9 任務変更
ヴェンドーンの街の中央広場は、市街地の西端近くにある。
むろんこれは、市街地の発展によりもともと中央にあったものが取り残されるように西側へとずれていった結果に他ならない。南側を湿地帯、北側を丘陵、そして西側を海に囲まれている以上、新しい市街は東へと伸びるしかない。港湾機能と貿易関連施設はいまでも中央広場付近にあるが、それ以外の諸種の都市機能は、家業を継ぐのを拒否した若者のごとく、古い市街を脱してとうの昔にもっと東よりに移転をすませている。
いまでこそ商港として賑わってはいるが、ヴェンドーンの前身は漁港に過ぎず、この中央広場のあたりにはその頃の面影が色濃く残っていた。路地に立ち並ぶ酒場は、ぱりっとした服装の外国航路の船員よりは飲んだくれの漁師がたむろする方が似合いの狭く薄汚れた店ばかりだったし、商港の表玄関にはふさわしくない単なる民家の姿も眼についた。おそらく、古くからの漁師が代々住み着いていた家なのだろう。もうとっくに漁業から離れ、別の仕事で生計を立てているのだろうが、庭先に朽ちかけて突っ立っている網を干すための棒や、軒下に放置されている穴のあいたボート、もともとは漁具をしまう為に作られた差し掛け小屋などが、それら家々のかつての家業を静かに物語っていた。とある家の狭い庭には魚運搬用に通気口があけられた樽が三つ並んでいたが、すべて縁まで土を詰め込まれ、色とりどりの秋の花を咲かせたプランターとしての余生を送っていた。
わたしは薄いコーヒーを潮風とともにすすりながら、広場を行き交う人を観察した。見知った者の姿は、まだ見えない。
この茶店自体も、もともとは水揚げされた魚をさばく作業場だったらしい。壁には当時使われたらしい古びた漁具や包丁の類が飾られていたし、その頃の様子を描いた達者な鉛筆画も何点か掛けられ、単色の中年女性たちが小ぶりのナイフを使って永久に牡蠣の殻開けや青魚の干し物作りに悩殺されている。据えられたテーブルもその頃から使われていたものらしく、お茶を飲んだり食事をしたりするにはいささか低く、たっぷりと塩水が染み込んで黒ずんだ天板は傷だらけであった。そして深い傷の中には、例外なく牡蠣の殻かなにか、得体の知れない白っぽい破片が填まり込んでおり、差し込んでくる日光の角度によってはそれがきらりと光るのだった。
その女が現れたのは、三杯目のコーヒーが半分ほど減った頃合だった。
長い黒髪をなびかせ、颯爽と歩んできたその女性は、ちらりとこちらを一瞥してから、角の食料品店に入っていった。わたしは冷めてしまったコーヒーをすすりながら、女性が買い物を済ませるのを待った。ほどなく出て来た女性は、小さな紙袋を下げていた。立ち止まり、わたしの視線を捉えた女性は、軽くうなずきつつ手を振った。傍目には、偶然出会った知り合いと軽い挨拶を交わしたようにしか見えない動きだった。
わたしは微動だにしなかった。女性が歩み去る方向……港の方であった……を確認し、姿が完全に消えたのを待ってから、念のために周囲に気を配りつつさらに時間を潰す。
誰一人として、わたしに注目していなかった。
わたしは財布を取り出すと、コーヒー三杯の代金をテーブルにそっと置き、席を立った。さながら満月の前に星々の姿がかすむように、真新しい銅貨の輝きの前に牡蠣殻たちのきらめきはいっぺんに色あせてしまう。
長い黒髪の女性はラディスであった。では、無事だったのだ。わたしは安堵しつつ、港への道を急いだ。ほどなく、漁船用桟橋で野良猫の群れに囲まれている彼女を見つける。
「お互い無事でなにより」
紙袋から出したビスケットを砕きつつ、ラディスが言った。猫たちは撒き散らされたビスケットを、旺盛な食欲で片端から平らげてゆく。
