悪役令嬢の後ろ向きな十年計画
突然響いた、グラスの割れる音と悲鳴。
第二王子ミカエルの七歳の誕生日を祝い、華やかに彩られていた王城のパーティー会場は騒然となった。
驚き、父のタキシードを掴む。キョロキョロと辺りを見回してみると、一番大きなテーブルの近くに、輪を描くようにできた人垣が見えた。
胸で手を組み、神に祈る紳士。小さく横に首を振る貴婦人。そこにいる皆が一様に下を向いていた。
──誰かが倒れている。視界は人々に遮られているのに、何故だか自分には直感で分かった。ほぼ無意識に父のタキシードを手離し、リボンの付いたドレスの裾をきゅっと掴む。
「お父様。わたくし、助けに行ってまいります!」
「クラリス?」
娘の宣言に驚き、父が慌てて伸ばしてきた手を、クラリスは生まれて初めて振り払った。母が「はしたない」と嗜めるのも聞かず、ドレスの裾を上げて駆け出す。──が、目線が少し低い気がした。
男性の肘をよけつつ、人波に飛び込んで行く。貴婦人の群れの間を縫うようにして進み、ドレスをかき分けようとして、伸ばした手の小ささにポカンとする。
どう見ても、七、八歳くらいの少女の手だ。
それに着ている服も違う。さっきまで自分は、ピンクのドレスなどではなく、白衣を身に付けていたはず。
ぐらりとめまいがして、クラリスは床に手を付いた。冷たくて硬い、自分が最期に力尽きた地面の感触を思い出す。──そうだ、わたしは。
あの日、事故で死んだのだ。
鍵の壊れた箱をこじ開け、ようやく中身を取り出せたような気分だった。
バラバラの画像が、頭の中で形を成し始める。
(じゃ、じゃあ、今ここにいるわたしは誰?)
睫毛をぱちぱちと上下させつつ、鏡のように磨きぬかれた床を覗きこむ。長い黒髪を耳によける、吊り目がちな紫色の瞳の美少女。その顔に、クラリスは見覚えがあった。
癒しの聖女として開眼したばかりの公爵家令嬢クラリス・ブランフォード。間違いなく自分自身の顔であり、死ぬ前の自分がハマっていた乙女ゲーム〈愛と聖剣のアースガルズ〉でニセ聖女とされた、悪役令嬢の顔でもある。
あまりのショックに気絶しそうだった。しかしクラリスは、頰をばちんと叩いて立ち上がると、再びドレスの隙間に飛び込んでいった。もしもここがあのゲームの世界なら、惚けている場合じゃない。
「……母上、母上! 目を開けて、母上!」
「そこをどいてくださいませ!」
クラリスは泣きわめく黒髪の王太子を押しのけ、大理石の床に横たわる王妃殿下の手を取った。
倒れた原因は毒。幸いまだ脈はあるが、ゲームでの彼女は確かこの日に亡くなっている。
本来なら悪役令嬢の出る幕ではない。けれども死ぬと知ってて見過ごす事など、出来るはずがなかった。
(天にまします主よ。願わくば我が身を対価に、この者に救いを与えたまえ)
皆が固唾を飲んで見守る中、祈りを捧げたクラリスが身代わりとなり、解毒された王妃殿下は息を吹き返す。
そして──クラリスは、パタンと倒れた。
父の腕の中で目覚めると、回復した王妃殿下はもちろん、国王陛下にも大層感謝された。そばで半べそをかいていた王太子のジェイクには「ご恩は一生忘れません」と言って、何度も何度も頭を下げられた。父も母も、そこにいた皆が自分を褒め称えてくれた。
その日の帰り際、花束を抱えたミカエルから呼び止められ、求婚される時までが、クラリスの人生の絶頂期だったのかもしれない。
跪いた王子様に手を取られたとたん、クラリスは激しい拒絶反応を起こして倒れ──階段をごろごろごろと転がり落ちていった。
前世の記憶が蘇った七歳の自分には、不運にも、重度の男嫌いまでがしっかり継承されていた。絶対安静を言い渡された寝台の上でため息をつく。王子様ルートを攻略し、婚約破棄を阻止するのは難しい。というか結婚自体が嫌だ。「ならせめて、死亡エンドだけでも回避しよう」要はフラグが立つ原因、ヒロインとの接触を避ければ良いのだ。クラリスは、悪役令嬢らしからぬ後ろ向きな決意を固めた。
そうと決まれば早速紙とペンを取り出し、思い出したゲームの設定を紙にメモしていく。悪役令嬢の運命が決定するのは、十七歳の時に王城で行われる夜会だ。
つまり、今からちょうど十年後──
「クラリス・ブランフォード。君との婚約を今ここで破棄する!」
貴族たちがダンスを楽しむ王城の煌びやかな大広間。中央の豪奢なシャンデリアの下で、第二王子のミカエルが声を荒らげて叫ぶ。
何事かと振り返るタキシード姿の紳士や、着飾った淑女らの間から、純白のドレスを纏った男爵家令嬢ルミナ・セントローズがおずおずと現れる。
「遅れてごめんなさい、ミカエル様」
「僕はこのルミナと婚約する。君みたいな不敬な女は、即刻我がディアルクト王国から出て行け! ──こっ、この、ニセ聖女め!」
「……」
無言で眉をしかめつつ、長い黒髪に浴びせられたシャンパンをハンカチで拭う。クラリスは大きな紫色の瞳を、寄り添うミカエルとルミナに向けた。
金髪碧眼の見目麗しい王子様と、桃色のゆるふわ髪の美少女。
ゲームで見た、婚約破棄イベントのスチルそのままだ。
(ついにこの時が来たんですのね……!)
