12
誰もいない客間の窓は、開け放たれていた。
「自分でバルコニーに出て行ったのか……や、やっぱりクラリスは、僕と結婚するのが嫌で」
「もう、いつまでもグズグズ言ってないで、さっさと魔法で探知してください!」
花柄エプロンで腕組みする部下に怒鳴られ、ハッとしてクラリスの気配を探す。だが離れすぎてしまったせいか、何度試みても全く探知出来なかった。
かくなる上は──あまり出したくはないが、奥の手を使うしかない。
「フェン! 今夜に限り、魔狼に戻る事を許可する。すぐにクラリスを探しに行ってくれ」
「はっ、はい。でも、森の外に出て大丈夫なんですか? ……通報されるかも」
「責任は僕が取る。──未来の王妃の危機なんだ。誰にも文句は言わせない」
「畏まりました!」
跪いたフェンの周りに黒煙が渦巻く。
濃い靄の中から一歩足を踏み出したのは、馬よりも大きな黒い狼。
怪しく光る赤い眼、鋭く尖った爪も牙も魔力が漲り、永き眠りから解き放たれた喜びに、打ち震えているようだった。
「うわあ、デカい犬」
《しっ、失敬な。我は魔狼です! 狼の中の狼、神話級の怪物なんですからね!》
「お前の自慢話なんかどうでもいい。クラリスのカバンがあるから、匂いを嗅いでさっさと追え!」
「匂いで追うんだ……やっぱりイ」
《犬じゃない! 狼ですもん!》
ムキになってフェルドにぎゃんぎゃん喚く様子はどう見ても、馬鹿デカいただの犬だ。
(だが、フェンとなら思念伝達で連絡も取り合える。地上でサーヴェの進軍に備えながら、クラリスの発見を待つことにしよう)
一抹の不安はよぎるが、今はこいつに賭けるしかない。
《まったく失礼なんだから。……あれ? ジェイク様。このカバン、あんまり匂いがしないんですけど》
「そういえば、まだ真新しいな。他のものを探してみるか」
といっても、昨日の今日でそんなに色々あるわけがない。
ドレッサーの引き出しに手をかけた時、浴室の辺りでウロチョロする魔狼の姿が視界に入った。
《あっ! ドレス。これ、さっき着てましたよね。綺麗だったなー。クラリス様》
「ちょっと待て」
フェンが鼻で器用に開けたクロゼットを、ジェイクがパタンと閉じる。
「ドレスはダメ。無論、靴もダメだ」
《えー? で、でもそれじゃあ匂いが……あっ! それならネグリジェ──》
「もっとダメだ! だ、だって破廉恥だろう。ひとの妻が身に付けてたものを、かっ、嗅ぐだなんて」
《ええー? じゃあ、何を嗅いで探せばいいんですか?》
「使用済みの下着とかでいんじゃない?」
「いいわけないだろ! ──このカバンで何とか手を打て。持って行って、嗅ぎながら追いかけてこい!」
ジェイクは魔狼の鋭い牙に手提げカバンの取っ手をぶら下げると、さっさと窓から追い出した。
夫として、クラリスの純潔をどうにか守りきり、ホッとした──と思った矢先、花柄の悪魔が寝台の上にバタンと倒れ込む。
「こっ、こらフェルド! 何を」
「人妻の匂いってのを堪能してみたくて」
「お前には部隊の召集を頼んであるだろ! し、シーツに顔を擦り付けるな!」
力ずくで寝台から引っぺがし、床に転がった部下を睨む。
しかしフェルドは、にやにやしながらエプロンを外すと、こっちにポンと投げつけてきた。
「ジェイク様って、けっこう嫉妬深いんですね」
「……べ、別に。僕はただ、夫として当然の事をしているまでで」
「へえ。じゃあ婚約前だったら、ミカエル様とクラリス様がキスしてるのを見ても、なんとも思わなかったと?」
なんでミカエルが、と言いかけて気付く。
(さっき、あのふたりは一瞬見つめ合っていた)
今は破棄したとはいえ、婚約してからもう十年。その間、ミカエルが『クラリスは冷たい』と愚痴ってる事がたまにはあったが、ケンカもしないし、仲の良いふたりに見えた。
好き合っている者同士、キスくらいしてもおかしくはない。……いや、むしろしていて当然だろう。
自分のよく知らない、その先の事だって──
「……ふふふ」
「な、何を笑ってるんだ? こっちは真剣に」