「連絡員は?」
「わたしの父親が、ヴェンドーンの連絡員だったのよ。死んだわ。ひとまず、わたしが代理」
むろん、牧場の主人を装っていた男のことである。ラディスの実父ではない。
わたしは念のためにラディスと識別符号の交換を行い、お互いボンパールの管理下にあることを確認した。たとえ相手が親しい同僚だとしても、異なる任務中はみだりに情報の共有をすべきではない。
わたしは牧場での顛末を彼女にざっと教えてもらった。牧場夫婦に偽装した二人はともに死亡。ホイト君は負傷したものの、なんとか逃げおおせた。傭兵連中は全滅。ラムサル族は、八体の死体を遺棄して逃亡。
「捕虜は?」
「皆無」
まだ子猫のあどけなさを残す灰色の猫に掌に載せたビスケットのかけらを食べさせてやりながら、ラディスが簡潔に答える。
わたしは山中に縛ったまま放置した六人のおおよその位置を教えてやった。
「フロイナは?」
ラディスが訊く。
「寝てるわ」
わたしは泊まっている宿と部屋番号を伝えた。
「とりあえず、『長角材』と会わせて。大至急」
長角材は、今回のボンパールの暗号名である。
「手配するわ。夕方、もう一度あの茶店に来て」
付着したビスケットくずを落とすために、ラディスがぱんぱんと両掌を打ち合わせると、灰色の猫がびくっとして首を縮めつつ身を引いた。その猫はしばらくその姿勢でものほしそうにラディスを見上げていたが、もう貰えないものと観念し、仲間たちが撒かれたビスケットを奪い合っている処へ行こうと踝を返した。緊張のせいか長い尻尾はぴんと突っ立っており、雄猫であることが見て取れた。
「ラムサル族の武器について何か判った?」
「ぜんぜん」
ラディスが首を振る。
「とにもかくにも、あの武器が出て来たおかげで、問題が複雑化したのは間違いないわ。あんな武器を制式兵器に採用した軍隊は、おそらく無敵よ」
わたしは指の背を噛んだ。今回の任務、計算できない変数が多すぎる。フロイナの行動、ラムサル族、火噴き棒、そして、『きどうれんらくせん』……。
猫たちは、ラディスが撒いたビスケットをほぼ食べ尽くしてしまった。一匹の三毛猫が、桟橋に直接置かれている紙袋に近づき、前足でパンチを繰り出し始めた。何度目かの攻撃で爪が引っ掛かり、袋が倒れる。数枚残っていたビスケットに気付いた三毛猫は、さっそく中身を爪で引きずり出した。感付いた他の猫も群がり出し、紙袋があっというまにさまざまな色合いと模様の毛皮の中に消える。
饗宴はすぐに終了した。どの猫も食い足りないらしく、鼻を低い位置に保ちながら、桟橋の上を音もなく嗅ぎまわっている。要領のいい猫はラディスの足に擦り寄ってきたが、彼女といえども空気からビスケットを生み出せるわけではない。
紙袋は猫たちにもみくちゃにされ、ひどい嵐をきり抜けた船の主帆のように穴だらけにされていた。先程の灰色の猫が、未練がましく紙袋の臭いを嗅ぎ始めた。見ているうちに、彼は頭を袋へと突っ込んだ。洞窟探検に赴いた勇気ある少年のように、ちょっと躊躇の色を見せてからさらに奥へと侵入した猫の小柄な身体は、あっさりと袋の中へと潜り込んでしまった。袋の口から伸びる長い灰色の尻尾がゆらゆらと揺れている様は、さながら新種の生き物のようでもあり、なんとも奇妙であった。彼は猫特有の身体の柔らかさで、袋の中で器用に方向転換をやってのけ、口のところから顔だけ覗かせた。
彼はわたしとラディスを見つけ、首から下を袋に隠したままにゃあにゃあとか細い声で鳴いた。それはビスケットが見つからなかったことに対する抗議なのか、紙袋という格好の玩具を与えてくれたことに関する感謝の言葉なのか、わたしには判りかねた。
宿に帰ると、フロイナはすでに起きていた。
