プロローグ 「あの世を夢見た者たち」
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人間は毎晩、死んでいる。
眠りにつくたびに、脳の神経細胞は入れ替わり、昨日の自分と明日の自分はまったく違う別人になる。
肉体の成長とともに精神は変化し、やがて幼少期や昔の自分はうっすらと自分の中から消えていく。成仏する。
何を馬鹿な事を、と。
眠ることと死ぬことは違う。魂があるのだから死んでなどいない。
――そうだろうか?
今の自分が『赤ん坊のころの自分』と同じ、『少年のころの自分』とまったく同じだと、本当に言い切れるだろうか。
肉体の成長とともに精神は変化し、やがて『昔の自分』は記憶とともにうっすらと自分の中から消えていく。
成人すれば子どもの気持ちが分からなくなり、感性もまた大人になっていく。
子どもだったころの自分は死に、老齢になるにつれ、青年だったころの自分も死ぬ。その推移を『眠る』という工程で滑らかにしているだけにすぎない。
工事現場の建物が完成してから日時が進んだのを自覚するように、年に一度の健康診断で自分の身長が伸びたことを知るように……人間は急激な変化には敏感でも、毎日すこしずつ進む変化には気づけない。
だが、それならば人格、精神、魂を「0」と「1」の二進数に変換し、義体という器に注ぎ直す『義体化手術』も本質的にはそれと変わらないはずだ。
ただ、違和感に気づきこそすれど、それは一度にすべて入れ替えるかどうかの違いでしかない。
不自由な肉体からの解脱という点で見れば、義体者こそが魂を受け継いだ【人間】なのだと。
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すでに日は暮れ、夕日も地平線の奥へと隠れてしまった漂白地帯で、ポツンとひとつの明かりが灯っている。
紫色に変わりつつある空に、点々と西日を浴びて赤く焦げた雲が漂っている。
若白髪が目立つ眼帯をした青年と、イカ墨パスタのような青年が向かい合うようにして座っていた。
近くには大型のトレーラーが停車しており、その中から誰かが談笑する声が聞こえてくる。暖色系の証明が射し込む小窓からは、ときおり人の影が楽しそうに行き来しているのが分かる。
肌をなでる夜風は冷たく、パチ、パチ、と、火の粉舞う焚き火からは温もりを感じる。やけに明瞭な夢だなと月庵は思った。
『それが、お前の《パルスジェイド》の仕様なんだろ。気にすんなよ。お前だけが苦しいわけじゃない』
イカ墨パスタのような髪をした青年は、バフリと煙草のような冷却剤をカバのように鼻から吐くと、やがて両手を伸ばしながら空を仰ぎ見た。
『オレなんか毎回のように、焼死体みたく燃やされる幻覚が見えるんだぜ? しかも義体者なのにちゃんといてェの。……こいつなんかは、接続するたびに海底に引き摺り込まれて水死体になる夢を見るらしい。――そうだろ? 笑っちまうよな』
イカ墨パスタのような髪の青年は、おちゃらけた様子で、自分の左目がよくみえるよう下瞼の皮膚を指でひっぱった。
向かい側に座る青い目をした青年は、焚き火に廃材をくべながら小さく笑った。右目に眼帯をし、青い目をしたぼさぼさの白髪の青年は、その髪を後ろで結わいでいた。
『しゃーなしだ。それがモノリスの副作用だからな。深部に行けば行くほど、接続するための対価が必要になる。そのひとつが人間が本能的に恐れる死の恐怖を経験させることなんだろう。……警鐘を鳴らしてくれてるんだよ、きっと』
どこまでも底の見えない海底に、ひきずり込まれる感覚なんだ。白髪の青年がそう言うと、イカ墨パスタのような髪の青年はせせら笑った。
『にしても、落下し続ける感覚ってのは怖いな。ほら、あれだろ? ぐちゃって内臓が潰れたり、足とか全身の骨がめちゃくちゃに折れたり……』
人類の生息域のほとんどが消えたこともあってか、空にはまだ夕方だというのに星が輝いて見える。文明の灯火が消えた代わりに、星明かりは増すばかりだ。
『それを含めての副作用だからな。仕方ないさ』
月庵宗次郎は最後に不器用に笑うと、その記憶を後にした。
――場面が変わる。
『宗次郎。……まさか、オマエが裏切るとはな』
噎せ返るような鉄の臭い。返り血の生温い感触に気がついた瞬間、月庵宗次郎はひどく狼狽した。
無意識のうちに息が上がり、父だったものから刺し抜かれた刃はぬらりと鮮血で濡れ、それは刃先から滴り落ちて地面にいくつかの染みをつくる。
