1200年前の執事
しばらく夜道を歩いて、それから深夜の街に出た。貴族だけでなく、一般の市民たちの家が建ち並ぶ街はオレンジ色の暖かい光を放つ街灯に照らされて闇の中にぼんやり現れていた。
「街に出て、これからどうするの」
「馬車に乗り合わせる」
「こんな時間に馬車なんて出ているのかしら」
「訳ありの怪しい客でも乗せないと生計を立てられない貧乏人がいるさ」
ローライトは鼻をクンクンさせて、
「ならず者の匂いがする」
などと言った。
「あなた、犬みたいね」
と私が言うと、彼はふん、と言ってすねた顔をちらつかせ、そのまま夜道を歩いて行った。もう道先案内はいらないらしい。
彼の嗅覚は恐ろしいほど正確だった。私のような貴族出身の人間がふだんは立ち寄らない貧困層の住む場所にみるみる近づいていった。もしかしたら彼はこういう地域で暮らした経験があるのかもしれない。私たちはそこで馬車を見つけた。
「ほうら、あったではないか」
「ほんとね」
周囲には飲み屋の屋台が一つあり、そのそばで馬車が停車していた。御者は近くに置いてあったボロボロのベンチに腰掛け、安物の煙草を吸いながら客を待っていた。
ローライトは大きな図体を折り曲げて、座っている御者に顔を近づけ、話しかけた。
「おい、お前が馬主か」
「……そうだ。あんた客かい? ずいぶんでかいねぇ。背はどのくらいある」
「教えてやったら乗車賃を半額にしてくれるかね」
「ダメに決まってんだろ」
「なら、おしゃべりはなしだ、仕事をしてくれ」
「どこまでだい」
ローライトが振り向いて、私に目を向けた。
「――げへぇ、きれいなねぇちゃん、こんな夜遅くにどおしたんだぁい。家出かなぁ」
「ちょっと、やめてください!」
そのころ私は飲み屋から出てきた酔っ払いに絡まれて、腕をつかまれていた。すごく酒臭くて、私はもう片方の手で鼻をつまんだ。
ローライトはいつの間にか私たちの前まで来ていて、酔っ払いの男を上からにらみつけていた。怒りと言うより、不愉快な形相で、かなりの迫力があった。まるで夜の山のようにそびえ立つ彼は、静かに苛立っていた。
「このゴミが、私の主に触るな」
「なんだてめぇ、こいつの男か? 偉そうに上から見下しやがってぇ。――ぐぉっ!?」
彼はその巨大な手からデコピンを繰り出して、酔っ払い男をはじき飛ばした。屋台に方まで体が丸ごと飛んでいって、中にいた客にぶつかった。すぐに騒ぎになる。飛ばされた男は意識がなく、白目をむいて気絶していた。
「ここは騒々しいな」
「あ、あなたが騒々しくしたんでしょうが」
「……まぁ、そんなことはどうでもいい。とりあえず、貴様の街の定宿を教えろ」
「定宿はアッシャーズ・ホテルだけど、……料金がとても高いわよ」
「貴族の女を連れていれば、ツケでどうにかなる」
「あのホテルは格式高いのよ、そんなこと許されるかしら」
「大丈夫だ、私に任せろ」
アッシャーズ・ホテルまでと指定して、馬車に乗り込む、御者が馬の尻をひっぱたいて、夜の街を走らせる。ローライトは御者に、なるべく目立たないルートで行けと注文を付けていた。その結果、すこし遠回りをすることになり、馬車の中でゆっくり会話する時間を得た。
「――聞きたいことが山ほどあるわ」
「ふぅん……、何でも聞いてかまわんぞ。しかしお互い一度ずつだ。自分だけ矢継ぎ早に質問する女は嫌いだ」
「まず、あなたの正体が知りたいわ」
「初対面で自己紹介しただろう、貴様の家の執事だ」
「そういうことじゃなくて……あぁ、もういいわ、だったら、あの牢屋にどうやって入ったのか教えなさいよ」
「質問変更か、よろしい。ちなみに私の記憶は古いから、齟齬が生じるかもしれんが、そこは容赦せい」
「し、執事のくせに偉そうね」
「偉そうなのは私の永遠のスタンスだ。何者にも対等に接する。お前の家とはそういう契約になっている。では質問に答えよう。私はあそこが牢屋に改築されているとは思いもよらなかった」
「え?」
「私の記憶の中では、あの屋敷のあの場所はもとより、物置部屋だったはずだ。家の重要な『所有物』を管理しておくための、物置部屋だ」
