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1 新たな任務

 早朝から、わたしの気分は沈んでいた。

 その責任の半分は天候にあった。短かった夏が終わり、秋が訪れるとともに、この地方の大部分が小雨季に入る。空は薄ねずみ色の雲に覆われ、時たま小雨がぱらつくのが常だ。その鬱陶しい雨はほぼ正確に三日に一度の割合で本降りとなり、徐々に肌寒さを増してゆく風と共同戦線を組んで人々の心を陰鬱という名の色で占拠してゆく。太陽を拝めるのはほんの一時であり、それはさながら吝嗇な男が神殿で回される籠に投げ込む紙幣のように希少であり、そして価値がある。

 今日もそんな典型的な秋の天候であった。空気は湿っぽく、そして石炭を燃やす煙でいがらっぽかった。早くも舞い始めた落ち葉が、街路の隅で黄褐色の小山をいくつも形作っている。遠目に見れば、それは虎猫の死骸がいくつも並べられているようにも見えた。昨夜の激しい雨の名残で、市内の放水路はいずれもミルクを入れすぎたコーヒーのごとき色合いを呈している。わたしはそれらを横目で見ながら、勤め先への道を急いだ。

 沈んだ気分の残り半分は朝食のせいであった。台所にまともな食材がなかったのだ。昨日までわたしは出張しており、当市に帰還したのは聞き分けのいい子供ならばすでにベッドに入っている時間であった。夕食は勤め先の食堂から夜勤者用の夜食を取り寄せて済ませ、その後機密文書を扱える書記の一人を手配して事後報告を口述筆記させ終わったときには、すでに真夜中過ぎとなっていた。疲れていたこともあり、わたしはそのまま自宅に帰って、辛うじて入浴だけ済ませてからベッドに潜り込んだのだ。七日間の出張を済ませて帰ってきた女の一人暮らしの住まいに、新鮮な食材など取り揃えてあるわけがない。長くはなかったが充実した眠りから覚めたわたしは、思案した挙句に小樽の中に残っていた塩漬け豚肉を水で塩抜きしてからスライスし、しなびかけていた玉葱の薄切りとともにオリーブ油で炒め、これにちょっと匂いがきつくなっていたチーズを添え、すっかり硬くなってしまったパンとともに食した。一緒に食べようと思い棚の奥から引っ張り出した酢漬け胡瓜は、瓶の中で黒々と変色していたので、思い切りよく瓶ごとごみ入れに投げ込んだ。

 自宅から少し歩けば、朝粥や温かな麺類はもちろん、きちんとした定食まで早朝から食べさせてくれる店はいくらもあり、実際に出勤途中の独身男女や朝まで飲み明かした連中、さらに合法非合法問わず夜の仕事を終えた人々がそこで食事を注文しているのだが、わたしは朝食だけは自宅で採ることにしている。これは習慣であると同時に、生理的欲求から来る切実なる儀式とも言える。わたしは世の女性の多くが悩んでいるある慢性的な疾患……恒常的な固形物の体外排出困難……とは無縁である。そしてそれは、早朝からの充分な水分摂取と、肥満していない女性としては異常とも言える大量の朝食のおかげなのである。

 一応はわたしも女性であり、まだ若い。自宅以外で生理的欲求を長時間に渡って果たすのは、やはり外聞が悪いものだ。朝食を自宅で採らざるを得ない理由は、まさにそこにある。

 官庁街に近づくにつれ、街路を行き交う人の数は増えてゆく。だが、これは一時的なものだ。官庁街に入る直前になると、人通りはぐっと少なくなる。役所の始業時間は世間一般よりは遅い。わたしはそのがらがらの街路を足早に抜け、いかめしい門衛が二人立哨している財務省の角を曲がり、商務省の紋章を麗々しく横腹に描いた馬車に道を譲ってから、陸軍省がその大部分を占めている街区の路地のひとつに入った。退役軍人援護会支部……本部は旧首都にある……と輸入茶葉の専門店に挟まれた古い三階建ての建物が、わたしの勤め先である。

