあ、麻酔か。もう残高だって少ないのにな、次に目が覚めるのはいつになるのやら……」


『なに、三時間程度で投与は終わル。別に気負う必要はナイ。なんなら今日はここで泊っていけ。明日の始発で中層へと帰ればいい。……ただ、肝心の麻酔薬の置いてある棚のところマデ、レーンの手が届けばいいガ』


 するとディールは、先の少女を気遣うような発言をした。人間の心など、とうに捨てたものだとばかり思っていた俺は、内心驚きながらもレーンと呼ばれる先の少女を脳裏に思い浮かべた。

 レーン。ちょうど、ステラよりも数才さらに年下の少女。質素な白色の布地の服が、彼女の病弱なまでの貧相な体付きを覆い隠しており、何かに怯えているような顔を常にしていた。


「レーンか」


 その姿に、かつて会ったことのある一人の少女の姿を無意識のうちに重ねてしまい――


『マダ、あのことを引きずっているのカ?』

「……その話は、やめろよ……」


 それを僅かな気配で感じ取ったディールが、案の定、俺の顔を見つめながら言及し始める。

 無意識のうちに、誰かの拳を握りこむ音が聞こえる。それは乾いた音だった。


『あれハ、どのみち助けられなかっタ。オレたち貧民ガ立ち向かえるレベルの相手じゃナかった。……ソレハ、あいつらだってキット、分かってくれるはずダ』

「…………」

『それトモ、妹の方か? ……ダガ、あれはそもそも侵蝕ステージ末期の患者で、どのみち助からなかったダロ。まア、想定外だったノは、月庵の回収車が予想以上に早かったことくらいだが――』

「……頼む、黙れよ……」


 不意に喉が震え、どす黒い感情が溢れ、衝動に任せた音が言葉となって口から零れ落ちる。キリのように鋭く、氷よりも冷たく、吐き出された言葉は、直にディールへと向けられた。

 だが、俺の感情の吐露をぶつけられた当のディールはどこ吹く風で、尚も俺の精神を逆撫でするような言動を続ける。


『だからだロウ? あんな高い金払ってマデ、ソコの少女の姿をした人形を助けた理由ハ』


 ステラを暗に指しているのだと、俺は察した。

 ふとステラと目が合い、息をのむ。薄暗い地下室で、緑色の鮮やかな瞳は俺の目を見ている。無機質で、感情の見えない義眼はこちらを向いている。俺は視線を逸らした。


「…………」

『どこまでモ、お前は過去に生きているンだな。別に、お前が殺したわけじゃナイ。それは、あいつらも分かったくれるダろうに』

「…………」

『――ソウカ、悪かったナ』


 一切、言葉を発さない俺を見て、ディールは観念したように首を振りながら、俺の過去を覗き見る行為をやめる。天井から徐々に降りてくるマスクを付けながら、俺はなおも口を堅く閉じて、無言を続ける。


『――針、刺スぞ』


 やがてディールのその言葉と同時に、右腕に異物が入る感触と、痛みなく中に混入される液体が違和感を増大させる。直後、マスクの中に気体の麻酔薬が充満し、ソレが体内に侵入したのを知覚したときには、俺は眠るようにして気を失っていた。




 夢を見るときは、いつも悪夢だ。

 過去から目を逸らすなと、罪人を罰で以て裁こうとする制裁者がどこかで居座っているように。


 だが、今回ばかりはありがたいことに夢は見なかった。

 何もない、真っ暗な空間だけが広がっていた。


 その虚無のみが広がる空間には――、自分の意識さえもなく、自我さえも芽生える余地もない。どこまでも「虚無」だけが蔓延る世界。


 だから起きたとき、最初に思ったのは「死んだらこんな感じなんだろうな」という感想しかなかった。同時に、俺はかつて仲間をそんな空間に追い込んだことに、胸が締め付けられた。

 せめて地獄だけでもあったほうが、よっぽど報われただろう。そこで、あのとき何故救ってもらわなかったと責められる方が、よっぽど救われただろう。



【■■■■■■、□□□□――――】



 でも、何故だろう。大切な何かを忘れてしまった感覚だけが、胸の奥で疼いている。

 忘れてしまった。忘れてはいけないこと。


 ――記憶だろうか。あいつらは、もういないのに。あの何もない空間に閉じ込められている。

 怒ってくれた方が、軽蔑してくれた方が――、よっぽどマシだ。


 あいつらもきっと、そうしたかったに違いない。


案内標識の見方。

「ABC」などの大文字アルファベットは高度。

「s」の文字はセクターの略。数字は地区名。

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