「決めました。父のもとへ帰ります」
こちらが上着を取る前に、彼女はそうきっぱりと宣言した。
「……ってことは、ヤミール共和国へ?」
「はい。宿の人に聞いたんです。サドラヌへ行く船便があるそうです。そこからなら、ヤミールまでいくらもかかりませんわ」
サドラヌは同名の小国家の首都であり、商港だ。ここから船ならば……今の時期ならば五日とかからないだろう。
「いろいろとありがとうございました、ジョレスさん」
フロイナが、深々と頭を下げる。
「あのラムサル族の人たちが何を狙っているのかははっきりしませんが、父の計画を邪魔させるわけには行かないんです」
「……そのお父さんの計画って、何なの? そろそろ教えてよ」
「わたしも、断片的にしか知らないんです」
済まなそうに、フロイナ。だがわたしは、その言葉に嘘の臭いを嗅ぎ取った。微妙なあやを聞き分けられるほど、彼女とは長い間一緒にいた。
フロイナが、とつとつと語りだす。だが、彼女が語る『断片的なこと』はわたしの知識を増やしはしなかった。ただひとつ、フロイナが『きどうれんらくせん』に乗り込むように期待されていることだけが、新事実であった。
「サドラヌ行きの船はいつ出るの?」
「明日の朝です。宿の人に頼んで、もう乗船券も買ってもらいましたのよ」
フロイナが、クリーム色の紙片を自慢げに見せる。わたしはなにげないふりを装いながら、船名や船室番号を記憶に刻み込んだ。港湾事務所で小銭をばらまけばすぐにわかる事柄だが、この方が時間の節約になる。
「それから……」
フロイナが、首に掛けてあるチェーンを手で手繰った。例の、鈍い銀色に光るマッチ箱半分くらいの四角く平べったい地味なペンダントと、貴石が収められている小さな布袋が、姿を現す。わたしは興味深げな表情を取り繕って、それを眺めていた。……フロイナがそんなものを持っていることを、ジョレス・スタタムは知らぬはずである。
チェーンから袋を外し、縒り合わせた糸をほどいてその口を開けたフロイナは、中に指を突っ込むと、紅く輝く小さな石を取り出した。
「お礼といってはなんですが、差し上げます」
その美しさに、わたしは思わず掌を差し出していた。フロイナが、紅い輝きをそっと乗せてくれる。驚くほど冷たい。
わたしは貴石をほれぼれと眺めた。ざっと磨いてあるだけだが、それでもそのきらめきは眼を射るようであった。
「あと一年くらい、休職していられるはずですわ」
フロイナが、微笑む。
「ちょっと見せて」
我に返ったわたしは、ジョレス・スタタムのキャラクターに戻ると、フロイナの手から小袋を半ば強引に奪い取った。中を覗き込み、驚嘆の声をあげる。
「すごい。……こんなにあるのなら、ひとつくらい貰ってもいいか」
わたしは袋を返すと、紅い石にキスした。それを指先に保持したまま、にこりと微笑む。
「ありがとう、フロイナ」
ジョレスならば、遠慮なく貰うはずである。
「それから、これも」
フロイナが再び小袋に指を突っ込むと、今度は碧に輝く貴石を取り出した。……わたしが貰った紅い石より一回り大きい。
「あつかましいかもお願いかも知れませんが、牧場で迷惑を掛けた方々にこれで何かして差し上げてくれませんか?」
「まかせて」
わたしは力強く言うと、碧の石も掌中に握り込んだ。
「ではこれにサインしてくれ」
わたしの口頭報告を受けたボンパールが差し出したのは、厚紙を二つに折ったタイプのレストランのメニューであった。