歓喜のあまり綻びかける赤い唇を、何とか引き結ぶ。
「承知しました。それでは、わたくしはこれにて失礼致します」
「何だと? ──まっ、待てクラリス! 僕に何か言う事はないのか?」
「い、いえ。何もございません。おふたりとも、どうぞ末永くお幸せに……」
呆気に取られるミカエルと客たちに一礼し、クラリスはそそくさと大広間を退場していった。
(ああびっくりした。まさかあそこで、ミカエル様がわたくしを引き止めるだなんて)
全くの想定外だ。
この十年、ダンス以外で手すら繋がず、キスを迫られれば脱兎のごとく逃亡し、ただひたすらじっとりと、毛虫を見るような目でミカエルを疎み続けてきたのに。
ここで立ち止まってたまるか。クラリスは足早に回廊を抜け、王城の外へ出た。──何とか無事に死亡エンドを回避、悪役令嬢の最善エンド、国外追放の確定である。
長い戦いだった。晴れ晴れとした気分で伸びをし、深呼吸する。
ただ、腹立ち紛れに『ニセ聖女』呼ばわりされたのだけは心外だった。人命救助のプロとして覚醒していたクラリスは、王子の婚約者だからと聖女の仕事をさぼったりせず、医者の少ない他国にまで進んで赴き、積極的に癒しまくっていた。公爵家令嬢なのに皆と一緒に戦地で額に汗して働き、毎日毎日忙し過ぎて、ヒロインを虐めるどころか構ってやる暇すらない。悪役令嬢らしいことはこれっぽっちもしてきておらず、周囲からはニセ聖女どころか、理想的な婚約者扱いされてきたのだから。
だがそれも、男女の仲となれば話は別。
ヒロインであるルミナは、ミカエルと知り合って僅か三か月で彼を心から愛し、剣の聖女──聖剣の乙女として覚醒した。そして、ゲームのエンディングではふたりの愛がラスボスを斃し、世界を救う。
愛を育めない悪役令嬢である自分は、ただ静かに幕を下ろし、ひとりで立ち去るのみなのだ。
「お父様、ただいま帰りました」
「夜会は楽しかったかい? クラリス……おや、ドレスが濡れてるじゃないか」
クラリスは屋敷に帰ると、父親であるブランフォード公爵に婚約破棄された事実を恐る恐る伝えた。普段は至って温和な父だが、ゲーム通りならクラリスはこの後、不甲斐ない娘だなんだと激怒され、厳しく説教をされる……はず、だったのだが。
悪役令嬢なのにわがまま一つ言わず、中身が根っからの庶民なため散財も出来ず。家族の怪我や病気を聖なる力で癒したり、看病したり、聖女の仕事で稼いだ日銭で父母にささやかな贈り物をしたりしていたのがいけなかった。
一人娘を溺愛していた父は、説教するどころか涙ながらにクラリスを抱きしめ、「あまりに理不尽だ」とミカエルに憤慨し、国王陛下に抗議するとまで言い出したのだ。
クラリスの背中にだらだらと汗が流れる。
自業自得だがこれはマズい。非常にマズい。
王族の命令に逆らうような真似をすれば、爵位を取り上げられ、最悪、家族全員が路頭に迷うことになるかもしれない。
思いもよらぬ展開に、部屋でひとり頭を抱えているとき──クラリスはハッとした。
脳裏をよぎったのは、自分の背後に忍び寄る黒い影。
(だっ、ダメだわ! 王城にお父様が行ったりしたら、きっとジェイク様がしゃしゃり出てくる)
こうなれば予定変更だ。クロゼットを開け放ち、奥からトランクを引っ張り出す。
クラリスの身柄は一週間後、西側諸国のとある教会へ引き取られるはずだった。しかし父は明朝早くに王城へ向かうと言っていたし、もはや一刻の猶予もない。
家族への感謝の気持ちを手紙につづり、『自分の足で教会へ行きます』と最後に一筆添えて机の上に残し、クラリスは窓から屋敷を抜け出した。
