6 牧場
アデヤントが準備してくれた隠れ家は、旧首都の南にある港町、ヴェンドーンの郊外にあった。
わたしとフロイナは沢沿いの小道をのんびりと辿った。ちょうど紅葉が終わりかけた頃であり、沢は鮮やかな紅や黄色、赤紫の葉をくるくると回転させながら下流へと運んでいった。いまだ枯れ藁色の葉を茂らせている雑草もすでに種を宿し、冬支度を万全に整えており、穴ぼこや水溜りを避けるために道端に踏み込むと、足元から綿毛をつけたような種がいくつも舞い上がり、あるいは小さな実が莢から弾けてぽんぽんという小気味よい音とともに、陽気にばら撒かれるのだった。
小道はやがて狭い谷あいに入り、やや登り勾配となった。だが坂は長くは続かず、谷がぐっと広がるとともに再び平坦となる。そこが、終点だった。
「きれいなところですね」
フロイナが、わずかに息を弾ませながら言った。
同感であった。そこは小盆地と形容してもいいくらいの山間の平地であった。ほぼ正面に赤い屋根の古そうな館がひとつ、通せんぼをするかのように建っている。その背後には黄色い牧野がややうねりながら広がり、牛小屋とおぼしき細長い建物が、数棟散らばっている。そこかしこでは、薄茶色の牛がのんびりと草を食んだり無意味に鳴いたりしており、それは遠目に見ると濃い玉蜀黍のスープをよそった大皿にひとつまみの赤砂糖を投げ入れたようにも見えた。沢沿いには畑が並んでおり、その一部に植わっている作物はいまだ鮮やかな緑を見せている。
わたしとフロイナは、館へと通じる小道をてくてくと歩いた。道の両側に設けられた白塗りの低い柵はまだ新しそうに見えたが、横木を渡すために二つずつ平行に打たれた釘はすでに錆付いており、錆が茶色く流れた痕がうっすらとついていて、さながら泣いているかのように見えた。
「いらっしゃい、先生!」
出迎えてくれたのは、二十歳くらいの青年だった。初めて見る顔だが、偽名をはじめ彼についてはボンパールから詳しく聞かされている。わたしはにこりと微笑むと、演技を開始した。
「久しぶりね、ホイト君」
わたしとホイト君はフロイナそっちのけで旧交を暖めあう演技を続けた。ホイト君がジョレス・スタタムの同僚であった教師の消息を尋ね、ジョレス先生がかつてホイト君と一番仲がよかった女生徒のその後を訊く。
「……で、こちらがフロイナ。フロイナ、こちらがホイト君よ」
適当なところで、わたしはフロイナをホイト君に紹介した。フロイナが、ちょっとはにかんだように挨拶をする。
「事情は先生のお手紙で存じています。しばらくうちでくつろいでください。なに、きっとうまく行きますよ」
「ありがとうございます」
ホイト君の優等生的発言に、フロイナが頭を下げる。
「とりあえず入ってください。家族に紹介しますから」
ホイト君に促されて、わたしとフロイナは館の中へと入った。すぐに、ホイト君の家族が現れた。中年の夫婦と、わたしと同年代の女性だ。ホイト君が、両親と姉だと紹介してくれる。
姉はラディスだった。そう、酸味の強い濃いコーヒーが大好きな、わたしの同僚である。
「どうぞ自分の家だと思ってくつろいでください。立ち話もなんです。食堂でなにか飲みながら話しましょう」
ホイト君の父親が、言う。
「あたしがコーヒーを淹れてあげる」
ラディスが言って、わたしに向かい意味ありげな微笑を投げてよこした。
メスタ・マークランドの部下の襲撃に備えてアデヤントが手配してくれた人員は、全部で二十人に及んだ。何しろ相手は魔術を使う可能性があるのだ。用心に越したことはない。
