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11 クロエ

 サドラヌとはもともと河の名前であり、その河口に発達した都市もいつしかそう名乗るようになった。そして後年、その都市と周辺地域が独立国家となった時も、ごく自然にサドラヌの名を受け継いだ。

 小さいが旅客専用の河船は、帆と櫂を併用して、緩やかに流れるサドラヌ河を遡上していた。行きかう船の姿は少なかった。すでに周囲に広がる土地はヤミール共和国領であり、この先大きな都市はジェネハルーくらいしかない。商人にとって、サドラヌ河中流域というのはあまり旨味のある土地とは言えなかったし、東部では西部ほど観光業も発達していない。

 ヤミールは美しい処だった。気候は西部よりもだいぶ暖かく、もう晩秋だというのに川面を渡る風はまったく冷たさを感じさせなかった。こうして甲板の上で日差しを浴びていると、上着なしでも心地よいくらいである。

 ほぼ平坦な土地には、例外なく濃い緑色の常緑の樹々がびっしりと生えており、その秩序を破っているのは点在する低い岩山だけであった。それがもともとの色合いなのか、それとも年月を経ることにより風化して色あせたのか、白っぽい岩石で形作られている荒々しい岩山は、緑の平原を海に見立てると大海の只中の孤島にも見えた。あるいは、苔むす地面から顔を出した異形の茸か。

 河岸の風景も、実に異国調であった。植物が繁茂する水際には、いまだ鮮やかな色彩の花が咲いていたし、その上空を飛び交い、また水面ですなどる水鳥たちの姿もまた、他の地方では見られぬ鮮やかな色彩を帯びていた。なかには前衛芸術家の夢に出てきそうな極彩色の鳥もおり、それらが乱舞する様は、遠目に見ても幻想的としか形容しようがない情景を作り出していた。

 明日で事実上任務は終了する、とわたしは考えていた。今日の午後半ばまでには、船はジェネハルー市に到着する。フロイナは、翌日にはジェネハルーを発ち、父親の元へと向かうと宣言していた。少なくとも、ジョレス・スタタムの性格としては、これ以上フロイナと行動をともにするのは不自然である。フロイナの出発を見届け次第、ジェネハルー駐在の連絡員と会い、ボンパールへの報告を託し、待機するしかあるまい。おそらく、次の命令はボンパールと直接会って詳細な報告を行え、というものであろう。そしてその場で帰国を命じられるはずだ。首都に帰ればいつも通りの報告書の作成、そして久しぶりの帰宅となる。わたしは顔をしかめた。任務が長期に渡ることを覚悟して、台所の食材はほとんど処分しておいたのだが、買い置いて戸棚にしまいこんでいた人参ひと籠だけ、忘れていたのだ。いくら寒い時期とはいえ、すでに硬く干からび、唐辛子のような外観になっていることだろう。

「どうかしたんですの?」

 隣で風景を眺めていたフロイナが、訊いた。

「ちょっと、やなことを思い出したのよ。気にしないで」

 わたしはしかめっ面を消すと、笑顔を見せた。フロイナが、安心したように笑みをもらす。だが、眼は笑っていなかった。

 ここ数日、フロイナは暗い表情ばかり見せていた。なにしろ、家出娘の帰郷なのだ。尻をぶたれることはないだろうが、父親とひと悶着あることは確実だろう。

 わたしはフロイナと過した日々を思い起こした。ほんの少し警戒の色を見せながら、扉を開けてくれた少女。シチューの味。ドロエダに関する原稿を真剣な表情で読むフロイナ。櫛通りのよい金色の髪に鋏を入れた感触。二人がかりで仔牛を抱き上げたこと。月明かりの下、魔術を使った時に一瞬見せた非情な顔。笑顔。しかめっ面。涙。

