14 赤紫色の過去
メスタが準備してくれた無蓋馬車は、恐ろしく古いものであった。
一見しただけでは、その古さには気付かないだろう。車輪や軸受けは、真新しいからだ。だが、フレーム自体は長年の酷使のあとを歴然と残していた。何かの拍子についた大小さまざまな打痕。地の色と微妙に色合いの違う塗料を塗りなおした跡。安物のクッションを敷いただけの座席は鏡代わりに使えるほど黒光りしており、肘掛に張られた布は擦り切れるたびに上から何度も重ね張りされたらしく、いまや充分な厚みと柔らかさを有するまでに肥え太っていた。
メスタの貸してくれた部下も、馬車と同様に古び、座席に張られた板と同じくらい黒光りし、肘掛に負けないくらい柔らかく肥えていた。素人芝居で配役を割り当てるとしたら、四六時中へべれけの怠惰な農夫、といった役どころだろうか。いずれにせよ、重要なのは無害に見える外見であり、彼の見た目は充分に合格ラインを超えていた。
ジェネハルー市は、海岸から延々と続く平野の北端にある都市である。その北側は高原地帯であり、したがって旅の当初は長く続く緩やかな坂を飽きるほど登る行程となった。
高原地帯は少雨地帯でもあった。海からやってくる湿気を含んだ雲はジェネハルー市に到達するまでに大半の水分を雨として落としてしまっており、高原に達するころにはわずかな降雨しかもたらさないのだ。冬季にはそれでも気流の変化によりかなりの降水量があるそうで、さらに北にある山岳地帯には大量の雪が蓄積される。それらは気温の上昇とともに徐々に溶け、いくつかの河川を太らせ、土壌を含んで赤く色づいたその流れは高原を流れ下ってサドラヌ河に合流するのである。
メスタが警告した検問は、高原地帯最大……といってもたかだか人口二千人だが……の都市サンジャリュックを通過した直後に設けられていた。
馬車が近づくと、所在なげに立っていた二人の槍兵が、自分の得物を地面から拾い上げた。よく芝居などでは槍兵が長槍を立てたまま立哨しているが、あれは槍が芝居の小道具だから可能な演技なのである。本物の長槍の重さは半端ではない。
街道脇に建てられた差し掛け小屋からも、下士官らしい男が出てくる。こちらは、長剣を腰に吊るという軽装だ。続いて出て来た短剣を吊っただけの兵士……おそらく弓兵で、得物は差し掛け小屋に残しているのだろう……が、腕を振って馬車に止まるように合図を送ってくる。
手筈通り、御者は素直に馬車を止めた。
わたしは近づいてくる下士官を観察した。軍人らしからぬ、ゆったりとした足の運び。仕立ての悪い軍服の着方はだらしないが、妙に似合っている。まだ中年には程遠い年齢だが、すでに突き出し始めた腹と、適度に筋肉がついた太い腕。顔にはしまりがないが、眼光はそれなりに鋭い。おそらく、どの軍隊にも大勢いる『そこそこ能力はあって若いうちに下士官になったものの、出自の卑しさや教養の欠如から士官に任じられる可能性もなく、漫然と日々を送っているだぶついた下士官』であろう。別名、軍隊の贅肉、といわれる階層である。ただし、この連中は実戦になると実力を発揮する場合が多い。やはり軍隊という組織は、いや、軍隊に限らず組織の大半においては、地位は低くとも経験豊富な人材こそが先の読めない混乱した情勢に対して常に安定した力を発揮できるのである。
「何の御用ですの? 何かあったのですか?」
わたしは、わざとデフレセル訛りを強調しつつ下士官に向かって尋ねた。
「外国人か?」
発音のおかしさに気付いた下士官が、片眉を上げる。
「ええ。わたしはデフレセル人です」
「旅行者ですかな?」
デフレセル人と聞いて、下士官がわずかに態度を改めた。……大国の威光は、こんな辺境でもそれなりに通用するのだ。
「いいえ。仕事ですわ。家庭教師ですの」
「旅券を拝見したい」
「どうぞ」