この家出は全くの予定外。それゆえ、荷物は着替えの入った古いトランク一つ。手元にあるお金も、聖女の仕事でコツコツ貯めた銀貨十数枚しかない。
それでも、引き受け先の教会にたどり着きさえすれば、何とかなる。
クラリスは必死にトランクを引き摺って歩いた。
前回もジェイクは『これが最後』だと言ったはず。けれどもその前、敵兵から護ってもらった時にも同じ事を言っていた。約束しては覆される。この十年、ずっとその繰り返しだった。
(本当に、一生恩返しを続けるつもりなのかしら)
王太子殿下だからといって、有言実行にもほどがある。
汗が伝う頰に、苦笑いが浮かんだ。
向かった先はいつも馬車で通っている石畳の道。
国境を目指して夜道をひたすら歩き、ふと立ち止まる。
本でも見た事がない、光るキノコやとても甘い香りの花。珍しい植物ばかり生えている不思議な森に、ついふらふらと足を踏み入れ──すっかり迷ってしまった。
月明かりはなく、森の小道にはもちろん街灯一つなく。行けども行けども、真っ暗闇が続くのみ。
十七年の人生を振り返ってみてもこれ以上無いくらい、クラリスは途方に暮れていた。そこかしこから聞こえてくる、獣っぽい唸り声は恐ろしいし、お腹もぺこぺこで、もう一歩も動けない。
「神様、どうぞお助けください」
ついうっかり、天に向かって祈ってしまった。
涙ぐむクラリスの頭上に、きらめく閃光が轟音とともに降って来る。「しまった」と口を押さえるも、時すでに遅し。
次の瞬間──ドン、という鋭い衝撃音と、地面が波打つような振動に襲われる。
クラリスは、思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「きゃああああっ!!!」
「大丈夫かい? クラリス」
耳慣れた美声に、ギクリとする。
そろそろと顔を上げると、風塵の中に魔法の残滓らしき光が見えた。すらりと背が高く、マントを纏った全身黒ずくめの姿が、暗闇の道に浮かび上がる。
「ジェ、ジェイク……様。どうして」
「城で食前酒のグラスを傾けている時、ふと君の声を耳にしたんだ。それでつい」
「飲酒後の飛行魔法は厳禁ですわよ」
「シャンパンは酒じゃないだろ?」
とぼけた顔で肩を竦めるジェイクを、クラリスはじろりと睨んだ。
風になびく艶やかな黒髪。左が銀、右が金色のオッドアイ。端正に整った目鼻立ちに、薄く笑みを湛えた形のいい唇。
端的に言えば相当な美形である。それこそ、人間離れしているほどの。
(よっ、夜の不気味な森が似合いすぎる……! やっぱり実物のほうが、スチルよりずっと邪神らしいわ)
とはいえ正確には、彼はまだラスボスじゃない。
約一ヶ月後のゲームのエンディングで邪神化し、通りすがりの悪役令嬢を炎で焼いたり、世界を滅亡させようとしたりするのだ。
クラリスにとっては、最恐にして最悪の死亡エンド。
だからこそルミナ同様、ずっと避け続けてきたし、できれば関わり合いたくない。
「……ご心配をおかけして、大変申し訳ございませんでした。わたくしはもう平気ですので、お城で食事の続きをなさってください」
「でも君、国外追放を宣告されたんだよね。今晩泊まるアテはあるの?」
グサッと胸に命中したのは、もちろん天使の矢などではない。
「べ、別に。寝ないで歩けば済むことですし」
「さっきからお腹がぐうぐう鳴ってるし」
「! まっ、またそんな恥ずかしいものを魔法で盗み聞きして──」
「助けてください、とも言ってた」
それは単なる神違いです、と思わず言いかけたクラリスの前に、ジェイクが手を差し出す。
「ここに残って飢えた獣のごはんになるか、僕と一緒にあたたかい部屋でごはんを食べるか。……どっちがいい?」
究極すぎる選択だった。