 建物の正面に掲げられた大きな看板には、『農芸統計協会』という文字と、それを取り巻くように数種類の農産物の絵が描かれている。だが、看板職人の絵心は幼児並だったようで、人参は太すぎてさながら傷んで変色した蕪のようだし、メロンは隣に描かれたオレンジとほぼ変わらない大きさなので遠目には青いリンゴにしか見えない。無造作に添えられた芋など、その太さといい色といい、犬かなにかの排泄物そっくりである。その隣、空いてしまったスペースを埋めるためにむりやり付け加えたとしか見えない三つの濃緑色の小円に至っては、もはやどの農産物に比定すべきか、植物学者の鑑定を仰ぎたくなるほどの出来栄えである。

 表向きは、農芸統計協会は農務省の外郭団体であり、同省の委託を受けて農業と園芸に関する各種統計調査やその分析を行うのが主な業務である。実際、職員の五人に四人は、きちんとその仕事を行っている。

 ……五人のうち四人、つまり八割の人員は。そしてわたしは、その八割の中に属してはいない。


 わたしの机は、二階の北西の角部屋にある。さして広いとはいえない部屋に勤務する同僚は全部で八人。そのうち、『まとも』な仕事に従事しているのは、ファーゴだけだ。リビングの隅で一ヶ月放って置かれた観葉植物のようにひょろりとしなびた初老の男である。

 たいていの仕事場が同様だと思うが、朝の情景と言うのはいつも決まりきっている。わたしが部屋に入ると、真っ先に気付くのがラディスの淹れたきついコーヒーの香りだ。次いでラディス自身の眠たげなおはようの声が掛かる。わたしはそれに答えずに、一番奥にある自分の机へと進んだ。別にラディスに悪意を持っているわけではない。答えないこと自体が、すでに挨拶代わりとして習慣付いてしまっているのである。

 わたしはいつも通りに歩を進めた。すなわち、わざと大回りして窓際を通り、自分の机を目指したのだ。二つの長方形の島を形作って並ぶ事務机のあいだに生じている海峡を直進すれば、十数歩節約できるのだが、しばらく前からリャンの机とマッキーバーの机の間の床が、踏みつけると空恐ろしいほどの異音を立てるようになってしまったのだ。まさか床が抜けることはないだろうが、さながらそこが自殺の名所でもあるかのように、全員なんとなく足を踏み入れるのを避けているのが現状である。一応、営繕担当者に修理を依頼してあるのだが、古い建物ゆえに修理予定個所のリストは辛辣な新聞コラムニスト宛の郵便物なみに溜まっているらしく、三ヶ月ほど前からなしのつぶてである。わたしの出張中に修理がなされたと期待するのは、いささか甘い考えというものだろう。

 迂回航路を取ったわたしは無事に自分の机へとたどりついた。並ぶ事務机のうち、席が塞がっているのは三つだけだった。わたしは上着を脱ぎながら、右隣の机でぼんやりと頬杖をついているジャカンドに尋ねた。

「ゴーワはまだ帰って来れないの?」

「さあね」

 生気のない横目でわたしをちらりと見ながら、ジャカンド。わたしより若い、そして背もわたしより低い青年だ。彼に出張中の誰かの消息を尋ねるのも、恒例となった朝の挨拶のひとつである。同僚とはいえ、与えられた任務が別ならば、出張の内容など知るよしもない。つまり、ジャカンドにゴーワの帰ってくる日付など尋ねても本来何の意味もないのだが。まあ、挨拶というものはそういうものだろう。死のうが生きようが構わない相手に『お元気ですか』とさながら健康を気遣っているかのような言葉をかけるのと同じことである。