わたしは、ジョレス・スタタム名義の旅券を手渡した。下士官が中身を改め……当然文盲ではあるまい……すぐに返してくれる。
「そちらの女性は?」
「ヨラン・デイリーといいます。旅券でよろしければ、どうぞ」
フロイナが答え、自分の旅券を差し出した。……昨晩わたしが連絡員に依頼し、彼が懇意の偽造屋に急遽作らせたヤミール旅券である。
「ヤミール人か?」
「はい。デフレセルに留学していたのです」
案の定、下士官はフロイナの旅券が偽造であることを見抜けなかった。用紙はヤミール外務省が正式な旅券に使用しているものと同じだし、だいたいヤミール当局が使っている偽造防止策自体がすでに時代遅れのものばかりである。わたしが訓練生時代に聞いたジョークのひとつ……東部諸国の税関職員は、旅券や許可証の偽造識別の際に、印刷が鮮明な書類はまず疑ってかかれ、と教育されている……は、あながち冗談ではないのだ。
下士官は旅券に押されているデフレセル内務省の『留学許可スタンプ』をしげしげと眺めると、納得した様子でフロイナに旅券を返した。
続いて下士官は御者に矛先を向けた。御者は打ち合わせ通りにぼそぼそと返答した。自分はとある豪農に住み込みで雇われている御者であり、主人の命令で留学から帰ってくるお嬢様と新しい家庭教師を迎えにジェネハルーに行った帰りである……。
「ふむ」
話を聞き終わった下士官は納得顔でうなずいた。だが、弓兵は納得していないようだった。懐から引っ張り出した紙を、フロイナの顔と見比べている。紙はむろん人相書きだろう。髪型をいじり、化粧を濃い目に施しただけでフロイナの印象はかなり変化しているはずだが、どうやらこの仕事熱心な……あるいは暇を持て余している弓兵には通用しなかったらしい。
わたしは内心でため息をついた。ちょっとした芝居が必要らしかった。
「ねえ、兵隊さん」
わたしは下士官に呼びかけた。
「お水、持ってません? この娘に薬を飲ませる必要があるんですけど、水壜割ってしまって……」
「少し先に村があるが……」
「なるべく時間どおりに飲ませたいんです」
わたしはジェネハルーで大枚をはたいて買った小道具、懐中時計をするりと取り出した。兵士たちの眼が、いっせいにわたしの手元に集まる。
西部諸国でさえ、携帯できる時計はそれほど普及していない。ここヤミールでは、個人で懐中時計を所有しているのはごく一部の政府関係者や商人、それに好事家だけであろう。おそらく、一般市民レベルでは見たことも無い人が多いはずだ。
「と、時計だ」
槍兵の一人が、どもる。
わたしはぱちんと蓋をひらくと、文字盤を下士官の方に向けた。
「ほら。もう十五分も過ぎてしまってますわ」
いったん、注目が時計に集まってしまえば、あとは楽であった。わたしが時刻の合わせ方や発条の巻き方を説明しているあいだ、兵士たちの注意は一点に集中しており、フロイナが槍兵の一人が小屋から持ってきてくれた木のカップ一杯の水で丸薬を飲み下すところなど、誰も見ていなかった。ありふれた滋養薬だったから、ちょっとお疲れ気味のフロイナにとって、意味がないわけではなかったが。
過去に立ち入られることを嫌がる人種がいる。
かく言うわたしも、そのひとりである。まあ、職業柄それは仕方のないことだろう。いままでの現場工作員としての実績を吹聴すれば、あちこちから命を狙われることは確実である。とくにあの件やいつぞやの事例では某国の顔に泥を……しかも飲み屋街の側溝に溜まったような野良犬でも避けて通る類の泥を指三本分くらいの厚さに塗りたくってしまったから、真相が某国に知れ渡れば、正規軍を動員しでもわたしを抹殺しようとするだろう。あの性悪国王なら、きっとそうする。
