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どっちも嫌です、と言ってしまいたかった。
しかし相手は王太子。どちらがいいかと聞かれてしまえば、選択するしかない。
「それならお食事をご一緒させていただきますわ。その後、国境に送ってくださいませ。ジェイク様の素敵な黒馬車で」
仕方なく、ギリギリの妥協案を示す。これならクラリスにとってもメリットがある。
「でも僕、さっき飲酒しちゃったし」
「シャンパンは酒じゃないって、さっき仰ってましたわよね?」
「それに、国境の門は明朝まで開かないよ? 王都のホテルもとっくに受付終わってるしね」
「……」
そういえばそうだった。しかし、それならなおさら付いては行けない。
この流れだと、食事が終われば必然的に泊まって行け、と言われるだろう。躊躇うクラリスを見透かすように、ジェイクは差し出した手を引っ込めた。しゃがみこみ、地べたに座ったクラリスと目線を合わせる。
「正直言うとね。君をここに放置して行くと、僕のほうが困るんだ」
「……困る? ジェイク様が? ど、どうして」
「うん。実はこの森、僕が国から管理を任されてて。万が一、君が獣にパクッと食べられでもしたら責任問題になっちゃうからね。できれば大人しく保護されてほしい」
保護、と繰り返す。恩返しじゃなかったのか。
そういう事なら致し方ない。クラリスはこくんと頷いた。少しばかり、神経質になり過ぎていたのかもしれない。
何しろジェイクはこの十年──クラリスが聖女の仕事中に暴漢に襲われたり、攫われそうになったり、水溜まりに落っこちたりした時も、悲鳴ひとつで飛んで来たのだ。教会の草むしりで虫に驚き、声を上げたところにポンと転移してきた時などには、一緒にいたシスターが卒倒してしまった。
(思い出すと頭痛がしてくるわ。そりゃ、助けてもらったのは有り難かったけれど)
王妃殿下を救った事を、初めてちょっぴり後悔する。──と、背中の古傷がずきりと痛んだ。
まさか、バチでも当たったのだろうか? 頰を引き攣らせ、クラリスは暗い夜空を見上げた。
「階段から落ちた時の傷、まだ痛むんだね」
「! 心の声まで聞こえるんですか?」
驚いてついジェイクを見る。にぃっと悪戯っぽく笑う口元がなんだか小憎らしい。
「ただの勘だよ。クラリスは痛みを我慢してる時、いつも僕から目を逸らすから」
「がっ、我慢だなんて。ただ風で身体が冷えたせいで、少し傷が疼いただけです」
「ああ、だいぶ寒くなってきたからね。じゃあ、そろそろ僕の城へ行こうか」
ジェイクが改めて手を差し出し、話がふりだしに戻る。
どうもさり気なく誘導された気がする。眉根を寄せたクラリスは、じっとジェイクの顔を覗き込んだ。
「恩返し……ではないんですのよね? これは」
「もちろん、これはあくまで保護だ。それに、泣いてる女性を介抱するのは男として当然の義務、重要な責務だからね」
「じゃあ本当に、恩返しは前回が最後?」
「ああ、神に誓って約束する。──僕の君への恩返しは、本当の本当にあれで最後だ」
未来の邪神がきりっとした顔で、神に誓いを立てる。
が、どうにも信用できない。その手を取ってはみたものの、一抹の不安が残った。
前世の記憶によれば、ジェイクが邪神化するのは十年前、母親である王妃殿下を暗殺された事がそもそもの切欠だった。現実ではクラリスが一度は救ったものの、数年後に闇討ちにあい、結局命を落としている。
その後はゲームの設定同様、彼自身も幾度となく命を狙われ、身内にまで裏切られた事で、酷い人間不信に陥る。そして今から一か月後──積もり積もった人への憎悪が、遂にジェイクの心と体を蝕み、禍々しい邪神となって顕現してしまう。その巨大な姿は夜よりも深い暗黒で象られ、森も町も破壊し、たまたま道を歩いていた悪役令嬢ごと、灼熱の黒炎で全てをこんがりと焼き尽くすのだ。
まさに悪夢だ。あれがもし現実に起きたらと、思っただけで身震いしてしまう。
「そんなに寒いのかい? あと少しで城に着くけど、なんなら転移で送ろうか」
「い、いえ。平気ですのでお気遣いなく。……ああ、お城の屋根が見えてまいりましたわ」
ジェイクの居城は不思議な森の奥にひっそりと佇んでいた。
隣家どころか、辺りに家は一軒もない。
(スチルで見た通り、黒一色のお城……! 屋根や壁だけでなく、鉄柵門や噴水まで真っ黒だわ)
そういえば今ふたりで乗っている馬車も黒だし、引いている馬も確か黒毛だった。
ジェイクには「お姫様抱っこで夜空を散歩しながら行こう」などと提案されたが冗談ではない。男性嫌いなこちらとしては、手を繋ぐくらいが限界なのだ。
飛行魔法でのエスコートをきっぱり拒否したクラリスのために、ジェイクが手配してくれた黒ずくめの馬車。馭者はおらず、どうやら手綱は魔法で動かしているらしい。
さすがは千年に一人といわれる神業の魔法使いだ。
ジェイクは優秀な聖騎士でもあり、各国での魔物退治はもちろん、隣国との対戦では十五歳の頃からディアルクト王国の総督として兵を率い、今のところ全勝している。
