5 嘘つき同士
この世で最速の交通機関は、馬を別とすれば船である。ヨースにも小さいが賑わっている河港があり、下流の都市や農産物の集散地を大小さまざまな船が結んでいる。
ヨース駐在の連絡員に緊急口頭報告を入れ、押収した四枚の旅券を託し、ボンパールへの連絡を依頼したわたしは、とりあえず河港を訪れていた。フロイナが襲撃者を恐れて逃げたのだとしたら、もっとも距離を稼げる方法でアーサル村から離れようとするはずだ。ヨースへと繋がる山道で姿を捉えられなかった以上、彼女がここを訪れた可能性は決して低くはあるまい。
だがしかし、笑顔と小銭をばら撒きまくったわたしの捜査は空振りに終わった。一人旅らしい金髪の少女を目撃した者は皆無。似たような年恰好の少女を含む家族連れなら数件の情報が得られたが、いずれも細部の特徴がフロイナと異なっており、別人だろうと思われた。
わたしはめげずに馬屋を回った。しかしこちらでも収穫はなかった。馬を買った少女も借りた少女もいない。
徒歩で逃げたとすればお手上げである。ヨースからよそへ向かう街道は四本。周辺の村や農場へ向かう道はそれこそ無数にある。それらの道を使い、旅人に商人、近在の農民、学生、その他もろもろの人々が毎日多数ヨースに出入りしているのだ。一人の少女くらい、その中に簡単に埋もれてしまえる。
わたしは諦めずに聞き込みを続けた。昼食は市場近くの屋台で筋肉過剰の男たちに好奇の視線を浴びせられながら済ませ、今度は宿屋を狙ってみる。人口の多いヨースで他人に紛れることで身を隠そうとしたならば、宿に隠れている可能性もある。
予想は当たっていた。三件目で早くも手ごたえがある。
こぎれいだが恐ろしく古い宿屋の女主人は、蜂蜜色の髪をもつ可愛らしい少女がひとりで投宿したことは認めたが、宿帳を見せることは拒否した。彼女の国籍についてかまを掛けてみても、引っ掛かってこない。それどころか、わたしのことを胡散臭そうに睨み、場合によっては厨房から若いのを呼んで来るというそぶりを見せた。
わたしはわざとらしくため息をついた。安物ではないがさりとて高価とは言えない指輪五つ、両手首に腕輪、首にネックレスとペンダントを下げ、銀製の蝶の髪飾りをつけた、さながら五年ぶりに提督の乗艦を迎える老朽通報艦のように飾り立てた女主人が、いらだたしげにカウンターを指で叩く。……鼻輪を着けていないのが不思議なくらいである。
たぶん賄賂は効かないだろう。わたしは仕方なく、一枚の身分証明書を見せた。財務省税務調査局の外務員であることを証明する書類だ。
「べつにおたくを調べにきたわけじゃありません」
うちは税金などごまかしていない、と叫び出しそうになる女主人の機先を制して、わたしは穏やかに言った。
「この子の親がね……脱税の証拠を持たせている可能性があるんですよ。裏帳簿の写しをね。とりあえず、事情を聞くだけですから」
女主人がしぶしぶといった表情で、宿帳を開く。茹でたあとの腸詰のような太く水っぽい指が指し示すそこには、フロイナの名はなかった。だがしかし、その丁寧だがやや子供っぽい筆跡には、明らかに見覚えがあった。
フロイナだ。
名前の欄の他は空白であった。住所も、国籍も記されていない。わたしは咎めるように、上目使いの視線を女主人に送った。
「外国人には見えなかったし……あんな可愛らしい女の子が悪人に見えるっての、あんた」
やや鼻白んで、女主人。わたしは、確かにそうは見えないよね、と言っておいた。
二階だというフロイナの部屋の位置を教えてもらったわたしは、心のこもらぬ礼の言葉を残して階段に向かおうとした。しかし厨房からかすかに流れてきた匂いを嗅ぎ取り、気が変わる。
カウンターにわたしが叩き付けた紙幣を眼にして、女主人がわずかに顔色を変える。
「……役人が賄賂を使おうってのかい?」
「違うわ。上等なお茶をポット一杯。カップを二つ。一番丈夫な四角いお盆に入れて。わたしが持って行くわ」
「どなた?」
ノックに応えた声は紛れもなくフロイナのものであった。
「お茶をお持ちしました」
わたしは声色を変えてそう言った。扉が開くと同時に、お盆を隙間にむりやり突っ込む。閉められないための用心である。だが、これは杞憂に終わった。フロイナは唖然としてわたしを見つめるばかりであり、こちらがお盆を手に入室するのを止めようともしなかった。