わたしとフロイナを乗せた馬車は街道を外れ、細くわびしい脇道を進んでいた。空気はかなり乾燥しており、時折見える低い丘陵にはほとんど緑色は見られず、さながら硬く焼き上げたビスケットのような色合いと乾き具合だった。
そんな中で見えてきた唯一の緑色の塊が、最前からフロイナがじっと見つめている森であった。それほど大きな森ではなく……少なくとも緑豊かな西部諸国の基準から見れば……子供の足でも昼食後に分け入って日が傾く前には縦断できるほどであったが、何しろ乾燥地帯に忽然と現れた森である。さながら安物のピザに一切れだけ載っているドライソーセージのスライスのように、誰の眼も自然に吸い寄せてしまう目立つことこの上ない存在だった。
その森を、フロイナはじっと見つめ続けていた。遠くを見る……実際に、遠くに森はあるのだが……哀しい目つきだった。あの森で、何かがあったのだ。フロイナ自身が何らかの経験をしたのか、あるいはフロイナの近親者があの森で何らかの経験を……これには死去も含まれる……して、その結果としてフロイナが多大な、しかも芳しからぬ影響を受けたのであろう。それくらいのことは、彼女の目つきと表情から読み取ることができた。
過去に踏み込むべきだろうか? フロイナに拒絶される危険性を冒してまで。
聞くべきだ、とわたしの直感が告げていた。理性の方は、直感に反論するだけの材料を持ち合わせていなかった。
「フロイナ」
フロイナが、わたしの声にぴくんと反応して眼を瞬いた。ひとつのことに注意を集中しすぎた者が、その集中を妨げられて示す典型的な反応だ。
「あの森で、何かあったの?」
そう訊かれても、フロイナは視線を森から外さなかった。だが、意識はわたしの方に向けられている。そういう気配が、濃厚に伝わってきた。
「話したくないなら、それで結構」
しばらくの重苦しい沈黙ののちに、わたしはそう言って話を打ち切ろうとした。彼女にも話したくない過去はいろいろあろうし、訊かねばならぬ必然性があったわけでもない。だが、フロイナはゆっくりと首を振った。相変わらず、視線を森に釘付けにしたまま。
「……いえ、聞いて下さい。懺悔代わりに……なるとは思わないけど」
懺悔、と聞いて、わたしはわずかに緊張した。
話は三ヶ月前に遡った。
すでにそのころ、メスタ・マークランドの指導のもと、〈軌道連絡船〉の改造作業は開始されていた。一方でそれに搭乗し、〈ツォーベル〉に向かうメンバーの訓練も始まっていた。
〈軌道連絡船〉に乗り込むメンバーには、いくつかの条件が課せられていた。ひとつは、健康であること。二つ目は、なるべく魔術を使えること。〈ツォーベル〉の内部に侵入するには、外殻を物理的に破る必要があるが、それには魔術をもってするしか方法がないのである。三つ目は、戦闘能力であった。〈ツォーベル〉内部ではとある理由から魔術が使えない。任務の妨害を図るであろうある種の機械と戦うために、剣や槍を使いこなす必要があった。
フロイナは、当初からそのメンバーに選ばれていた。健康であり、メスタに次ぐ魔術の使い手である。残る戦闘能力も、訓練すればすぐに身に付くはずだ。彼女には専属の教練係が付けられ、連日剣や手槍、さらには素手での格闘の訓練が行われた。
だが、フロイナはこれら訓練を内心では嫌がっていた。もともと争い事は苦手なタイプである。〈ツォーベル〉に赴き、世界を救いたいという気持ちはあるが、殺し合いの訓練を施されるのは苦痛でしかなかった。さらに彼女は、以前から自分の優れた魔術能力と、メスタ・マークランドの娘という村にとって枢要な地位を重荷に感じていた。普通の少女のように慎ましく平凡な暮らしがしたい……。その想いは、日増しに強くなっていった。
そんな中で、事件は起きた。メスタらが全幅の信頼を置いていた出入りの商人のひとりが、ヤミール当局の諜報員だったことが判明したのだ。