彼を失うことは、国にとっても大きな損失だろう。そう考えると胸が痛む。クラリスは思わずため息をついた。
「……城に入ったらまず、食堂に案内するよ。さっき馬車を取りに一回戻った時、食事の支度を使用人に言いつけておいたから」
「あ、ありがとうございます……」
空腹を気遣われてしまった。赤面しつつ、少しホッとする。使用人、か。そういえばジェイクの城には確か、ふたりほど侍女がいたはず。
(ふたりきりじゃなくて良かった。ま、まあ、どうせジェイク様と一緒にいても、何も起こりっこないけれど)
「さあ着いた。──仕事以外で、この城に人を招くのは初めてだな」
「……」
ぽつりと漏らしたジェイクの独り言を、クラリスは知らん顔でやり過ごした。
鉄柵門をくぐったところで黒馬車を降り、生垣の間の遊歩道を通り抜けて城へと向かう。見上げた漆黒の居城は、全ての窓からカーテン越しの明るい光が漏れている。中央にある黒と白の大理石を配した長い階段を登りきると、天井まで届く大きな黒塗りの扉が、口を開けてふたりを待ち受けていた。
ジェイクの後に付いて中に入ると、案の定壁や天井、調度品まで黒一色。
(魔法のおかげか中は十分明るいし、あたたかくて快適だけれど……こうも黒ばかりだとさすがに少しげんなりするわね。……それに)
クラリスは横をちらりと見た。
入り口の両側で頭を深々と下げている、黒髪のツインテール。
黒いお仕着せ姿の侍女たちが顔を上げ、大きな瞳をぱちくりさせつつクラリスを見る。
どうやら双子らしく、全く同じ顔に同じ動き。まるでからくり人形のようだ。
「ようこそ、シュバルツア城へ。お荷物、お預かり致します」
「食堂へ、ご案内致します」
「あ、あり、ありがとう……」
(め、目の焦点が合ってなさ過ぎて怖い。スチルの絵じゃ可愛く見えたのに……!)
少々頰を引きつらせつつ長い廊下をふたりの案内で進んで行く。並んでいる黒いドアのうち一枚だけ白いドアの前で、侍女たちが同時にぴたりと止まった。
「「こちらが、食堂でございます」」
見事なシンクロで両開きのドアを開くと、トランクを手にしたひとりは廊下を右に、もうひとりは左にトコトコと歩き去って行く。
慣れてくると、どこかギクシャクした動きもちょっぴりユーモラスに見えてきた。
「僕の席はここだけど、君はどうぞ好きなところへ座って」
二十人掛けの長いテーブルの端に座ったジェイクがにこやかに微笑む。
(良かった。テーブルセットはさすがに黒じゃない)
趣味は決して悪くない。けれどやっぱり真っ黒なテーブルでは、美しく盛り付けられた料理の魅力を半減させてしまいそうだ。
ホッとしながら白地に金細工が施された豪奢な椅子に腰を下ろす。
「失礼致します」
「ええ、ありがとう」
椅子を押す手に礼を言いつつ振り返った、クラリスの紫色の目が見開く。
頭でぴくぴく動く栗毛の三角耳と、頰から飛び出した数本のヒゲ。おまけにお尻には──耳と同じ色をした、大きくて立派なしっぽ。
それらすべてが、きちんとした正装で立つ垂れ目の少年にくっついていた。
彼は確かゲームのスチルで、ジェイクの隣にいた執事だ。それは知っている。だがしかし、この人間離れした付属品には全く見覚えがない。
(こ、これってコスプレ? まさか本物じゃないわよね)
「嫌だなあ、そんなに見つめて。もしや、我の顔に何かついてます?」
ヒゲ付きの頰を赤らめた少年のしっぽがパタパタと動く。
白昼夢かと頰をつねるも、痛みで現実感が増すだけだった。
「こらこら。頭とお尻から色々飛び出しちゃってるぞ、フェン。クラリスが驚いてるじゃないか」
「あっ、ホントだ。ごめんなさい」
ペロリと舌を出しながらササッと頭や尻をさすると、煙が弾け、三角耳としっぽが消えた。
「ジェ、ジェイク様。この子は一体何者なんですの?」
鼻歌交じりにシャンパンを注ぐフェンの手に、もこもこと毛が生え始めている。
「ああ、僕の執事兼お世話係のフェンだよ。見た通り彼は魔狼だ」
「魔狼?」
「そしてさっきの侍女はどちらもビスクドール。この三人──いや、一匹と二体がこのシュバルツア城の使用人たちなんだ」
ジェイクが薄く微笑み、シャンパンのグラスを傾ける。
驚き、出口に向かったフェンを振り返ると、ボトルを口に咥えた黒い狼がちょうどドアから出て行くところだった。
魔狼は人の擬態が上手と聞いたが……どうやら、彼はあまり得意ではないらしい。
(ダメだわ、本当に覚えてない。ゲームの事をまとめておいたメモ、後でトランクから出して見なくちゃ)
人間は忘れる動物だ。十年経てば記憶が多少、失われるのは仕方ない。喜びや悲しみの感情だって、徐々に薄らぎ、消えていく。
心が刻む『時』を止める魔法でもない限りは。
「……人間はひとりもいないんですの?」
「人間? ──まさか。そんなものを雇って、毒でも盛られたら敵わないからね」
空にしたグラスを手にクラリスを見つめる金銀の双眸は、凍てついた氷のように冷ややかで、哀しいほどに美しかった。