軍隊なみの装備を整えた彼らは、沢のさらに上流にある放棄された炭焼き小屋に潜んでいた。牧場に至る道を見通せる山頂に常に分遣隊を配置し、回光信号を使った早期警戒/通報システムを構築してある。
わたしとフロイナは家事を手伝ったり、牛の世話のやり方を教わったりしながら、のんびりとした時を過した。飼われている牛はわずか十数頭であり、半分は仔牛だった。もっとヴェンドーン市に近い土地を手に入れたので、長兄夫妻がそちらで多くの牧夫を雇って乳牛飼育を手広くやっており、ここではもっぱら仔牛の飼育と肉牛の肥育を行っているという設定なのだ。
その男が近づいてくるのに気付いたのは、フロイナの方が早かった。
わたしとフロイナは、干草つくりに励んでいた。ホイト君が荷馬車で運んでくる刈り取られた牧草を荷下ろしして、地面に均等に撒き散らし、天日で乾燥させるのである。ほどよく乾いた干草は、倉庫に詰め込まれ、青草のない冬場の牛たちの餌となる。
「あら」
山積みにされた青草をフォークで崩していたフロイナが、手を止めてかなたを見やる。わたしも動きを止めると、フロイナの視線の先を見た。
沢のほとりの小道を、人影が近づいてくるのが見えた。上流方向から歩いて来たらしい。
わたしは陽光に眼を細めながら、人影を観察した。背格好は、男性だ。身なりからすると農民か猟師に思える。
「近くの猟師さんでしょ」
わたしはそう言うと、作業を再開した。フォークで草の山を崩すたびに、陽光をたっぷりと吸い込んだ青草特有の、決して不快ではない青臭さがぷんと鼻をつく。
むろん、わたしは作業を続けながら接近する男を監視しつづけた。たぶん警護の一員だとは思うが、万が一ということもありえる。
やがて、男が沢沿いの小道を外れ、こちらへと近づいてきた。明らかに、猟師だ。背に負っている石弓の一部が見て取れたし、猟師のトレードマークといえる獲物を入れる網袋を下げている。中身は空っぽだったが。
フロイナが、一瞬許可を求めるかのようにわたしを見てから、猟師に向かい挨拶した。だが、猟師はそれを無視した。明らかにわたしたちが視界に入っているのにもかかわらず。
それを見たわたしは肩の力を抜いた。よほど近づくまでお互いを無視する、というのが味方識別の取り決めのひとつだったからだ。近在の猟師ならば、挨拶もせずに私有地を通過するはずもないし、もしメスタの部下が偽装した姿であれば、怪しまれないために愛想よくするのは確実である。常にフロイナのそばについていたために、わたしは警護の連中との顔合わせを行っていなかった。ゆえにこうした識別法が必要なのである。
挨拶を無視されたフロイナが、不満顔でわたしを見る。わたしは彼女を安心させようと、微笑みながらその脇に立ってやった。金色の髪に青草が一本へばりついているのに気付き、世話好きの姉のような手つきで取り去ってやる。
まだ歩けない赤ん坊でも一分あればたどり着けるほどの距離まで近づいて初めて、猟師がわたしたちをまともに見て笑顔を作った。いったん立ち止まり、恭しげに帽子を取ると一礼する。
「これはこれは、お嬢さん方。干草作りにはよい日よりですな」
わたしとフロイナはあいまいに挨拶を返した。
帽子を被りなおした猟師が、一瞬横顔を見せながらぴしゃぴしゃと太股を平手で叩いた。警護の者です、という合図だ。わたしは了解のしるしに軽くうなずいた。
「牧場主さんはご在宅かな? ちょっと、西の森の猟のことで相談があって来たんだが……」