わたしは無言でお盆をテーブルに置くと、カップにお茶を注ぎ分けた。
「座っていい?」
フロイナが気圧されたようにうなずくのを見てから、わたしは部屋で唯一の椅子に手を掛けた。万が一フロイナが扉に向け駆け出しても、余裕を持って阻止できる位置に椅子を移動させると、浅く腰掛ける。
「お飲みなさいな」
自分のカップを持ち上げながら、わたしは彼女にお茶を勧めた。いまだ驚きを顔に張り付かせたままのフロイナが、おずおずとテーブルの上のカップを取った。視線をこちらに固定したままゆっくりと後退し、ベッドに慎重に腰掛ける。黄褐色の上掛けがめくれており、ベッドには明らかに使った痕があった。
「今朝の続きをしましょう。襲ってきたのは、誰?」
わたしは早口で訊いた。なにか答えようと口を開きかけたフロイナを掌で制し、厳しい視線を向ける。
「判らない、なんて言わないでね。連中の正体を知っているからこそ、逃げたんでしょ? 正直に話してちょうだい。力になってあげられると思うから」
フロイナは黙ったままだったが、わたしは放っておいた。無視している沈黙ではなく、黙考の姿勢であると見て取ったからだ。
しばらくのあいだ、わたしは部屋を観察することで暇を潰した。壁紙は安物だが新しく、しみひとつなかった。絨毯はピンク色に見えるが、窓付近の色合いがことさらに薄いところを見ると、もともとは赤っぽかったのが色あせたのだろう。カーテンは白地に青のコイン大の水玉模様で、わたしの記憶が確かならば十年ほど前にはやったものだ。テーブルはよく使い込まれており、何枚かの板を張り合わせた天板にはランダムに焦げ痕や輪になった染みがついている。壁に掛かった唯一の装飾は、額に入れられた年代物らしい手書きのポスターだけだった。時代遅れの読みにくい字体と、花飾りのついた小粋な帽子を被った横顔の美人が、しゃれた酒場の新規開店を伝えている。
「どうしてここが判ったんですの?」
沈黙の後にフロイナが発した言葉は、これであった。
「こことここを使ったのよ」
わたしは指で側頭部とふくらはぎを差して見せた。
「わたしは教師よ。馬鹿じゃないわ。推理して、しかるべき調査をすれば、答えはおのずから見つかるものよ」
そう言って、フロイナを真剣なまなざしで見つめる。フロイナが視線を合わせるのを待ってから、わたしは続けた。
「もし連中がわたしと同程度の頭を持ってるんなら、ここが見つかるのも時間の問題ね。姿を隠したつもりになっているんだったら、ちょっとお間抜けだわ」
「……でしょうね」
諦めたような口調で、フロイナ。
「話してくれる?」
フロイナが幸せな生活を送れたのは、今年の春までだった。
その春のある日、ふとしたことから姉が義兄の不義の証拠を握ってしまったのだ。夫妻は神殿で神聖挙式を挙げており、ヤミールなどの東部諸国ではこれは事実上離婚できないことを意味する。姉は当然のごとく神殿に助けを求め、司祭が調査に乗り出すこととなる。結論が出たのは夏の盛りであった。神殿が特別に許可するので、協議離婚すべし。司祭はすでに冷え切った仲の夫妻にそう申し渡した。
慌てたのは義兄である。ヤミール共和国の法律に基づけば、双方合意の上の離婚には財産分与が伴う。その比率は、夫が二分の一、妻と子が残る二分の一を等分、というものだ。ちなみに、夫妻はいまだ子宝には恵まれていなかった。
営々と築き上げてきた莫大な資産が、動産不動産を問わず一挙に半減する事態に直面した義兄は、強硬手段に出る。妻の殺害を企てたのである。失うはずの財産の数十分の一も使えば、荒っぽい連中の十人や二十人すぐに雇える。夫の企みを事前に察知したフロイナの姉は外国に逃亡し、フロイナにも身を隠すように手紙と現金を送りつけてきた。その指示に従い、フロイナははるばる我が国にやってきて、田舎村の一軒家を借りて住み始めた。
しかし、義兄の手はここまで伸びてきたのだった。おそらく、誘拐して姉の居場所を聞き出そうという魂胆だったのだろう。実のところフロイナは姉の所在については何も知らない。追っ手の中に魔術を使う者がいたようだが、義兄の財力をもってすれば、魔術貴族の末裔を雇うくらいは可能だろう……。
