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ジェイクが邪神として覚醒するのは約一か月ほど先の話。
つまり、彼はまだ人間である。
それだけが、今のクラリスにとっての唯一の救いだった。
編み込みがほどけた黒髪と、泣き腫らした紫色の瞳。着替えた覚えのないネグリジェの下は、一糸纏わぬ生まれたままの姿。
昨晩何があったのかは言わずもがな。
(終わった……何もかも)
クラリスは浴室の床にへたり込むと、自分のあられもない格好を見下ろし、改めて深く嘆息した。
ショックのせいか、ガウン姿のジェイクに肩を抱かれても男嫌いが反応せず、鳥肌も立たない。
それとも慣れ? 免疫が出来た? などと、考えるだけで恐ろしい。
「クラリス」
「……何ですの? わたくし、少しひとりになりたいんですけれど」
「僕と結婚して欲しい」
クラリスの頭の中に教会の鐘ならぬ、世界の終末を告げる七番目のラッパの音が響き渡り──そのままパタン、と横に倒れた。
「大丈夫かい? 僕のクラリス」
すぐさま抱き上げられ、つい、ぎゃっと悲鳴を上げる。
自動で開くドアに驚き──乱れた寝台のシーツ、床に脱ぎ散らかされたワンピースと下着。まだ生々しさが残る痕跡を見て、またまた叫ぶ。
「わ、わたくしは貴方のものじゃありません!」
「昨晩はあんなに可愛く僕に甘えてくれたのに?」
「そっ、それ、それは……!」
覚えてない、と言いかけて口を噤む。
下手につっこみ、昨晩の状況を詳しく説明でもされようものなら、この場で卒倒してしまいそうだ。
「可愛いだなんて。婚約破棄されたばかりでジェイク様と……ただの尻軽女ですわ」
「とんでもない。泣き濡れながら、僕に細い腕ですがりついてくる様子は見ていて痛々しかったよ」
「……本当は、ふしだらな女だと呆れてらっしゃるんでしょう? 」
「ふしだらで何が悪い。昨晩、僕の腕の中で乱れる君の姿はとても綺麗だった」
額に唇を落とされ、ぞわりと鳥肌が復活。ついでに落ち込む。──余計な事を聞くんじゃなかった。
「なぜ、そんな浮かない顔をする? 君はもうミカエルの婚約者じゃないんだし、僕らの結婚には何の問題もないだろう」
「で、でも。わたくしは国外追放を言い渡された身ですし、公爵家令嬢の身分も剥奪されて」
「そんなもの、僕がいくらでも揉み消してやる。君は何も心配しなくていい」
(くっ……! そういえばこの男、無駄に権力も魔力も強いんだった)
力関係で言えば国王陛下と同等くらいに強い。
だからこそ、王城とは別に城を構えたり、国教で蔑視されている魔狼を飼ったりできるのだ。
「もう一度改めて言う。僕と結婚してくれ、クラリス」
一夜を共にした王子様に、お姫様抱っこで甘く求婚される。
夢のようだ。いや、できれば夢であって欲しい。
「恩返しは昨日で終わったけど、僕は男として、昨晩の責任を取らなくちゃいけない。これから一生をかけ、必ず君を幸せにする」
余命一か月の花婿が無責任に宣誓する。
これで喜ぶのは、遺産か保険金目当ての結婚詐欺師ぐらいだろう。
クラリスは思わず両手を組み、神に祈った。
「嬉しいな。神に感謝するくらい君が喜んでくれるなんて」
「……懺悔してるんですわ。わたくしのこの醜い背中で、ジェイク様のお目汚しをしてしまった事を」
あくまでもしおらしく、深いため息を漏らしつつ言う。
──こうなれば最後の手段だ。
「ディアルクト王国の王太子殿下ともあろうお方の花嫁に、わたくしのような傷ものの令嬢は相応しくありません。どうか考え直してくださいませ、ジェイク様」
「でも君、ミカエルとは婚約したよね?」
「彼は第二王子ですし、立場が違いますわ。それにミカエル様は十年前、わたくしが階段から落ちたのは自分が求婚して驚かせたせいだと、わざわざ家に謝罪しに来てくださったんです」
一週間ぶりの再会に青褪めるクラリスと、頰を染めるミカエル。
前世の記憶が戻っていたクラリスは正直、その場から全速力で逃げ出したかった。ミカエルと婚約さえしなければ、破滅エンドを全て回避できるのだから。
けれど包帯でぐるぐる巻きにされた背中は呼吸するだけで痛むし、絶対安静だからと、魔法で寝台に拘束されていた。
自力での脱出は不可能、万事休す。
「傷を負わせた責任を取りたい、と両親に深々と頭を下げられて……改めて求婚されてしまっては『はい』と言わざるを得ませんでしたわ」