「館にいらっしゃいますわ」
わたしはやや緊張を覚えながらそう答えた。西の森、というのは警戒を意味するキーワードだったからだ。おそらく監視の者がなにかの兆候を捉えたのだろう。この猟師は今後の打ち合わせに来たに違いない。
猟師はまた帽子を取ると、わたしとフロイナ別々にお辞儀をしてから、歩き出した。牧草地を突っ切り、館への最短ルートを去ってゆく。
「作業を続けましょう」
わたしは地面に突き刺したフォークを抜いた。
人数は十二名。おそらく昼以降に襲撃があるものと認む。
警護の連中の判断はこうであった。
今回の作戦は単なる要人警護ではない。襲撃者をなるべく多く無傷で捕らえたいし、またフロイナにも守られていたことを見せ付けなければならない。
わたしは昼食のために館に戻った際に、手早くラディスと打ち合わせた。午後は守りやすい館の中にいたほうがいい。
昼食の席で、突然ホイト君がスタタム先生の講義を久しぶりに受けたいと言い出す。わたしは喜んでそれを受け、ラディスとフロイナにも出席を強要した。ラディスは予定通り固辞したが、フロイナは聞きたいと言ってくれた。
かくして、昼過ぎから二階の一室で即席の授業が開始されることとなった。窓からは、ふもとから牧場へと至る小道が眺められる。……絶好の観戦ポジションである。
わたしはホイト君に請われるままに、北西海域諸島に属する小国家群の地理に関する講義を始めた。十八番のひとつだから、これならメモなしでもしゃべることができる。話が北から三番目の国、カザ公国に達したあたりで、ホイト君が窓外を指差した。
「だれか来ましたね」
わたしはすぐさま窓にへばりついた。小道を、十数名の男女が歩いてくる。いずれも、かなりの量の荷を背に負ったり肩に担いだりしている。収穫物を売りに来た農民の一団と見えないこともない。歩いているのが街へと通じる街道であれば。
フロイナも近寄ってきて、窓外を眺め始めた。わたしはちらりと背後を振り返った。ホイト君は隠してあった布包みを引っ張り出している。中身は剣である。万一のための用心だ。
「ひっ!」
フロイナが、小さく驚きの声をあげた。
不意に小道の両側にある茂みが割れ、そこから十数名の武装兵が現れたのだ。ほぼ全員が石弓を構え、太矢の鏃はぴたりと侵入者たちに向いている。むろん、警護の連中である。教科書通りの、完璧な待ち伏せだ。
お互いの動きが、ぴたりと止まった。警護の連中が降伏勧告をしている声が、かすかに聞こえてくる。
「いったい……」
フロイナが、おどおどとした視線をわたしに投げかけてくる。
その時だった。
侵入者側が動いた。一斉に四方へと身を投げ出し、石弓の狙いを外そうとする。
警護の連中はプロであった。慌てずに狙いを付け直し、射る。半数以上が命中し、苦悶の叫びが響く。
警護の連中は、これも教科書どおりに石弓を捨て、抜刀した。二人一組となり、生き延びた侵入者に躍りかかる。事実上、勝負はついた。あとは、どれだけ生きたまま捕らえられるかが問題だ。そう、わたしは確信した。
だが、わたしの見込みは外れた。
石弓の斉射に生き延びた数名の侵入者は、果敢に反撃に出ていた。荷物から棒状のものを取り出すと、一端を突っ込んでくる警護の者に向ける。
次の瞬間、棒から火と煙が噴き出した。火は一瞬で消え、煙もすぐに広がって薄まってゆく。厚い金属板を叩き合わせたような大きな音が、いくつもわたしの耳に届いた。
数名の警護の者が、さながら見えない矢に貫かれたかのように、相次いで倒れ伏す。
……魔術か?