 不意に湧き上がった感情に、わたしは戸惑った。

 悲しみ。

 今までにも、楽しいと思える任務は多々あった。しかし、今回の任務は特別であった。

 任務を終わらせたくない。いや、フロイナと離れたくない。いつまでも一緒にいたい。

 わたしは意思の力で悲しみを心の奥底へ押し込めると、冷静になろうと務めながら自分の想いを分析した。これは、いわばフロイナに対する所有欲の表れなのだ。可愛くて、慕ってくれる存在に対しての、所有欲。未婚の女性が無邪気にすがり付いてくる他人の赤ん坊を、子供があとから尾を振りながらついて来る仔犬を、初心な男が懇意にしてくれる年若い酒場女を、自分の物にしたいと考えるのと同じことである。

 おそらく、もう二度とフロイナと会うことはないだろう。この商売を続ける限り、一度任務の上で知り合った対象に別な形で出会うのは、命取りになりかねない。

 わたしはフロイナの肩に手を回すと、そっと引き寄せた。傍目には、仲のよい姉妹に見えたことだろう。事実、わたしとフロイナは船員や他の乗客に姉妹であると触れ回っていた。もし本当にそうであれば、どれほど幸せか。

 わたしとフロイナは、長いあいだそうやって肩を寄せ合い、流れ去る風景を眺めていた。


 わたしが彼女に出会ったのは、ほんの偶然であった。

 その日の夕方、わたしとフロイナは船長をはじめとする高級船員たち……といっても、船長を含め三人しかいなかったが……に夕食に招待された。まあ、よくある船客サービスである。

 特に断る理由もなく、また固辞して目立つわけにも行かず、わたしとフロイナは招待に応じた。メニューは河船らしくシンプルなもので、わたしは味よりもむしろ柔らかな物腰の船員たち……同じ船乗りでも、このあたり海の男どもとは一味違う……とのおしゃべりを楽しんだ。

 食事が終わると、わたしたちは船長からカードゲームの誘いを受けた。フロイナはルールを知らないと断ったが、わたしは短時間ならばと注文をつけて応じた。カードは嫌いではないし、船上ゆえフロイナからしばらく目を離してもかまうまいと考えたのだ。

 ゲームはごく少額の現金を賭ける程度の慎ましやかなものであった。わたしはツキがなく、四回連続で負け、船長と操舵手に幾許かの献金をしてしまった。

「ちょっとツキを変えてきますわ」

 本当に久しぶりの賭け事に、実を言えばわたしはかなりのめりこんでいた。もうしばらくは、この感じのいい男たちと遊んでもかまわないだろう。カードテーブルを離れたわたしは、外の空気を吸い、気分を変えてツキを呼び込もうと、甲板への階段を上がった。

 人声に気付いたのは、大きく深呼吸してちょっと生臭い夜気をたっぷりと吸い込んだ直後だった。

 フロイナの声だった。間違いない。

 わたしは耳を澄ますと、そっと音源へ向かって歩んだ。ふたたび声が聞こえる。間違いない、フロイナの声だ。やや押さえ気味に、普通に会話する口調。誰としゃべっているのだろうか?

 わたしは甲板に膝をついた。ちょうど、真下あたりが、わたしとフロイナの船室だ。どうやら、船室に誰か訪ねてきているらしい。わたしは聞き耳を立てた。フロイナの声は断片的に聞き取れるが、相手の声はよく聞こえない。だが会話の間からして、独り言とは思えなかった。わたしは眉をひそめた。ジョレスさん、という言葉が何度も聞こえてくる。……わたしについてなにやら話し合っているようだ。

 これは相手を突き止めねばなるまい。わたしは甲板から足早に降りると、客室の前に立った。聞き耳を立て、相手が室内にいることを確認してから、いきなり扉を開ける。

 ベッドに腰掛けるフロイナが振り返った。驚きが、その小作りな顔に張り付いている。

 だが、驚いたのはわたしの方だった。予期していた二人目の人物が見当たらなかったのだ。さして広くもない客室である。人が隠れるところなど、ない。

 ……独り言だったのか?