見事な嘘である。フロイナの正体を知らなければ、危うく騙されそうになるほど理路整然たる嘘だ。
とりあえず騙されてやるのが得策だろう。わたし一人では、今度逃げられたら二度と見つけられないかも知れない。
「じゃあ、わたしの知り合いの処へ行かない?」
「ジョレスさんの?」
フロイナが、疑わしそうに金茶色の眉をつり上げる。
「どうせ行く当てはないんでしょ? 普通に宿屋暮らしをしていたんじゃ、いずれ見つかっちゃうわ。教え子の中に心当たりがあるから、そこにかくまってもらいましょう。大丈夫、任せて」
わたしはカップを置くと、フロイナの薄い肩を両手できゅっと握ってあげた。
「ご迷惑でしょうに」
フロイナが、言う。わたしは少し悲しげな表情を取り繕った。
「だって、わたしもあなたの義兄の雇った男を四人も殺しちゃったのよ。仲間に復讐される可能性もあるわ。だから二人で身を隠しましょう」
納得したのか、フロイナがこくんとうなずいた。
もちろん、わたしに教え子などいない。
宿を引き払い、河港で下る船便を見つけ、ちょっと贅沢にフロイナと別の個室を確保したわたしは、長文の暗号を組むと写しを二つ作り、それぞれを別な方法でボンパール宛に送った。次いでアーサル村村長宛の手紙も書く。事情を適当に説明し、残してきた荷物その他の保管を依頼する内容だ。こちらはフロイナにも読ませ、副署させる。ジョレス・スタタムの性格ならば、愛着のある本や書き溜めた原稿を諦めたりするはずがないからだ。幾許かの現金を同封したのは、言うまでもない。
ボンパールからの返答が届いたのは、返信場所として指定しておいた旧首都の宿屋の食堂であった。
ごく普通に、フロイナと差し向かいで夕食をつついていたわたしは、ぶらりと入ってきた二人の男に眼を留めた。いかにも仕事帰りの肉体労働者が一杯やりに立ち寄った、といった風情だったが、どうにも違和感を覚えてしまったのだ。
わたしは食事を続けながら、男たちを観察した。二人とも安い酒を注文したが、ろくに口をつけようとしない。つまみも注文しないし、お互い話をしようともしない。さりげない動きを装ってはいるが、明らかに店内くまなく目を配っているのが判る。
追っ手か?
わたしは他の客の中に怪しい人物がいないかどうか探り始めた。しかし、ざっと見た限りにおいては、危険そうな奴はいない。
あるいは警察の私服業務かもしれない、と考え出した頃、店に新たな客が現れた。白い顎鬚を蓄えた初老の男性だ。上物だがかなり着古してくたびれた上着を着込み、しゃれたステッキなど持っている。
男には見覚えがあった。少なくとも、顎鬚から上の顔の造作には。今回の任務の監督官、ボンパールである。
わたしは肩の力を抜いた。あやしい男二人連れが、ボンパールに対し身振りで合図するのを確認したのだ。どうやら、先乗りの警護係らしい。
顎鬚で変装したボンパールは、そばを通りかかった給仕女に何か注文すると、よたよたとした足取りでわたしたちのテーブルのすぐ隣に座った。わたしは食事を続けながら、ボンパールの接触を待った。当のボンパールは、注文の品が来るのを待ちながら調味料の卓上壜をいじくっていたが、そのうち手品師のような鮮やかな手つきで塩の小壜を袖口に滑り込ませてしまった。
わたしたちの食事は終わりに近づいていた。ポットに残ったお茶をフロイナと分けあって飲みだした頃になって、やっとボンパールの注文した料理が届いた。白身魚のフライ温野菜添えだ。
ボンパールが、魚と野菜に胡椒を振り掛ける姿を横目で見ながら、わたしは笑いを堪えるのに苦労した。案の定、卓上壜一本一本のラベルを確かめる……もちろん遠視を装って頭をそらせて……という芝居がかったやり方で塩を探したボンパールは、小声で毒づく演技をひとしきりしたあとで、こほんと咳払いをひとつするとわたしに向かい声を掛けてきた。
「お嬢さん、すまんが塩を貸してくれんかな?」
わたしは無言のまま、塩の卓上壜を渡してやった。
「ありがとう」
返ってきた小壜の裏には、二つ折りにした小さな紙片がくっついていた。わたしはそれを手に握り込むと、フロイナの目を盗んでそっと開いてみた。二桁の数字が二つ記されている。指定時間と部屋番号だろう。