 わたしは小さくため息をつきながら椅子を引いた。ゴーワが出張してからもう一ヶ月になる。学者肌の寡黙な中年男で、無類のお茶好きでもあるので、この職場の立地条件……隣は当市でも屈指の品揃えを誇る輸入茶葉専門店である……をもっとも甘受している人物と言える。彼がいれば、仕事前の薫り高い一杯をご馳走してもらえるのだが。いない場合は、共同購入してある安い茶葉で手ずから淹れるか、ラディスに頼んでコーヒーを一杯もらうしかない。彼女は気前はいいのだが、恐ろしく酸味の強い豆が好きであり、しかも深炒りで濃く淹れるので、あとで胃がむかつかないためには分けてもらったコーヒーを等量の湯で割る必要がある。

 ラディスに一杯頼もうか、などと考えつつ、わたしは机上に積まれた書類挟みを整理し始めた。当面仕事がないときは、農芸統計協会としての『本業』を手伝わされるのだ。たいていは統計数字の検算や報告書の校正などの半端仕事である。はっきり言って、気乗りしないわずらわしいだけの作業だ。

 わたしの手が止まった。

 書類挟みの山の中に、紅い表紙のものを見つけたのだ。

 半ば無意識のうちに、わたしは周囲の気配を探っていた。ファーゴはすでに袖をめくり上げ、真面目に書類と取り組んでいる。ラディスは至福の表情で濃いコーヒーをすすり込んでいる。

 ジャカンドは、わたしと同時くらいに紅い表紙に気付いていた。興味津々、といった様子でわたしの顔を覗き込んだ彼は、したり顔で微笑むとすぐに席を立った。わざとらしく窓外を眺め……といっても濁った放水路と絞首刑直前の死刑囚のようなしょぼくれた街路樹が見えるくらいなのだが……、無意味に髪など掻きあげる。

 わたしは紅い表紙の書類挟みを開くと、手早く七ページめくった。

 右上隅に、かすかに鉛筆で丸印がつけられていた。

 ……新たな任務だ。


 騎士セーウィ・アデヤント。四十四歳。元農務省蔬菜局課長補佐。現農芸統計協会専務理事。

 わたしの直属の上司の肩書きである。むろん、表向きの肩書きだ。おそらく農務省に所属したことなどないだろうし、専務理事としての仕事もほとんどこなしてはいない。年齢さえ、わたしが知る限り三年前から四十四歳のままである。……おそらく、ぞろ目が好きなのだろう。

 しかし、騎士の肩書きは本物である。むろん、現代の騎士の位は一代限りの官制尊称のひとつに過ぎない。たぶんアデヤントは馬など所有していないだろうし、ことによると乗馬すらできぬだろう。しかしながら、役人が騎士の肩書きを得るためにはかなりの業績を挙げねばならない。アデヤントが騎士を叙勲されるほどの大きな仕事を過去に成したことは確実である。農務省ではなく、おそらく内務省で。そしてたぶん、今も裏では内務省に属しているのだろう。農芸統計協会で怪しげな任務についている人々……わたしも含めて……の公務員としての所属その他ははなはだあいまいだが、給与は内務省の機密費から支払われているというのは、公然の秘密である。

 アデヤントの執務室はある意味では非常に居心地が良かった。濃い藍色に染めた麻布を張ったソファは良好な座り心地だったし、落ち着いた色合いの花模様の壁紙は、安物の灰白色の塗り壁を見慣れた眼の疲れを癒してくれるかのようだ。南東に向いた窓からは赤茶色の屋根越しに中央公園の緑が望見できたし、天気が良い日にははるか遠くに王宮の優美な尖塔さえ眺めることが可能だった。

 秘書のタリアの淹れてくれるお茶もまた魅力的であった。アデヤントが無類のお茶好きであることもあって、使う茶葉はゴーワの秘蔵品と同等の品質であったし、小皿に添えられたビスケットはまるで焼きたてのようにかりかりであった。わたしたちの仕事部屋の大きな缶に入っている湿ってふにゃふにゃのビスケットとは比べ物にならぬ美味さである。きっちりと蓋を閉めているにもかかわらず、なぜかふやけてきてしまうのだ。おそらく錆がきてどこかに穴があいているのだと思うが、誰も直そうとしない。