 わたしは油断なく室内に目を走らせながら、扉を閉めた。

 フロイナが、失敗を取り繕うとする子供のような、おどおどとした笑顔を見せる。

「誰と……」

 ……しゃべってたのよ、と聞こうとしたわたしは、テーブルの上に置いてあるものに気付いて、言葉を切った。

 フロイナのペンダントが、無造作に置いてあった。常に首から下げ、服の中に入れている、銀色の四角いやつだ。そのすぐそばに、ワインのビンくらいの大きさの、精巧に作られた女性の人形が立っていた。

 美しい人形だった。髪は白に近いくらいの金色で、ゆるくウェーブがかかっており、たっぷり腰のあたりまである。横顔を見せている頭部は小さく……というよりも、世間一般に流通している人形の大半が頭身をデフォルメされているというだけの話なのだが……、目鼻立ちも控えめでリアルだ。おそらく、二十代後半くらいの女性をイメージして作られたものだろう。

 問題は服装だった。女性の人形の定番衣装といえばドレスだが、その一体が着けているものはある意味少女趣味のドレスよりも派手であった。上半身は下着としか思えぬ程度のものしか着けておらず、下半身は一応黒のタイトスカート姿だが、丈はひどく短い。どこの大都市でも、この格好で街に立っていれば、助平な男に『いくらだ?』と訊かれること請け合いである。

 絶対に、フロイナの趣味ではない。好色な好事家が人形師に作らせたのだろうか?

 わたしはよく出来てはいるが悪趣味な人形を注視しながら、無言のままテーブルに歩み寄った。フロイナは、困り顔を消し、諦めたような表情を浮かべている。

「見つかってしまいましたね。まあ、明日くらいには、ジョレスさんにも紹介しようと思ってましたから……」

 フロイナが独り言のように言う。

「どうしたの、この人形?」

 わたしは尋ねながら、テーブルの上に手を伸ばした。

 横顔を見せていた人形が、振り向いた。

「人形じゃ、ないわよ」

 人形が、そう、喋った。


 人は、あまりに突拍子もないことに遭遇すると、かえって冷静に対処してしまうものだ。手品師が帽子の中から鳩を取り出せば、タネを知らない人は驚くだろうが、助手がいきなり手品師を張り倒したりしたら、観客は誰も驚けないだろう。唖然とするか、呆れるかのどちらかである。

 そういうわけで、わたしはいきなり人形に話し掛けられても、驚くことはなかった。さすがに、触ろうとして伸ばした手は、熱い薬缶に触れてしまった時のように反射的に引っ込めてしまったが。

「クロエよ。よろしくね」

 人形……クロエが、名乗る。

「あ……ジョレス・スタタムです」

 間抜けだと思いつつも、わたしは名乗り返した。

 見れば見るほど、クロエと名乗る存在はよくできていた。金色の髪の生え際、長いまつげ、瞳のきらめき、赤い唇からわずかにこぼれる白い歯。……動かなければ、凄腕の人形師の手になる逸品としか思えぬ、精巧かつ精緻な作りだった。

「彼女は人形じゃありません。〈ツォーベル〉のメインフレームから移民船の端末に転送された、インターフェイスプログラムです」

 フロイナが、言う。わたしには、何のことだかわからなかった。

「あなたのことはフロイナから聞いてよく知ってるわ」

 クロエがしゃべりだした。彼女の声は、その小さな体の割に大きく、はっきりと聞こえた。声質は見た目相応の若い女性のものであり、わたしの耳にはわずかにボーデフあたりのアクセントがあるようにも聞こえた。

「まあ、わたしのことはフロイナの友人くらいに思っていてくれればいいわ。いずれ、もっと詳しく説明してあげられると思うけど」

「魔術なの?」

「……あなた方の言う魔術とはまったく違うけど……まあ、似たようなものかもね」

 わたしの質問に、クロエが肩をすくめる。

「クロエには実体がないんです」

 フロイナが、説明する。

「絵の一種ですわ。空間に立体的な像を結ぶ技術。むろん、失われた技術のひとつです。詳しいことは彼女に直接聞いてください。わたしも以前説明してもらったんですけど、ぜんぜん理解できませんでしたが」