受け取ったわたしはメニューをわずかのあいだ観察した。書き連ねられている料理はいずれも高級なものばかりだったが、添えられている値段はかなりリーズナブルである。おそらく、店構えは立派だが、味やサービスは二流という店であろう。よく新聞に、『若い恋人のデートにぴったり』などと紹介されている、おしゃれな内装だけが売り物のレストランだ。そういう処はたいてい繁華街の賃貸物件に店を開いており、固定客がつきにくいために、経営が苦しいところが多い。わたしの住まいの近所にある店なんぞ、この一年で店名が三回、経営者が二回変わっている。しかし従業員の顔ぶれはまったく同じであり、出す料理の味もまったく進歩がない。
わたしはワインとおぼしき染みがいくつもついているメニューを開いた。
あいだに挟まっていた紙は、わたしの機密情報取り扱い等級をワンランクあげるための公的な書類であった。すでにアデヤントの署名も入っており、あとはわたしがサインするだけになっている。
わたしは正直驚いた。今のところ、わたしの機密情報取り扱い等級は四級であり、現場工作員としてはもっとも上の部類である。ひとつ上の三級といえば、上級管理職クラスの等級だ。おそらく、ボンパールも三級であろう。
「サインしてくれんかね。でないと、話を始められん」
ボンパールがにやつきつつ、ペンを差し出してくれる。
わたしはペンの跡がメニューにつかないように、書類をテーブルの上に移すと、本名をサインした。インクが乾いたのを確認してから、書類をメニューに挟み、ボンパールに返す。
「結構。では、本題に入ろう」
情勢はかなり変化していた。我が国の外務省から圧力を受けて、ヤミール共和国当局が情報を開示したのだ。
ヤミール共和国の公安当局は、かなり以前からメスタ・マークランドとその一味の活動状況を注視していた。両者の関係は、単純ではあるが微妙な状態にあった。ヤミールは、面積こそ広いものの人口は少なく、東部でも小国と言える。一方、メスタはその傘下にかなりの人員を抱えており、出所は不明なものの潤沢な資金を持つ。ヤミール共和国としては、メスタの勢力が面倒を起こさない限りその存在を黙認するつもりだったし、メスタ側も国家権力と揉め事を起こすつもりはさらさらなかった。両者は反目しつつも、互いを無視する形での共存の道を歩んできた。
しかしながら、今年の春ころから情勢は変化しつつあった。メスタの部下と思しき複数の人物が、ヤミールないし近隣諸国の都市に出没し、かなり派手に金を使い出したのだ。保存食料、精錬された金属、規格品の製材、土工用具などが大量に買い付けられ、メスタの本拠がある地域に向けて運び出されたのを、ヤミール政府が確認する。また、公安当局の外事部門は、メスタの右腕と目される人物がいくつかの都市で人を集めていることも突き止めた。特に技術者が高給と引き換えに数多く雇われており、その種類も冶金関係からレンズ研磨の職人まで多岐に及んでいた。
……メスタがなにかを企んでいる。そう睨んだヤミール当局は、工作員をメスタの本拠に送り込んだ。だが、その人物からの連絡は途絶えたままだ。
「どうやら、ヤミールよりも周辺諸国の方が危機感を覚えているらしい」
ボンパールが、続けた。
「魔術貴族による本格的反乱の前触れと危惧してな。ヤミールのベンエリエゼル大統領は、外交下手で有名だし、国内の権力基盤も脆弱だ。ボーデフやシャイメーンが本気になって圧力を加えれば、メスタ勢力一掃に向けて何らかの行動を起こさざるを得なくなるかもしれん」
「はあ」
わたしはあいまいな相槌を返した。
「メスタ・マークランドが反乱を企んでいるとなると、これは我が国の安全保障に関しても重大な影響を及ぼす恐れがある。言うまでもないが、東部諸国の政治的安定は、貿易と工業製品輸出に軸足を置く経済国家たる我が国の国益に繋がる。すでにわが国王陛下は、今回の一連の出来事に関しできうる限りの援助を与える用意があるとの内容の書簡を、ベンエリエゼル大統領に対し送られた」