 わたしはアデヤントと差し向かいで、静かにお茶をすすりつつビスケットをかじった。お茶を楽しんでいる間は話し掛けないほうがいいということは、ここに配属された初日にわたしは学んでいた。

「まずは、これに眼を通してくれ」

 三枚目のビスケットを食べ終わったアデヤントが、口髭についた滓を指先で神経質そうに払いながら、綴られた数枚の書類をわたしに向け押しやった。

 一瞥したわたしは内心で顔をしかめた。書類は公務員の守秘義務を書き連ねたものであった。一般の保険契約の付帯事項と同様、もってまわった判りにくい言い回しという水濠と、思わず辞書を引きたくなるような難解な用語という城壁、それに三行読んだだけで眼球が悲鳴をあげる細かい字という矢狭間付き隅塔でがっちりと武装した、難攻不落の書類である。わたしも昔一度だけ読破したことがあるが、その後一週間は新聞すら読む気がしなかった覚えがある。

 もちろん、アデヤントはここでわたしに全文を読み通せと命じるつもりはないであろう。あくまで、わたしが公務員であるという立場を再認識させ、守秘義務を背負っているという明白な事実を想起させたかっただけだ。

「結構です。内容は、熟知してますから」

 ちょっと緊張を覚えながら、わたしは書類を返した。今まで何度もアデヤントから任務を伝達されたが、この書類を提示されたのは始めての経験である。これは、今回の任務が重要だという証左とも言える。

「これを」

 つぶやくように言いながら、アデヤントが今度は十数枚の厚手の紙を手渡してくれた。

 受け取ったわたしは、一番上の紙をしげしげと眺めた。丹念に描かれたスケッチであった。対象物は、一人の少女の頭部だ。左斜め前から描かれた、濃い鉛筆を用いた玄人の手による丁寧な作品。

 見覚えのない少女だった。年の頃は……十二、三歳か。丸顔で、まだ幼さの残る顔立ち。眼の下にわずかにそばかすがある。髪は鉛筆で塗りつぶされていないところを見ると、かなり明るい色合いなのであろう。ほぼまっすぐな髪質で、首筋がはっきりと視認できるほどに短く刈っている。その頼りないまでにほっそりとした首には、ネックレスとは違う細いチェーンが掛けられている。お守りでも、吊っているのだろうか。まあ……顔の造作だけ見れば美少女の部類に押し込めても文句はない程度の可愛らしい女の子である。

 彼女の顔をしっかりと覚えこんだわたしは、紙をめくった。予想した通り、次も同じ少女のスケッチであった。今度は横顔だ。ちょっと伏せ目がちで、頬のあたりに歳に似合わぬ愁いなどたたえている。次の一枚は全身像だった。田舎娘が着るような足首までの長いスカートをまとい、虚空の一点を見つめている。

 わたしは次々と紙をめくっていった。すでに、その少女の特徴は頭の中に入っている。似たような少女千人の中からでも、件の少女を自信を持って選び出すことができるだろう。

 スケッチには様々な少女が描かれていた。後ろ姿、しゃがんだところ、さながら絵画のモデルのようにポーズを取ったもの、そして、笑顔。すべて同じタッチで描かれており、絵師が同一人物であることは明白だった。

 最後から三枚目を眼にしたわたしは、ほんの少しだけ片眉をあげた。急にタッチが変わっていたのだ。同じ者が描いたとしか思えないが、ずいぶんとぞんざいな仕上がりになっている。あとから記憶を頼りに描いたか、あるいは絵師がスケッチに飽きてしまったのだろう。次の一枚を眼にしたわたしは、絵師が飽きたことを確信した。立っている少女の足元には無意味にじゃれ付く犬が一匹添えられていたが、こちらはだらりと垂れた舌から尾の毛並みに至るまでひどく丁寧に描かれていたからだ。