「だって今、すごく怖い顔してますよ? ジェイク様」
「! そっ……」
そんなはずは、と反論する前に部下はマントを翻し、窓辺に立っていた。
少年のような顔で振り返り、両側に泣きボクロのある頰でニカっと笑う。
「ご婚約おめでとうございます、総督」
「祝いを言うのが遅すぎだ。──罰として、僕がいない間の代理をしっかり務めてこい、副官」
「御意」
おどけて敬礼してみせた、フェルドがバルコニーから飛び立つ。
まったく、口の減らない男だ。それでも秘密は守るのだから、矛盾した性格をしている。
(それに嘘つきだ。この僕が、やきもちを焼いてるだなんて)
自分はただ、クラリスの涙を見たり、声を聞いたりするのが好きなだけ。
結婚するのも、裸を見た責任を取るためだ。ちょうど都合も良かった。神聖域結界を維持するため、光の系譜を結ぶ相手を、そろそろ探さなければならなかったし。
大丈夫だ。──あの、父と母でも出来たのだから。
夫としての役割をきちんとこなし、クラリスを大切にさえしていれば、きっと愛なんかすぐ育つ。
(さて、準備運動しに行くか)
部隊への合流前に神聖域結界の確認と──他に潜んでいる竜がいないか、見て回らなければ。
ジェイクは漆黒のマントを羽織ると、魔力を込めた足で床を蹴り、宵闇の迫る空へ向かって飛び立った。
「きゃーーーーーっ!!!」
《うっるさいわねえ。ガタガタ騒ぐんじゃないわよ。これくらいで》
「だっ、だって。竜の足に掴まれて、く、雲の上を運ばれちゃってるんですのよ⁉︎ ──死亡エンド確定じゃありませんか!」
ルッカの《あ、竜》のひと言で飛び起き、ついバルコニーに出てしまったのが運の尽きだった。
あっという間に攫われ──もうどれくらい経つだろう。
日も暮れて、月のない夜空は暗いし風も冷たい。眼下には雲しか見えず、どこの国の上を飛んでるのかすら分からない。
頭痛は酷いし……真っ赤な竜は相変わらず無言だし。まあ別に、仲良くしたいわけでもないが。
《何の事だか知らないけど、アンタはまだ死にはしないから安心しなさーい。そして黙れ》
「そっ、そんな冷たい言い方……! 大体、わたくしが死なないなんて、どうして断言できるんですの? い、いくら聖霊でも、未来が見えるわけじゃないでしょう?」
涙目でややキレ気味に言い、肩に留まったひよこモドキをキッと睨む。
このままではどうせ竜のエサにされるか、落ちて死ぬかのどちらかだ。今さら、怖いものなど何もない。
クラリスは、やさぐれた顔でジロリと睨み返す、ルッカの視線をまばたきもせず受け止めた。
小さなくちばしから、ハア、とため息が漏れる。
《……見えるわよ》
「え?」
《これが最初で最後だから、耳の穴かっぽじってよーくお聞きなさい。アタシにはアンタとジェイクの未来が見えてる。けれどそれをアンタたちに伝えることはできない。それが、神に仕える者としての理だからね》
「理……」
《そう。アタシにできるのは、アンタたちを導くことだけ。……いい? この一か月、アンタもジェイクも死にものぐるいで、自分たちの運命と戦いなさい》
「! ルッカ様、それって」
《しっ。──前方から何か来るわ》
耳を切るような冷たい風が止み、ふと顔を上げてみると──雲間から黒い影が飛び出して来るのが見えた。
薄暗いため、その正体はよく分からない。
だが自分の身体を鷲掴みにしている赤竜が、ヴヴヴ、と低い唸り声を上げ始めた。
敵対する魔物か何かだろうか? ──もう、嫌な予感しかしない。思わずスッと目を逸らす。
「ル、ルッカ様。あれ、魔物ですか?」
《そうかもねー。でも、一体何の魔物かしらねー? 当てられたら教えてア・ゲ・ル》
「あ、当てられたらって! 教えてくれる気ゼロじゃないですか!」
《ああもう、ピーピーうるさいわねぇ。ほら、そろそろ姿が見えてくるから、自分で確かめてごらんなさい》
「は、はあ……」
できれば見たくない。目をつぶったままで再び顔を上げると──竜の足にパッと体を離された。