わたしは魅入られたように窓辺に立ちすくんでいた。棒はさらに火と煙を吐き出し、残る警護の者をすべてなぎ倒した。
魔術ではない。武器だ。
わたしは混乱する頭で必死に侵入者の武器を分析しようとした。原理は定かではないが、おそらく石弓と同じような用法だろう。棒を相手に向け、狙う必要があるようだし、一度に倒せるのも一人である。
いずれにせよ、作戦失敗だ。逃げ時である。
「フロイナ! 逃げるよ!」
わたしは呆然と突っ立っているフロイナの手首を取ると、駆け出した。すでに扉を抑えて待っているホイト君から長剣を受け取ると、そのまま廊下に走り出る。
階段を駆け下りたわたしは、迷わず裏口を目指した。
「走って!」
転がるように外へ出たわたしは、フロイナにそう叫ぶと、全速力で走り始めた。息が切れてきたところで、振り返る。フロイナも、遅れずについてきていた。追っ手の姿は見えない。
フロイナを伴ったわたしは、そのまま森の中へと逃げ込んだ。作戦失敗の場合は、各自脱出ののち、ヴェンドーンの街の中央広場に集合、という段取りになっている。森に入ってしまえば、追っ手が掛かったとしても撒くことは容易だろう。少々厄介だが、ヴェンドーンには森を踏破して行くしかない。
だが、わたしの見込みはまたも外れた。
森に踏み込んだとたん、例の火噴き棒を携えた二人の男と出くわしたのだ。……別働隊が牧場を包囲していたに違いない。罠に誘い込んだつもりだったが、嵌められていたのは実はこちら側だったのだ。
男が二人とも、火噴き棒をわたしに向けた。わたしは左右どちらかに跳んで狙いを狂わせようと、わずかに膝を曲げた。
間に合いそうになかった。男は二人とも殺意を湛えた眼で、わたしを睨んでいる。
一瞬だが、わたしは死を覚悟した。この仕事を始めてから、通算四度目の死の覚悟であった。だが、その決意はうわべだけであり、残る意識の大半は事態の深刻さを認めつつも、かなり楽観的なリラックスした状態で、危機を脱する方法を模索していた。……そのくらいの気持ちでなければ、生き延びることはできない。諦めからは、なにものも生み出すことはできないのだ。
「ぐっ!」
いきなり男の一人が火噴き棒を放り出し、顔面をかきむしり始めた。もう一人は火噴き棒を手放しはしなかったものの、同じように苦しみ出す。
その時になって初めて、わたしの耳にフロイナのつぶやく声が届いた。
……魔術だ。フロイナも魔術を使えるのだ!
「やめろ! 邪神の手先め!」
苦しむ男が、火噴き棒の先端をフロイナに向ける。
フロイナの表情が、わずかに変化した。泣き出す寸前の幼女、といった面差しだ。
次に起こった出来事は、文字通りわたしの度肝を抜いた。
男の頭部からいきなりその中身が飛び出したのだ。耳と鼻と口から、血にまみれた肉だかなんだかよくわからない薄い灰色やピンクや黄色っぽい塊ないし粘性の高い液状のものが噴き出す。一拍置いて、眼窩から眼球が飛び出し、後を追うように茶褐色の液体がほとばしり出る。
あまりに凄惨過ぎて、滑稽ささえ覚えるような光景だった。
男がなおも液体を撒き散らしながら倒れる。顔面をかきむしっていたもう一人の男は、厚く降り積もっている落ち葉をあたりに跳ね散らかしながら、依然苦しんでいた。我に返ったわたしは、その男の頭部を鞘つきの長剣で一撃し、失神させた。たぶん食料が入っていると思われる背中の荷物と、腰につけていたガラスの水筒、それに例の火噴き棒を奪う。
暴れたせいで、男の衣服が大きくめくれ上がっていた。よく日に焼けた肌に、刺青が掘り込んである。
文様に、見覚えがあった。
わたしは動きを止めた。瞬時迷ってから、倒れ伏している男の服を引き破る。
背中一面に、刺青があった。見間違いようのない、渦巻きをモチーフとした文様の繰り返し。
ラムサル族だ。
時間がないことは判っていたが、わたしは頭部を粉砕された男の衣服も引き剥がして肌を確認したいという欲求に抗しきれなかった。やはり、こちらも渦巻きだらけだった。
では、襲ってきたのはラムサル族だったのだ。なぜかメスタの部下と思しき人々を襲う連中。
なぜ。どうして。
時間をかけて考え込む贅沢は、わたしたちに許されてはいなかった。わたしは奪った荷物を抱えなおすと、死体の刺青を厳しい眼で睨んでいるフロイナを促した。
「逃げるよ!」
第六話をお届けします。