 最後の一枚は力作であった。これ以上はないというくらいに細かく描かれ、芸術作品としても評価できるくらいの出来栄えであり、絵師がその持てる力を存分に発揮したことに疑う余地はなかった。しかしわたしはこの一枚に反感をもった。なぜなら、件の少女が薄い下着をわずかに着けただけの姿で描かれていたからだ。同性の一人として、男の頭の中で女性が裸に剥かれているところを見て気分がよいわけがない。

「この少女と、仲良くなってもらいたい。これが、次の任務だ」

 わたしがスケッチ集を見終わるのと同時に、アデヤントが一枚の紙を差し出した。それには、彼女のデータが項目別に細かく書き連ねてあった。

 名前はフロイナ・マークランド。髪は蜂蜜色。眼は緑。身長は……わたしの唇までというところか。痣の有無。目立つほくろの位置と大きさ。歯の様子、などなど。項目は詳細かつ多岐にわたっており、腋毛を剃る習慣があるかないか(当然彼女はなかったが)まで書き込まれていた。ばかばかしいと思いつつも、わたしはそれらのデータを頭の中に叩き込んだ。

「背景説明は?」

 完璧に覚えたと得心したわたしは、紙をアデヤントに返した。ある種の記憶術の習得も、わたしのような職業のものにとっては必須の要件である。

「ある」

 アデヤントが、椅子の上でたっぷりと肉のついた尻の位置をわずかに動かした。

 背景説明……任務に関する状況を網羅した解説……は、その任務の内容によって現場の者に伝えられる場合と伝えられない場合がある。郵便配達人は、自分の配る手紙の差出人を知らなくとも、仕事をこなすことができるし、ましてや手紙の内容にまで気を配る必要はない。届け先さえ承知していればいいのだ。それと同様、わたしたちの仕事も、任務の手順さえ熟知していれば、余計な情報まで知る必要がない場合が多い。

 しかし今度の任務は背景説明をしてくれるという。わたしは心中で覚悟を決めた。経験上、こういう仕事は長期に渡ることが多い。

「彼女はメスタ・マークランドの娘だ」

 アデヤントが言う。……メスタ・マークランド。聞き覚えのない名前である。

「メスタ・マークランドは各国の同業者が常時監視している人物だ。魔術貴族の末裔の一人であり、大物と目されている」

 わたしは内心で口笛を吹いた。魔術貴族の大物の娘。これは確かに重要な任務である。アデヤントが公務員の守秘義務を強調するわけだ。

 その昔、『大災厄』と呼ばれる謎の災害により、高度に発達した文明が崩壊した後の世界を支配していたのは、魔術を使える一握りの人々……いわゆる魔術貴族であった。彼らの専制政治によって虐げられていた大衆は、今から八十年ほど前に反乱……公式には『自由革命』と呼称されている……を起こし、魔術貴族の大半を捕らえ、処刑した。それ以来魔術は禁止され、世界は魔術に頼らぬ技術社会の建設に務めてはいるものの……いまだ辺境などでは魔術貴族の末裔が細々と魔術を利用して生活しているらしい。各国ともに、諸悪の根源とされる魔術を撲滅するために尽力しているが、社会の裏側に潜り込んだ連中の摘発は難しく、成果が上がっていないのが現状……だと聞く。

「メスタはヤミール共和国内に活動拠点を置いていると考えられている」

 アデヤントが、一枚の厚手の紙を差し出す。手のひらサイズの、ごく一般的な複写人相書きだ。丸顔で肉付きがよく、一瞬好人物に思えるがよく見ると油断のならない鋭い目つきをした中年男が描かれている。むろん、フロイナを描いた絵師とは違うタッチである。

 わたしがメスタの容貌を記憶し終わるのを待って、アデヤントがメモを手にしゃべり出した。

「フロイナに関しては、三年前にヤミール当局が確認し、メスタの実の娘であるとの確証を得た。それ以来姿をくらましていたが、二週間前に突然現れた。ボーデフの諜報機関が偶然、ある地方都市で見かけたらしい。その後、エリゴステン共和国の公安当局が、二回に渡って目撃した。十日前には、ティルビス公国に現れたことが確認されている。三日前、我が国の警察が西部地方のアーサルという村にいることを突き止めた。調査によれば、そこに家を借りたそうだ。どうやら、しばらく住み着くつもりらしい。意図は不明。君はフロイナ・マークランドの借りた家の隣に引っ越すのだ。彼女と交友関係を結びつつ監視しろ。彼女の意図を探り出し、場合によってはその行動を阻止しろ。手段は任せる」

