戦場の跡
「……腹が減った」
夜遅くにローライトは目覚めた。ソファから頭を上げて、髪をかきむしり、半目を開けて眠そうにする。私は書類の分類をようやく終えて、イスの上でのびをしていた。
「あなた、寝過ぎよ。私たち、昼食も夜食も先に食べちゃった。ライルズさんがついでにお菓子の山を置いていってくれてるの。おなかがすいているのだったら、食べなさい」
「……いらん」
ローライトはむくりと起き上がり、窓ガラスから入ってくる月光に上半身を照らし出された。
彼は月明かりの中で恍惚とした表情を浮かべていた。私がそちらにちゃんと目を向けると、彼の目が赤色に発光していることに気づいた。黒い瞳だったはずの彼が赤目に様変わりした光景は、どこか恐ろしい物がありつつも、見とれてしまう狂気をはらんでいて、目が離せない。
「あなた、目が……」
「少し食事に出かける」
「……どこに行くの」
「知りたいか」
彼の声音に奇妙な色気が漂っている。私は彼の様子がおかしいと思い、静かにうなずいた。
「わかった、では、ともにゆこう」
彼は例のロングコートをはおり、それから窓を開けた。飛び降りでもするのかと一瞬驚いたが、次の瞬間、彼の背中から黒い霧が発生して、それはにわかに翼の形を作った。
「早く来い」
「え、ちょっと、なによそれ、怖いわ」
「来い、早く」
あらがいがたい重低音の声音に誘われて、私は赤い瞳の彼に近寄った。彼は私の体を抱きかかえ、窓から飛んだ。
「きゃあぁっ!」
「静かにしろ、近所迷惑だ」
黒い翼は見事に羽ばたいて、私は宙を浮いていた。羽ばたきはどんどん豪快になっていき、ぎこちない動きが徐々に消えていく。
「久々に飛んだ。まだ翼の動かし方がいまいちだな、運動不足だ」
「はわわわわ、飛んでる、私飛んでるぅ」
「いつか慣れる」
彼はさらに高度を上げた。夜の街ウェイツトラバリエの夜景が上空から一望できた。街灯や家の光が無数に輝いて、まるでちりばめた宝石のようだ。
「……きれい」
「昔に比べると、明るくなったものだな」
「……ねぇ、その翼、いったい何なの、また何かの錬金術だったり、魔術だったりする?」
「いずれ分かる」
「こんな芸当ができるなら、わざわざ馬車を使ったりしなくてよかったんじゃないかしら」
「これは目立つからな、万一目撃者がいたら問題だろう。かなりの遠出をするときに、それも夜更けにしか使わないと決めている」
彼はそこから飛行のスピードを高め、私の頬にすごい早さの風が切っていった。食事のためにやけに遠いところまで行くなと疑問に思った。そういえば彼は、私が見る範囲で、飲み物しか口にしていなかった。ワインと珈琲だけだ。
――そして私たちは目的地上空へとやってきた。空から見ると、山間にあらわれた真っ暗な平原と、その向こうで赤い火の群れが遠目に輝いていた。
「降りるぞ」
私は落下の感覚が怖くて目をつぶり、彼の体にしがみついた。急降下から、突然ふわりと減速し、着地する。鼻をつく血なまぐさい臭気が立ちこめていた。
「まだ目を開くな、私がいいと言うまでな」
彼の足音がしていた。それに……、かなり遠くから、歓声のような声まで聞こえた。このとき私はお姫様だっこのような形で抱かれていて、今更ながら恥ずかしかったが、我慢していた。
「これから行うことは、ローライト・ミューズ・リッケンバウアーという一人の人間についての、ある真実を物語る。目を開いてからは、その網膜に現実を刻み込んでもらう。いいか、必ず目をそらすな、約束しろ」
「なによ、意味が分からない。変な匂いがするし……さっさとなさい」
「よし、もういいぞ、目を開け」
彼は私をそっと地面に下ろした。目を開ける。
「――っ!」
眼前に広がっているのは兵士たちの死体の山だった。暗い平原の中で、すでに息のない武装した兵士たちが倒れ込み、無残に朽ち果てている。
「こっ、ここは、戦場!?」
「そう、戦場だ。正確にはムース平原におけるヴィクトリア帝国と隣国ナムクス公国の領地争い、だ。貴様の国の領地を守るために、名も無い兵士たちがここで命を散らしている。平民が街で安寧の時を過ごしているときに、兵士は使命を持って命がけで戦っているのだ。戦争時代とはそういうものだ」
吐き気がしていたのを押さえて、私は目をそらさずに現実を見つめた。これが戦場、前線の悲惨さ……
「さて、食事だな」
「……え」
「よぉく、見ておけ、これが、私の、現実だ……」
彼は男性兵士の死体の頭部を片手でわしづかみにし、そのまま持ち上げて、とつぜん首からかみついた。ぐじゅりっ、という嫌な音がして、肉が噛みきられた。薄闇の中で、彼の目が怪しく赤い閃光を放ち、肉体が喜ぶように隆起する。
「――ぐはぁっ……冷えた肉だ。しかし、食欲が次から次にわいてきおる。何しろ腹が減っている、空腹は最高のスパイスだ。いつの時代も、戦禍の跡にはごちそうがたくさん残されているものだ……ハッハッハッハッハ!」
「いやぁ! やめてっ!! なんてことをしているのっ!」
彼は私の制止を振り切って、どんどんと死体をむさぼっていった。彼の巨大で鋭利な歯は、簡単に肉を引き裂き、大柄な体はその肉を飽きることなく無尽蔵に食し、飲み込んでいく。
彼の言っていた「食事」とは、このことだったのだ。私はそのことに気づくと戦慄した。足が震えて、立っているのがやっとだった。止めることはできなかった。
彼は一通り食べ尽くすと、口から血を滴らせて、ギロリとこちらを見た。
「見ての通り、私の主食は屍の血肉だ……、私の体はそうなっている、死んだ肉体を食すことを欲し、それでしか満たせないように仕組まれている……「あの罪」を犯したときから、これまでずっと……」
こちらに近づいてくる。私は思わず後ずさりした。
「こ、こないで」
彼はさっと間合いを詰めて、私の足下にひざまずいた。忠誠のポーズだ。
「我が主よ、そなたの従者を許し給え。罪をあがない、契約を果たすその日まで、我と我の行いを、その寛容な御心で、受け入れ給え……」
何を言っているのか分からなかった。けれど、彼は理性を失ったわけではなさそうだった。急に沈鬱な顔つきでひざまずき、許しを請うている。これを見せることは何かの通過儀礼なのだろうか。……分からない。
「こ、これは、あなたの、人ならざる能力の、対価なのですか、あなたのいう罪によってもたらされた、神の刑罰ですか……」
「そうです、これは世の理を外れた者への、永久不滅の呪いです。どうか、ご慈悲を」
彼は真剣そのものだった。ふざけているわけではない。特異な食欲体質をした自らの真実を打ち明けることは、きっと重要なプロセスなのだ。私はそう直感した。
「わ、分かりました、許しましょう、けれど、もう二度と、私の前で屍を食すのはやめなさい、私を怖がらせないで」
彼はその言葉を聞いた途端、いっきに普段の不敵な表情を取り戻して、にたりと笑った。
「了解した……」
月は私たちの頭上で、神の目のごとく戦場を見下ろしていた。