逃亡を図った偽商人を捕らえるために、メスタら首脳部は全力を傾けた。フロイナも当然駆り出され、捜索に投入された。もし偽商人がヤミール当局に計画のことを通報すれば、国軍の介入を招き、計画は破綻しかねない。
フロイナを含む捜索グループが割り当てられたのが、この森であった。フロイナら魔術を能くする者は、単独での捜索を命じられた。フロイナは、折から降り始めた驟雨の中で、必死に偽商人の行方を追った。計画が破綻すれば、多くの人命が失われる。それだけは、なんとしても避けたかった。
そして、彼女は見つけた。偽商人を。
フロイナには、彼を傷つける意図は毛頭なかった。彼女がかなりの魔術の使い手だということは、偽商人も承知している。抵抗しないように呼びかけて、仲間のところへ連れて行けばいい、そうフロイナは思っていた。
だが、偽商人は逆らった。フロイナが言葉を掛ける前に、ナイフを抜き放ち、眼に殺意を浮かべて、躍りかかってきた。
反射的な行為だった。フロイナは呪文を唱え……偽商人は倒れた。どくどくと流れ出した鮮血はできたばかりの水溜りに流れ込み、その水嵩を増すとともに色合いを赤紫色にしていった。
フロイナが人を殺めたのは、これが最初のことであった。彼女は、長いあいだそこにへたり込んでいた。
その二日後、フロイナは出奔を……なんとなく決めた。確たる決意もなく、気が付いたら最寄りの町から西へと向かう乗り合い馬車に席を占めていた、という感じの家出であった。準備といえば、小さな布袋に着替えを詰め込み、家から貴石の詰まった小袋ひとつと、クロエの複製をコピーした端末を失敬したくらいのものであった。行く当てもなく、ただ単に、このままあそこにいてはいつか精神に変調を来たすだろう、という確信に背中を押されるようにして逃げてきた、というのが真相であった。馬車を乗り継ぎ、川船を利用し、途中の町で買い求めた小縮尺の地図のみを頼りに、漠然と西を目指してきた彼女が最終的にたどり着いたのが、デフレセル王国の片田舎にある、小さな村の慎ましい貸家であった。住み始めて数日が経過し、やっと気持ちが落ち着いたころ、その家の隣に引っ越してきたのが、まだ若い元女教師だった。彼女の明るく柔らかな物腰と、フロイナを子ども扱いしない態度は、孤立感を深めていたフロイナの心を少しずつ暖かいもので満たしていった。……ひとりぼっちで旅してきたフロイナにとって、初めて出会った気の置けない人物だった。クロエを、別にすれば。
フロイナの話が終わった。
いまや、わたしも彼女と同様、あの森をじっと見詰めていた。脳裏に、不鮮明な映像が浮かぶ。倒れ伏す男。その傍らで、放心状態のフロイナ。二人を取り囲む無数の赤茶けた水溜り。無言で見つめている黒い大木たち。
そういえば、わたしが始めて人を殺めたのも、同じような状況下であった。殺す必然性はなく、抵抗されたためにやむなく刺したのだ。訓練で教えられた通り、胸骨の下をすばやく突き刺してから、さっと身を引く。あとあと思い返してみれば、そのときのわたしは驚くほど冷静であった。訓練の賜物である。物取りに見せかけるためにさらに数回浅く刺し……抉ってはいけない。それはプロのやり口である……、さらに髪や服装を適当に乱す。財布を失敬し、返り血を浴びていないことを確認してから、悠然と歩み去る。
わたしは視線を森から逸らすと、自分の右手をじっと見つめた。いままでいったい何人殺めただろうか? 現場工作員にとって、人を殺した回数が多いというのは、誉められたことではない。死体はいらぬ注意をひきつけ、任務を妨害する。上出来の任務遂行とは、できるだけ波風を立てないように行われるものなのだ。そういう意味で、わたしはまだ未熟者なのであろう。幼児がよく転ぶようなものだ。あるいは、羽化したばかりの蝶が上手に飛べないようなものか。
第十四話をお届けします。