「了解しました」

 ヤミール共和国は東部諸国の一国である。ボーデフ王国はその西隣、エリゴステン共和国はそのさらに西にある。ティルビス公国は、我が国の北東に国境を接する国家である。どうやら、フロイナははっきりと我が国を目指して旅してきたらしい。いったい、何を目的に我が国に入国したのか? 情報収集? 破壊活動? それとも、単なる休暇旅行か?

「監督官はボンパールを使う」

 アデヤントがそう言い、わたしはうなずいた。監督官は、いわば任務の間だけの直属の上司である。報告は彼ないし彼女を通じて行うし、新たな指令も監督官のみによって与えられる。ボンパールは以前にも何回かわたしの監督官となった人物だ。有能だし、信頼できる。

「細かいことはこれを参照したまえ」

 アデヤントが、分厚い書類の束を差し出した。表紙には、擬装用に『地区別胡瓜生産高統計 二十六〜三十六年度』と書かれている。その下に押されている『課外への持ち出し禁止』のスタンプは、二度押ししたらしく、外枠のあたりが微妙なずれを見せていた。

「……なにか質問はあるかね?」

「彼女は……魔術を使えるのですか?」

 わたしは迷わずそう訊いた。魔術貴族の末裔の娘となれば、使える可能性は高いだろう。そして、魔術を能くする者ならば、呪文ひとつで人を殺せる。

「不明だ」

 ごくあっさりと、アデヤント。

 わたしはわざとらしくため息をついた。結構リスクの高い任務である。荒事は苦手なのだ。

「そうですか。しかし……なかなかに時間の掛かりそうな任務ですね」

 指先で書類の束の厚さを確かめながら、わたしはちょっと嫌味をこめてそう言った。

「自信がなければ断ってもいいが……」

 アデヤントが、意味ありげに語尾を濁すと、ぼそりと付け加えた。

「経費は無制限だ」

「やります」

 わたしは持てる演技力のすべてを注ぎ込んでそう答えた。


 『第三資料室』というのが、扉に表示された部屋の名称である。

 わたしたちは、冗談半分に『宿直室』と呼んでいる。最低でもその中で一泊するからだ。

 わたしはアデヤントのもとを辞すると、渡された資料を持って宿直室に閉じこもった。ここは、任務を与えられた者がその予習をする部屋である。

 任務の予習には、機密書類などを閲覧する場合が多いし、同僚に対しても任務内容に関しては秘匿せねばならない。まして同僚たちはみなその道のプロであり、断片的な情報……書きかけの覚書や綴じ込み忘れた資料、書き損じた地図などから全体像を把握する能力に長けているのだ。機密保持のためには、一室に閉じこもるのが一番確実である。そしてこのやり方は、瑣事に気を取られずに神経を集中させるのにも役立つ。

 威圧するがごとくに背の高い書架が並んでいるあいだで、わたしはメスタ・マークランドに関するわずかなデータを頭に叩き込んだ。次いで、アーサル村に関する資料へと移る。アデヤントの部下が、すでにフロイナの借りた家の隣戸を抑えてあった。わたしはその家の見取り図と、フロイナの家の見取り図をじっくりと研究した。得心がいったところで、アーサル村そのものの資料に目を通す。アーサル村を描いた地図を頭に入れたわたしは、第三資料室備え付けの地方別地図を取り出し、村周辺の地理も再確認した。『偵察に費やした時間と労苦は必ず報われる』というのは古い軍事の格言だが、わたしのような仕事をする人種にとっても当てはまる言葉である。

