神隠し
私はいつものように森を歩いていた。
柔らかな木漏れ日と土の匂い、風に揺れる葉音。それらが胸の奥に静かに染み込んでくる。自然の中にいると、不思議と心が落ち着くのだ。小鳥のさえずりに耳を澄ませ、小動物たちの気配に笑みを浮かべる。ときどき足元に寄ってきて、ほっぺにすり寄ってくる姿がたまらなく愛らしい。
子供の頃から、この森が好きだった。何にも縛られず、ただ自由な気持ちになれるから。両親は「森は熊やイノシシが出るから危険だ」と言って心配していたけれど、こんなに懐っこくしてくる動物たちが、本当に危ない存在だろうか。私にはそうは思えない。
――ブブッ。
ポケットの中でスマホが震えた。アラームが鳴る時間。学校に行く時間だ。
「うーん、やっぱりもう少し早く起きた方がいいですよね。その方が、もっとみんなと一緒にいられますし」
自分に言い聞かせるように呟いて、アラームを止める。そして、森の仲間たちに向かって笑いかけた。
「じゃあ、行ってきます。また放課後、来るからね」
「ぴー! ぴぴー!!」
「グフッ、グファァ!」(←熊の鳴きまね)
「キューン! キュウウーン!」(←狐の鳴きまね)
「もう、毎回引き止められるのは嬉しいですけど……そろそろ慣れてください。帰ってきますから」
名残惜しそうな動物たちに手を振り、私は森の出口へと歩き出した――その瞬間だった。
「あれ……?」
ふわりと目の前が暗くなる。
「め、目眩……?」
一歩踏み出した足が地面を捉えきれず、私は崩れるように倒れ込んだ。
* * *
――どれくらい時間が経っただろう。
意識が戻ると、私は見知らぬ場所にいた。
真っ白な空間。天井も床も、方向さえもわからない。ただ、白がどこまでも広がっている。
「気がついたみたいだね」
静かな声が聞こえて、私は慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、白い服をまとった青年だった。整った顔立ちに、どこか浮世離れした雰囲気をまとっている。
「え……あの、あなたは……?」
「私はアーギス。君のところの神社が祀っている神様だよ」
「……はぁ、そうですか」
正直、神様なんて急に言われても信じられない。でもこの空間もこの人も、どうにも現実離れしていて――ほっぺをつねってみる。痛い。夢じゃない。
「信じてない顔だね。まあ、当然か」
「……神様だと名乗って、信じてもらえると思ってらっしゃいます?」
「全然思ってないよ。けど、事実だから言っただけ」
なんなんだこの人……。いや、この神様? しかし私の家が神社だと知っているのは、確かに引っかかる。近所の人間ならともかく、こんな空間にいて私を知っているなんて。
「ふふ、ようやく信じ始めたね。やっぱり頭の回転が早い」
「……思考を読まないでください」
「ごめんごめん。でも君が状況を理解しやすいように、ちょっとだけね」
「……で、この状況、どういうことですか?」
私は真剣な声で問いかけた。
アーギスはうなずき、少し表情を引き締める。
「君は、神隠しにあったんだ。そして今は、地球とは別の次元にいる」
「……神隠し?」
「うん。そしてその理由なんだけどね……。地球には“魔力”というエネルギーが存在している。でも今、それが危機的な状況なんだ」
アーギスは続けた。地球の魔力は本来、自然に消費と生成を繰り返すものだった。しかし今は、増えすぎてしまっているのだという。このままでは、ある日突然、爆発的に暴走し、地球ごと消滅してしまう。
「本当は地球でも魔法文明が発展するはずだったんだ。でも、とある天才錬金術師が“化学”という全く別の道を切り開いてしまった。それはそれで凄いことなんだけど、結果として魔力は使われず、ただ溜まり続けている……」
「……なるほど、そういうことですか」
「うん。そして、その魔力を別の次元に持っていって、消費してくれる“器”が必要だった。それが、君ってわけ」
「……私が、ですか」
「そう。君には向こうの世界で生きてもらう。そして、魔力を使いながら自由に暮らしてもらえたらって思ってる」
「魔法、使えるんですか?」
私の声に、アーギスはニッと笑った。
「向こうは“ラノベ的な世界”だから、たいていの人は使えるよ。でも、君が使えるかどうかは……運次第だね」
「運ですか……ちょっと不安ですね。でも、まあ……拒否できなさそうですし」
「うん、ごめんね、それはもう決まってるんだ」
「……はぁ」
「でも、君には“おみくじ”を引くチャンスがある。その結果次第で、どんな特典をもって転移できるかが決まるよ」
そう言って、アーギスは大きな箱を差し出してきた。
「大吉なら英雄や勇者として転生できる。大凶なら、鉄の剣一本とポーション少し、かな。出現確率は……まあ、ちょっと渋めだけど」
「……うちの神社より厳しいかも」
「それでも、やってみなきゃわからないよ? さあ、引いてごらん。腕を入れて、一度引いたらやり直しはなし」
私は深く息を吸って、目を閉じる。
これから、私の運命が変わるのだ。
そして――そっと手を箱の中へと伸ばした。