プロローグ 「方舟」
宇宙まで二時間三十分。
俗称で『へその緒』とも揶揄される軌道エレベータは、たったそれだけの時間で搭乗した人間を宇宙まで運んでしまうらしい。
もっとも、民間人が宇宙観光を目的に『国際宇宙ステーション』に滞在するだけで、五百万円などというあまりにもバカらしい資金が必要になるのだとか。
西暦二〇三五年。
度重なる核戦争と環境破壊によって南極の氷がほぼ溶け、海抜が数十メートル規模で上昇した。
また、大地震や地盤陥没、台風に伴う水害などが相次いで発生し、ついに東京23区全域は未曽有の大洪水によって水没した。
日本政府は同年、国際社会からの多額の資金援助を受け、水没した東京都全域を丸ごと再開発する国策事業を発表。約八年もの歳月を得て、ようやく海上都市の建設の九割が完了した。
海上都市は、水没した港区、江東区を筆頭基盤に、埋立地である羽田国際空港、浦安の某ネズミの国ランドや海の森公園等をすべて覆い、尚且つ周囲を浮体で建造された超大型半浮体構造物だ。
そして、その中央には天まで――文字通り宇宙まで――伸びる黒い柱のようなものがある。それこそが宇宙まで繋がる軌道エレベータである。
東日本大震災、南海トラフ地震に伴う富士山大噴火、そして首都直下地震。
いつか弾けると国際社会が予想していた日本の高度経済成長は――三度もの大災害を受けて速度こそ衰えたものの――失速することなく今尚続いている。
日本政府はついに建造を完了させたその海上都市の名を『新東京アクアリウム』と改称。政治、経済、文化、教育等多用な中枢機能を再集積し、以前よりもさらに高度かつ高密度な国際都市へと発展を遂げた。
核戦争は結果として技術の爆発的な進化を促した。
戦争という制限の外れた環境下で暴走した科学技術は、人類史に数々の汚点を刻みながらも、その恩恵を存分に人類の文明発展へと生かした。
例えば、高度に発展した人工衛星の民営自由化により、地球全土の死角をなくすほどの構築されたネットワーク網は、砂漠や荒野、南極のど真ん中であろうと即座に情報を提供させることを可能にさせた。
結果、あらゆる共産主義的な独裁政権は検閲・情報統制ができなくなり、革命やクーデターによって資本主義の台頭を余儀なくされた。
隣国の香港でも日本に倣って巨大建造物の建造に取り掛かったらしい。ソビエト連邦もまた、選挙で選ばれた指導者が巨大建築にお熱らしく、国策として放射能汚染のない土地にシェルターを兼ねた地下都市を建造するのだとか。
それらはすべて国を跨いで活動する企業集合体がバックにおり、彼らの出資によって今日の世界経済は動いている。
世界は冷戦末期の核の後遺症をいまだ引き摺りながらも、何とか、その痛みを初めて経験した日本を筆頭に復興へと乗りだしていた。
時は流れ、――西暦二〇四三年。
海上都市『新東京アクアリウム』に向け、六両編成のモノレールが走っている。
近くには水没した廃墟の街の中に林立する洋上の風力発電が並び、海面は工業油で虹色に泡だっている。
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車のなか、四方八方からの圧力で、主人公『黒野』は今日も学生服のまま、その光景を両足を浮かせた状態で眺めていた。
カクヨムで前日譚「異邦の運び屋」を書くので、しばらくこの作品は放置します。