「……そこでわたしの出番となるわけですか」
「フロイナを追え。もし可能ならば、メスタの本拠に潜入しろ。任務は受動的情報収集に留める。報告のため、あるいは自己の安全を守るための任務からの離脱は自由に認める。頼むぞ」
「了解しました」
わたしはうなずいた。結局、あの娘と簡単に縁は切れそうにない。
「ラムサル族や『きどうれんらくせん』なる物に関しては、分析結果を誰かに送らせよう。もし『きどうれんらくせん』が魔術を利用した何らかの兵器であるとすると……」
ボンパールが、考え込むように言葉を切る。
定期貨客船が、ヴェンドーン港をあとに外洋へと出てゆく。
わたしは手すりに両肘をつき、遠ざかってゆく町並みを眺めていた。天候は上々で、波は穏やかだ。これなら、船酔いに苦しむ船客も少なくて済むだろう。
上空では、キホロカモメの群れが鮮やかな黄色い気嚢をめいっぱい膨らませて、のんびりと潮風の中を漂っていた。一羽だけがせわしなく翼を動かし、群れの外周で輪を描くように旋回し、警衛役を務めているが、こののどかな情景の中ではおそらく無用の警戒というものだろう。
……さて、そろそろフロイナに会いにいくか。
言い訳は、すでに出来上がっていた。ボンパールに依頼し、わたしとフロイナを警察の手配者リストに載せてもらったのだ。ヴェンドーン郊外の牧場で発生した大量殺人事件の容疑者としての、手配である。もちろん現場はラディスが集めた人々の手によりきれいさっぱり片付けられており、地元の警察も内務大臣官房から不介入の厳命を受けたはずである。しかし、フロイナはそのことを知らないはずだ。
殺人の嫌疑を晴らすためには、フロイナの協力が必要である。しかし、ジョレス・スタタムとしては、メスタの元へ帰ると決断したフロイナの意向も尊重したい。そこで、同行を許してほしいと持ちかけるのだ。手配されたままではこの国にいられないし、フロイナを見失うのも不安である。一緒に行動し、フロイナがメスタの計画とやらを成し遂げてから、ヴェンドーンに戻って容疑を晴らしてくれればいい……、というシナリオである。
わたしは階段を降りた。フロイナの予約した船室は、甲板から一層下にあった。部屋番号を確かめてから、ノックする。
応答はなかった。
まだ甲板にいるのかもしれない。ヤミールは内陸国である。フロイナもおそらく、河船以外の船旅の経験はあまりないであろう。面白がって、船内を見物しているのかもしれない。あるいは、潮風に頬をなぶられる快感に酔いしれているのか。
わたしは階段を上がると、のんびりと甲板を巡り歩いた。だが、あの目立つ金髪頭は見当たらなかった。
ふたたびフロイナの船室前に戻ったわたしは、扉を強めにノックした。だが、相変わらず応答はない。わたしは漠然たる不安を覚えながら、船客を管理する事務長の元へと赴いた。
「十五号室のフロイナ・モリス嬢。ふむ、乗船なさっておりませんな」
船客名簿を眺めながら、小太りの事務長が言う。
……やられた。
わたしは臍をかんだ。思えば、購入した乗船券を見せるフロイナのしぐさは、いささかわざとらしかった。その時は、子供っぽい自慢ゆえと判断したのだが……。
いずれにしても、当面打つ手はなかった。いくらなんでも、港に引き返せと命じるわけにはいかない。
わたしはフロイナが変装して乗り込んでいる可能性に賭けて、昼過ぎまで船内を捜索した。だが、あの可愛らしい少女の姿はどこにもなかった。
船内の食堂で遅い昼食を採りながら、わたしは状況を検討した。ヤミールに戻る、と言ったフロイナの言葉に、嘘はなかったように思う。わたしに虚偽の乗船券を見せたのは、もうこれ以上迷惑を掛けたくない、という感情の表れだろう。
あるいは、わたしの正体に感付いたのか?