『義体化手術など、あんなものは所詮……精神を削るものに過ぎんぞ。……肉体ではなく、精神を拷問でもするように削り落としていく。気づいたときには魂の核まで削って廃人になるだけのデジタル凌遅刑だ』
凌遅刑。
昔の拷問のひとつに、人間の肉体をすこしずつ削いでいくものがある。
『あ』
出血箇所は塩漬けにすることで止血し、できるだけ長く苦しみを与え続ける。まずは指、四肢、太い血管を避けて骨を削る。死なないようにゆっくり、じっくりと削っていく。
『は』
気づけば、鋭利な刃は抜かれ、白衣を着た男は腹を抱えながらよろよろと後退し、やがてその場に倒れた。
『ははは、はははは……』
口元が引き攣っている。
乾いた笑いはどこまでも広がっていく。
夢だ。
これは、夢だ。
男が壁によりかかりながら、怨嗟に満ちた瞳をこちらに向ける。見てはいけない。死人に精神を削られる。そう分かっているのに、宗次郎は倒れてもなおこちらを睨む男の顔から目を離すことができなかった。
男は血を吐きながら、口を開いた。
『……宗次郎、よくもやってくれたな』
***
「――――つッ、あああああああ――――――ッッッ!!!!!!」
バーカウンターで覚醒した月庵は、その瞬間、発狂と同時に何かを払いのけるようにして腕を放った。発作のようにして払った腕が、バーカウンターの上に置かれていた高価なグラスや瓶たちを巻き込み、床に中身をぶちまけながらガラス片へと姿を変えていく。
三週間ぶりに寝てしまっていたらしい。
義体者は悪夢を見やすい。義体化する前にやり残した『後悔』や『未練』といった感情に紐づけされた記憶が呼び起こされるからだ。
息を整える。
本来、空気がなくとも生きられる義体ではあるが、嗚咽する子どもをあやすように自分の肩をわざとらしく上下させて平静を保っていく。
バーチェアに再び座りながら、上下していた肩が落ち着いていき、月庵はタメ息とともに焦点の定まらない義眼を抑えるようにして両手を瞼にあてがった。
『……さま、月庵 宗次郎さま。五日後のC3サミットに向け、ゼロ・バースの本格的な運用開始を並行して行う件についてですが、やはり三ツ橋とS.Sともに動きがあり、そのことについて報告を……』
そのとき、月庵の視界の端にTELコールの通知が出現し、留守電が再生される。声の主はあの秘書だった。そうだ、いまや義体化手術という餌につられた者たちの魂を『ゼロ・バース』と紐づける準備は整っている。
ゼロ・バースの運営さえ軌道に乗せてしまえば、後は月庵という企業が介入するまでもなく、人々はこのシステムの普及を望むようになる。
「…………」
分かっている。
理解もしている。共感だってできる。
だが、それでも一抹の不安が拭えないのは、月庵自身が自分が人間だと胸を張って言えないからか。義体者は元人間だったという点において、最初から空虚蒙昧で魂を持たずに生まれてきたアンドロイドとは違う。
その考えだけが彼にとっての哲学であり、唯一の心の支えでもあった。
だが、月庵宗次郎は『院長』という地位を持つが故に、アンドロイドと義体者を区別する『IFA(identification FRENDS or ANDROIDS)システム』がいかに虚構的なものであるかも知っていた。義体者は肉体的・精神的に成長できない。その点だけで言えば、実質的にアンドロイドと義体者の違いなど――
「……いや、いいや違うッ!」
冷却肺から機械音声を絞りだしながら、月庵は渋い表情でバーカウンターに手をつくと、義眼の焦点がなにかを見つけたようにして一点に留まる。視線の先にあったのは、消毒用のアルコールボトル。喉の渇きなどまったくないが、月庵はせめてもの自傷行為として瓶入りの高濃度アルコールをいっきに煽るのだった。
「――――」
空になったボトルを広い自室の床に放り捨て、ふらふらとゾンビのような足取りでローベッドへと倒れ込む。本来、義体者にはできないであろうクマが瞼の下にはできており、それは月庵が見た目以上に疲労困憊していることを表していた。
「……オレは、……義体者こそが人間なんだ」
ベッドルームには上層の夜景を眺望できるFIX窓がはめられている。
その呟きは誰かに聞かれることもなく消え、遠くで航空障害灯の赤い光が点滅しただけだった。
追記。
コロナ感染でぽっかりと空いた分が年明けに伸びると思います。
できるだけ早く書きます。よろしくお願いします。