指定された時間に指定された部屋を訪れたわたしは、待っていたボンパール……むろん顎鬚は外してあった……に口頭で報告を行った。
一通り訊き終えたボンパールが眼を閉じると、椅子に深く座りなおした。わたしもくつろいだ姿勢をとった。ボンパールが考えをまとめるまで、結構時間がかかる。
やがて、ボンパールが口を開いた。
「どうもわからん」
ずいぶんと疲れたような口調だった。
「君が押収した旅券は四枚とも真正だった。三人は初見だが、ひとりはメスタ・マークランドの部下だ。ヤミール当局が情報を出し渋っているが、どうやら魔術貴族の末裔がなにか企んでいることは明白だ。君の報告を加味すると、どうやらフロイナは自主的にメスタのもとを離れたとしか思えん」
「メスタは健在なのですか?」
「ヤミール当局によれば、健在だ。権力も失ってはいない」
ボンパールが答える。わたしはふっと息をついた。となれば、メスタが死亡ないし失脚し、逃亡したフロイナをメスタの後継者ないし権力簒奪者が追っている、という推理は成り立たなくなる。
なぜフロイナはメスタのところから逃げ出したのか? そしてなぜメスタは娘を暴力的手段を用いてまで連れ戻したがっているのか? たんなる父親としての情愛か?
「ラムサル族にファイザで殺されたと思われる男も、メスタとのつながりが確認された。それどころか、この他にも数ヶ国でヤミールの魔術貴族関係者と思われる人物がラムサル族の襲撃を受けて拉致ないし殺害されている。クーガン王国当局はラムサル族の関与を否定しているが……これもいまひとつ背景がつかめていない。いくつかの国の公安当局からも、国内におけるラムサル族のなんらかの調査活動について報告がきている。まだ詳しいことは判明していないがな」
魔術貴族の末裔と、辺境の排他的な種族とが対立していることは間違いない。しかし、あいだに数カ国を挟むほど隔たっている二つの勢力がなぜ殺しあうのか? いったい何の調査をしているのか?
「これ以上フロイナを泳がしても無駄かもしれんな」
そう、ボンパールが言う。
「なにもかもぶちまける手はあると思いますが」
「協力してくれるかね?」
「彼女が自分の意志で父親のもとから逃げてきたことはほぼ確実です。庇護と引き換えならば、しゃべると思います」
「確信は?」
「……ありません」
そう問われれば、そう答えるしかない。
「拷問するわけにもいかんしな」
つぶやくように、ボンパール。
拷問は情報を引き出すためだけに限定すれば、たいへん効果的な手段と言える。だが、拷問に過度の期待を寄せるのは危険である。なぜなら、拷問によって得られた情報が必ずしも真であるとは限らないからだ。それどころか、統計によればそれら『非協力的な被尋問者に肉体的ないし精神的虐待を加えることにより強制的に引き出される証言ないしそれに類似する情報』の八割は虚偽なのだ。苦痛を伴う拷問を行えば、相手から尋問者が望むありとあらゆる情報を得られる。そう、『尋問者が望む情報』をいくらでも引き出すことができる、というところが問題なのである。
拷問にさらされた被尋問者が望むのは、肉体的であれ精神的であれ、苦痛からの開放である。そして苦痛からの開放は、真実を語ることではなく、尋問者が得ようと意図する情報を、被尋問者が尋問者に与える事によってのみ成り立つのである。つまりは、拷問とは嘘の強要でもあるのだ。それゆえ、我が国を含む西部先進諸国の大半では、拷問は原則的に禁じられている。悪影響の方が、大きいのである。
「とりあえず隠れ家は用意した」
ボンパールが、薄い紙束を差し出す。表紙は、神殿が信者予備軍に無料で配るパンフレットに偽装してあった。微笑んでいる女性司祭の豊かな胸を押しつぶすような感じで、読後焼却を指示するスタンプがでかでかと押してある。
「落ち着いたら、罠をかけてみたい。わざとフロイナが滞在している情報を流し、現れたメスタの部下を捕らえたいのだ。どうかね?」
「原則的には、賛成です」
わたしはうなずいた。フロイナの身を守ってやり、恩を売れば、彼女を協力者に仕立て上げることも可能だろう。役に立つかどうかは判らないが。
「では、幸運を」
ボンパールが、そう言いつつ右手をわずかに振る。退出せよ、との合図だった。
第五話をお届けします。