冷めてしまった紅茶を飲みながら、わたしはその可能性についてじっくりと考えてみた。確かに、知り合ったばかりの一友人としては、身の危険も顧みずにフロイナに関わりすぎていると言える。明白なぼろを出した覚えはないが、鋭い頭脳の持ち主ならば、ジョレス・スタタムが単なる女教師でないことくらい、見抜けるだろう。虚偽の乗船券を見せたのは、フロイナの思いやりかもしれない。面と向かって、『あなたの正体は判っています。もう追わないで下さい』と言われたら、プロとしての面目は丸潰れだろうから。
しかし、任務は任務である。わたしはフロイナを追わねばならない。もし正体がばれていたのなら、そこで任務の遂行を断念すればいいことだ。
開き直ったわたしは紅茶を飲み干すと、船長の処へと出向いた。船籍は幸いなことに我が国のものだったので、船長に提示した保健衛生局職員の身分証明書はかなりの効果をもたらしてくれた。
わたしは船長が『快く』貸してくれた事務次長と二等航海士の手を借りて、フロイナが乗船しそうな船の洗い出しを始めた。彼女がヤミールへ戻るならば、おそらく他の船便を利用しただろうと考えたのである。陸路という手もあるが、いささか時間がかかる。
「一番速いのは、これですね」
さすがにプロである。わずか数分で、該当する便を事務次長が船名簿から探し出した。
「ヴェンドーンを出航するのは本船よりもあとですが、小型の快速船なので、途中で追い抜きます。寄港なしで、ボッテイル到着が明後日の昼頃」
ボッテイルはボーデフ王国の首都でもある海港だ。
「ボッテイルからなら、サドラヌでもその周辺のいくつかの港でも、直行便は何本もあります。もしあなたの探しておられる人物がサドラヌを目指しているのであれば、本船より半日は早く着けるでしょうね」
黒々とした口髭を蓄え、事務屋よりは船長の方が似合いそうな事務次長が言う。
「この船の最初の寄港先はどこだったかしら?」
「トーレルです。夕方には、入港しますよ」
二等航海士が即座に答える。
「先回りしようと言うのですな。面白い」
事務次長がにやりと笑い、テーブルの上の書類を繰り始める。
「なんだかこんな小説読んだことあるぞ」
同様に書類を繰りながら、二等航海士がぼやいた。
「船上での殺人事件を扱った話で、犯人が巧妙に船を乗り換えて完璧に近いアリバイを作るってやつだ。たしか、今おれたちがやってるようなシーンがあった」
奮闘一時間。無駄にしたメモ用紙十八枚。
「無理ですな。どうしても、二時間は遅れる」
事務次長が、頭を掻いた。
「船をチャーターしても無理ですね。むしろ、定期の快速船を利用した方が早い」
二等航海士も、さじを投げる。
「ありがとう、みなさん」
わたしは事務次長と二等航海士に深々と頭を下げた。
「ところで、トーレルでの停船は何分?」
「規定では、三十分です。わずかですが、船貨の積み込みがありますから」
それだけあれば、連絡員と話し合う時間は充分だ。
「どうするんです?」
二等航海士が、興味深げに聞く。
「追いつくためには、こちらが急ぐ以外にも方法があるのよ」
言うべきではなかったかもしれないが、親身になって協力してくれたこの二人に、わたしはわずかだが好意を抱いてしまっていた。
「方法? まさか、向こうの船を……」
言いかけた事務次長の口をふさぐかのように、わたしは手元の定期船目録をぴしゃりと閉じた。
「いまのは聞かなかったことにして。でないと、上司にこの船の厨房はネズミとゴキブリの王国だ、って報告書を提出しちゃうわよ」
第九話をお届けします。