「実演した方が早いわね」

 クロエが言い……その身体がかき消えた。次の瞬間、クロエはフロイナの膝の上に寝そべっていた。わたしの視線を捉え、意味ありげに微笑んでから、また消える。今度はなんと、わたしの右腕にしがみつく形で出現した。わたしは驚いてびくりとしたが、右腕に重さも感じなければ、皮膚に何かが接触している感じもしなかった。むろん、猫などの小動物を身体にまとわりつかせたときに感じる、体温の温かみや肉体が脈動する感触など、微塵もない。

「こんなこともできるのよ」

 クロエが、わたしの右腕をよじ登ると、右の乳房にとりついた。なおもいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、脚をわたしの腹に押し付ける。彼女の両足は、するりとわたしの腹に入っていった。

「それ、気持ち悪いからやめなさいって」

 フロイナがとがめる。だが、クロエはやめなかった。両手でわたしの腹部をつかみつつ、身体をどんどんとわたしの体内へと突き入れてゆく。実体はない、と聞かされていても、わたしは胃が収縮するような感覚を味わっていた。

「ほら。なんともないでしょ」

 いまや、クロエはわたしの腹から頭部だけを突き出させていた。さながら、超特大の出臍のようだ。

「判ったから、出てくれない?」

「了解」

 クロエは素直に応じ、するりとわたしの腹部から抜け出した。そしてそのまま何もない空間を、さながらガラス板でも渡してあるかのように歩み、ふたたびテーブルの上に戻った。

「で、クロエさん。あなた一体、何者なの?」

「フロイナに説明してもらった方がいいと思うけど?」

 わたしの質問を、クロエが艶然たる笑みで受け流す。

「そうですね……彼女は、父の計画と関係があるのです。ですから、すべてお話するというわけにはいきません」

 フロイナがいったん言葉を切り、テーブルの上のペンダントを手にした。

「本来クロエは、この中にいるのです。正確には、クロエの複製が、ですが」

 銀色のペンダント。フロイナが、以前から、おそらくわたしと出会う前から下げていたであろうペンダントだ。

「これは、単なるペンダントじゃないんです。移民船から持ち出した、汎用端末のひとつです。わたしは村を出るときに、ひとつを持ち出して、簡易バージョンのクロエの複製をコピーして、持ち出したんです」

「移民船って?」

「村にある遺跡ですわ。大災厄よりもはるかに古い時代の」

 ……どうやら、その遺跡がメスタ・マークランドの進める計画と大いに関連があるらしい。だが、その前にわたしには確認しておきたいことがあった。

「ねえ、フロイナ。そのペンダント、前から持ってたわね」

「はい」

「じゃあ、ずっと前からクロエはいたわけね」

「ええ」

「こうやってしゃべったりもしていたわけ?」

「ジョレスさんには内緒でね。だって、知られたら大変なことになったでしょ?」

 確かに。

「知りたいわね。なにもかも」

「それは……無理です」

 フロイナが、哀しげに言う。

「でも、計画が無事終わったら、何もかもお話します。包み隠さず。かまわないでしょ、クロエ?」

「話すのは、難しいんじゃない?」

 クロエが言い、フロイナを見上げた。クロエの笑みは、消えている。しごく真面目な表情だ。

「そうね。お伝えします、ですね」

 フロイナが言い直し、さびしげに笑った。

 わたしはその後もフロイナとクロエにいくつか質問を放ったが、返ってきたのは意味不明の単語を並べた解説とはぐらかし、それにこれ以上聞かないでくれという懇請だけであった。ジョレス・スタタムのキャラクターである限り、これ以上の追求は不自然だと諦めたわたしはベッドにもぐりこんだ。クロエはペンダントの中に消え、フロイナも自分のベッドに入る。わたしが船長たちとのカードゲームをほったらかしにしていたことに気付いたのは、寝入る直前のことであった。

第十一話をお届けします。

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