 昼食と夕食は、係りの者が運んできてくれた。わたしは資料に没頭し、主要なところは諳んじることができるまでに頭に入れた。部屋に常設してあるベッドに潜り込んだのは、すでに真夜中過ぎであった。だがその頃には、おそらくアーサル村で生まれ育った者ですら知らないようなことがら……村で最大の牧場を経営しているシャン氏は、自分の妻が牧童頭のストルーエフと週に一度寝ていることをおそらく知らぬだろう……までが、わたしの頭の中に入っていた。


 翌日、二人前の朝食を済ませたわたしは、偽装身分の再調整に入った。

 わたしのような職業の者はたいてい、いくつかの偽装身分を常に準備している。任務のときに与えられる名前や人格、身分などとは別に、とっさに装える人物のキャラクターである。とくに正式に偽装身分を与えられていないときに、混んでいる宿屋で話し好きの中年女と相部屋になったときや、地元の公安関係者に身元を詳らかにするように要請された場合、それに任務中に仮の身分が使えなくなったときにも有効である。とっさにでっち上げたでまかせは破綻しやすいものだし、不用意に『鰊漁で生計を立てている』などと偽りを告げた相手が本物の漁師だったりしたら、それこそお手上げである。

 今回の任務では特に偽装身分は指定されていなかったので、わたしは自分の手持ちの中から一番適当と思えるものを引っ張り出して使うことにした。ジョレス・スタタム。学校で、歴史と地理を教えている独身の教師である。

 わたしの風貌は愚鈍な人物を装うにはいささか無理があるし、とりあえず人当たりが良さそうに見えるので教師と名乗っても疑う人はまずいない。歴史に関しては常日頃から興味を持っているから知識量も豊富である。相手が学者でもない限り、ぼろを出すことはないだろう。地理に関しては、職業柄かなり細かいところまで頭に入っている。こちらでも、馬脚をあらわす心配はない。

 わたしは今回の任務にあたって、ジョレス・スタタムの性格にやや修正を加えた。物静かでやや引っ込み思案だったのを、あつかましささえ感じるほどの……基本的には善人ではあるが……社交的な人物に変えたのだ。もともとの内気な性格は、任務中に他人の干渉を防いだり、行動を束縛されないためには有効である。たとえば……関係のない人物にしつこく話し掛けられたりしても、陰気な表情で歴史の本に鼻を突っ込めばかわすことができる。しかし、そのような性格では隣人の十四歳の少女と仲良くなるのは難しいであろう。資料では、フロイナの性格をやや内気と分析していた。手早く友人になるには、少々強引でもこちらのペースに引き込み、善意の押し売りをしたほうがいい。そう判断したのである。

 それに、資料にはフロイナの知的レベルはかなり高く、学習自体を好むと記載されていた。知性ある者と親しくなるには、こちらも知的であることを示すのが早道である。それに、彼女が学習を好むのなら、隣人の教師に興味を示すこと請け合いである。

 わたしは紙に『引越し』に必要な物品を書き出した。二十五歳……ジョレス・スタタムの設定年齢である……の独身女性教師ならば必要不可欠であるはずの物。持っていればフロイナと交流を深められそうな物。そして、任務のため、あるいは自分を守るために手元に置きたい物品の数々。

 リストは恐ろしく長いものとなった。わたしは庶務担当の職員を呼び出すと、紙を渡して物品の手配を依頼した。


同時投稿の第一話をお届けします。本作は基本設定にSF的事象を扱っているゆえにジャンルをSFにしましたが、実質的にはファンタジー作品風であります。執筆したのは数年前であり、内容的にも未熟な面が多い作品ですが……新作がいまだ書きあがりませんので、連載させていただきます。女性の一人称作品であり、雰囲気が好評とは言えなかった前々作の「バタメモ」に似ているのが気がかりですが(汗) おまけに黒い(改行が少ない)上に主役がシニカルなので暗い(笑) 例によって連載ペースは週一回、投稿日は土曜日で行きたいと思います。それでは次回以降もよろしくお願いします。

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