その後はまさにお祭り騒ぎ。父母はもちろん、使用人の皆からも盛大に祝福され、もはや後戻りなどできない状況。
──それが、クラリスの悪役令嬢としての人生の幕開けだった。
ゲームでの悪役令嬢は、そのお見舞いの日から調子に乗り、ミカエルや周囲に対して横暴に振る舞うようになる。
癒しの聖女としての仕事も、ミカエルの婚約者という理由で拒否。少ない給金でも張り切って仕事に励む、現実のクラリスとは全く真逆の性格だ。
しかし辿って来た道は違えど、嫌気がさしたミカエルに『ニセ聖女』と罵られ、婚約破棄される結末は同じだった。
それはつまり、ジェイクの邪神化も止められない、という事の証明でもある。
「ジェイク様の(残り少ない)貴重な人生を、これ以上、わたくしなどのために無駄遣いなさらないでください」
「だけど僕だって昨晩、きっ、君を傷ものにしてしまった。きちんと責任を取りたい」
(恩返しの次は『責任』か)
誠実と言えば聞こえはいいが、こうも連呼されると、なにか押し付けがましく感じてしまう。
こちらの気も知らないで……! 眉根を寄せたクラリスは、自分を見つめるジェイクから目を逸らした。
「傷ものだなんて、ジェイク様は大げさですわ。こんなもの、酔っ払った勢いで起きた一夜の過ちじゃありませんか」
「過ち……?」
ジェイクの声が急激に低く、弱々しくなり、クラリスを抱く手がぶるぶると震え出す。
「君は、僕をまったく愛してないと?」
唐突な質問に、クラリスの大きな瞳が何度もまばたく。
もしや不敬と受け取られたのか。それとも後になって文句を言うなよ、という念押しだろうか?
顔を見るのがちょっと怖い。
とりあえず、俯いたままで弁解しておこう。
「い、いえ。もちろん敬愛はしておりますわ。王太子殿下としてとても立派な方だと存じてますし」
「……敬愛。本当にそれだけなのか」
「もちろんです! 決して男女の愛などではありません!」
「………………」
長すぎる沈黙が怖い。
焦ったクラリスは首にかけていた聖女の証、十字架のネックレスを掴み、ジェイクの前に突き出した。
「崇拝するバルドル神様に誓って、絶対に後で恨み言など申しません! で、ですからどうぞ、安心なさってください!」
「バルドル神? そ、そこまできっぱり………」
消え入りそうな声になったジェイクが、クラリスを寝台の上にそっと下ろす。
そのまま背を向けてしゃがみ込むと、顔を手で覆い「愛ってなんだろう……」などとぶつぶつ呟き始めた。愛に悩む邪神。気にはなる。が、構ってはいられない。クラリスはその隙にワンピースに着替え、トランクを手に取った。
(今のうちにさっさと出て行こう)
事故にあったとでも思えばいいのだ。
嫌なこと、辛いことは全て忘れ、他国で第二の人生を──と、ドアノブに伸ばしかけた手を、横からがっちり掴まれた。
「どこへ行く」
ジェイクの金と銀の瞳が、獰猛な輝きでクラリスを射抜く。
クラリスは頰を引きつらせつつ振り返り、にこりと笑った。
「……ジェ、ジェイク様がその、疲れてらっしゃるんじゃないかと思って。少しお休みになられたほうが」
「昨晩、君と一緒にデザートを食べてなかった事を思い出したんだ。それくらい、付き合ってくれてもいいだろ?」
顎を持ち上げられ、さする親指がくすぐったい。つい目をぎゅっと閉じると、下唇の膨らみをゆっくりとなぞられる。
塗り付けられたのは、とろりとした蜜? と思った時には魔法で転移され、寝台の上に落ちていた。
「これは試食の生クリームだよ。……食べてみる? クラリス」
「ジェ……っあ」
指先のクリームを塗り付けた首すじを舌で舐め上げられ、声を上げるクラリスの口を、ジェイクの甘い唇が塞いだ。
押さえつけられた手首も、繰り返す口づけも、何もかもが熱くて、とろけてしまいそうだった。
「……美味しい?」
「はい」
素直に頷く。この独特な試食方法はさておき、クリームのみの感想としてはかなりの絶品だった。
満足げに微笑んだジェイクが、クラリスの耳に唇を落とし、囁く。
「……早く、君が産んだ僕の子どもを見てみたい」
「こっ、子ども?」
といえば妊娠から出産まで十月十日。
残念だが間に合わない。ここは勇気をもってきっぱりと──
「無理です!!!」
クラリスが叫んだとたん、ジェイクが胸を押さえてよろめき、寝台の上にバタンと倒れた。