「そうだったかしら……。父はあの場所への出入りを禁止していたから、分からないわ」
「禁止? ハッハ! そうか、なるほどな」
「なるほどって?」
「つまり言い伝えだけがお前の父の代まで続いていたのだ。推測するに、どこかの代であの物置部屋は牢屋に変わり、権力闘争に敗れた者をぶち込む場所になった。そこで言い伝えが変容してしまった。本来は危険な『所有物』が保管されているからなるべく近寄るな、というだけの話だったのが、いつしか家の汚いやり方を隠すための方便になってしまったのだ。おそらく貴様の父はあの地下の真相を知らず、たんに後者の意味で出入りを禁止していたに違いない! 傑作じゃないか、ハハハっ」
「危険な所有物って、なによ」
ローライトは親指を立てて、自分を指さした。
「長い年月の末に、どこかで私の存在が忘却されたのだろう……。物置にあった『所有物』をあらかた処分した後、私だけが置き去りにされていたのだ。おかげで私はひどく退屈だった。もう家にとって私は用済みなのかと、失望していた」
私は理解が追いついていなかった。
「牢屋にずっと住んでいた、ということかしら」
「バカを言え、あんな陰気なところには住めん」
「だったら、どこにいたのよ」
「貴様が封印を解いたのだ」
「封印……」
私はあの紋様を思い出した。ナターシャ家の家紋を微妙に変形したような不思議なシンボルと、その中に書き込まれた小さな古代ヴィクトリア語。
「まさかっ、あの紋様の中にいたの!?」
「ご名答。正確には輪廻の輪から外れた虚空の中にとらわれていた。念入りに鎖付きでな」
封印というのはある種の魔女や霊媒師、錬金術師などが研究している分野の用語だった。私は過去に何度か、世界に災厄をもたらした怪物が一流の使い手によって封印され、鎮められたとする文献を読んだことがある。
「久方ぶりに呼び出されて、今もまだうまく体が動かない感じがある」
「……いったい、どれくらいの間、封印されていたの」
「ざっと1200年ほどらしい」
私は開いた口がふさがらなかった。1200年……。そんな長い間、ずっと一人でいたなんて、考えるだけで恐ろしい。ローライトは私の想像を遙かに超える苦労をしてきた……。そう思うと私は自然と涙があふれてきた。
「1200年も……なんてこと、まるで悲劇だわ……」
「おやおや、また泣くのか。我が主は泣き虫だな」
彼は私の頬を伝う涙を指で優しくぬぐった。それから手で私の頭をあやすようにポンポンと軽くたたいた。彼は小声で、「茶髪か、セリーヌと同じだな」と言った。私は泣くのに忙しくて、返事ができなかった。
私が落ち着いてから、彼は口を開いた。
「いろいろ答えたからな、次は私の番だ、我が主よ。貴様の現在の名と、爵位を教えてくれ」
「……えっと、レイラ・ナサニエル・ナターシャ、子爵よ」
「レイラか、いい名前だ」
「それは、どうも」
「牢屋に入れられていたのは、あれか、誰かにはめられたのか」
「叔父よ。いまのナターシャ家の当主。私から家督を奪った男。ちょっとしたことで私を虐げてきて、気づけば牢に入れられていたわ」
「ちょっとしたこととは」
「それは……」
私が話しづらそうに口を閉ざしていると、馬がヒヒンと鳴いて、馬車がホテル前に停車した。御者が扉を開ける。
「どうも、つきやしたぜ」
「ありがとう」
ローライトは警備兵からせしめた財布より、一枚紙幣を取り出して、しげしげと紙幣を見つめてから、御者に手渡した。
「い、一万ギルも!? いいんですか、旦那」
「くれてやる、とっとと行け、そして私のことを忘れろ」
御者はこれ幸いとポケットに金を突っ込んで、そそくさと馬車で退散した。
「知らぬ人間が一万ギルの肖像画になっていたぞ」
「……そうね、1200年前の人間はカスパロフなんて知らないわよね。先の世界大戦で活躍した軍人よ」
「世界大戦か。人間というのは、1200年前とやっていることは変わらんのだな」
そうして私たちはホテルに入っていった。