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プロローグ

「一族の顔に泥を塗りおったな! お前のような出来損ないの女はいらんっ! どこえなりとも消えてしまえ!」


 頬をぶたれて倒れ込んだ私に、叔父はそう言った。私は涙をこらえながら反論した。


「叔父様は何も分かっていらっしゃらない……、あの男は不倫をしていたのよ、私と婚約関係にありながら!」


 叔父は遠ざかっていく。赤い絨毯の敷かれた通路を一歩一歩進む。がに股の足取りは重たく、威厳を振りまいている。


 周囲にいたメイドたちから哀れみの目を注がれている。私は歯がみした。こんな扱いを受けるなんて、おかしい。自分は何も悪くないのに……


 そばにいた黒服が私の白い腕をつかんで、強引に立ち上がらせた。つかまれた箇所が痛かった。


「何をするの」

「ゴルド様のご命令だ」


 そのまま引っ張られて一階に降りていき、黒服は預かっていた黒い鍵で開かずの間の扉を解錠した。中は薄暗く、黒服はそばのたいまつに火をともし、そこから地下へ降りる。


(……この屋敷にこんな場所があったなんて)


 私は地下へと続く古い石造りの階段を降りていきながら、つばを飲み込んだ。生前の父から口酸っぱく言われていた言葉を思い出した。


《いいかい、レイラ。黒扉の方へは近づいてはいけないよ。これはお父さんとの約束だ》


 この屋敷の扉はたいてい白いが、一階の奥にひとつだけ開かない黒い扉があることを知っていた。私は大好きだった父に嫌われないように、約束を守ってきた。


 階段を降りると、そこには今は使われていない地下牢が左右に並んでいた。ここに私を幽閉するつもりなのだろう。


 地下牢には、過去に罪を犯したことにされた人間――おそらく消息不明になっていた当家の古い親族たち――の白骨化した死体が見えた。家の当主の座をかけた激しい権力闘争に巻き込まれた者たちの亡骸だった。


「ここに入れ」

 

 左奥の、まだ使われた形跡のない地下牢に入れられ、施錠された。鉄格子はさび付いているが、とても頑丈で、女の非力な力では壊せそうにもなかった。


「叔父様に言っておいてちょうだい。私は本当に無実だって、カシアスの身辺調査をすれば分かるって、ねぇ、お願い」

 

 黒服は何も言わずに去って行った。革靴の乾いた足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。冬の地下牢はとても寒かった。


 ――私は地下牢の隅の壁に背を預けて座り、体を震わせながら記憶をたどっていた。それは先日の貴族たちが集まるパーティでのことだった。


 婚約者のいるパーティには当然ながらおめかしして行った。ドレスは彼の好きな赤色を基調としたものを着て、髪型も社交場で流行っていたものに合わせた。久々に会うからと心躍らせながら、私は彼の横顔を見つけて歩み寄った。


 しかし近づいてみると、彼は一人の美しい女と一緒にいた。彼は女の腰に手をやって、体を寄せ合いながら親密に話し合っていたのだった。彼は女の隙を突いて、何度か頬にキスをしていた。私は手に持っていたワイングラスを落とした。


「――カシアス……、その女は誰なの」

「む、……なんだ、レイラか。久々だな」

「ねぇ」

「どうした」

「質問に答えて」

「おぉ、恐ろしい形相だ、鋭い目つきは相変わらずだな」

「その女は誰なのって聞いてるのよ!」


 怖いわ、カシアス……。などと女が彼の胸にほおを寄せた。私は頭に血が上るのを感じた。しかしカシアスは女の怖がる様子を見て、途端に表情をこわばらせた。


「子爵風情が、口を慎めっ! 彼女はベスピア王国第七王女フィオネ殿下、その人なのだぞ、なんだその態度は、無礼にもほどがある!」


 他国の王女だとは分からなかった。しかし身につけているものは全て一級品で、育ちの良さがにじみ出ていた。カールした長い金髪と白のドレスがシャンデリアの光に照らされて美しく輝き、温室育ちのおびえた表情がこちらを見ている。


 質の良い蜂蜜の原産地を有するベスピア王国においては、国王夫妻の娘たちは蜂蜜姫などと呼ばれ、容姿の良さが有名だったが、世間知らずな私は全く知らなかった。


カシアスはこのヴィクトリア帝国の皇帝一家の遠縁に当たる伯爵家の一人息子で、皇族の端くれだった。後になって判明したことだが、どうやら彼は私の知らないうちに、堂々と自らを皇族と謳い、様々な高位の女性貴族たちを口説いて回っていたらしい。


カシアスは自分の身分に満足していないようだった。正式な皇族として認められない境遇が彼のコンプレックスだった。そして彼は自分が手込めにできた女のうち、もっとも高位なこの女に狙いを定めたらしい。


「このお方とは以前より仲良くさせてもらっているのだ、それ以上礼儀のなっていない言葉遣いで話すようなら、ただではおかないぞ」


 他国の王族を相手に怒鳴ってしまった手前、一貴族に過ぎない私は本来ならここで引き下がるべきだった。しかし私は怒りが抑えられず、こう言ってしまった。


「礼儀がなってないのはあなたたちの方よ! 私というものがありながら、公然の場で恥ずかしげもなく親しげにして、何を言うの!」


 大声で叫ぶと、女が過剰に驚いて、カシアスに何かをささやいた。カシアスは激高して、周囲に聞こえるようにこう言った。


「妙な言いがかりをつけるな! くそっ、フィオネ殿下の前でこんな赤っ恥をかかせおって、……こうなったら、貴様との婚約は破棄だ!」


 私はその言葉を聞いた途端、目の前が真っ暗になった。何を言っているのか分からなくて、呆然と立ち尽くした。

 

カシアスは続けざまに言った。


「私はあらかじめ忠告したはずだ! 全ての責任は貴様の無礼さによるもの。私は貴様のような無教養でヒステリックな女とは金輪際関係を絶つ! いいな、分かったか!」


 周囲の貴族たちはしらけた目で私を見た。みんなが私を迷惑がっていた。私は子爵で、彼は伯爵、階級の差は歴然としていた。誰も低位の私の言うことを信じようとはしなかった。


 ――このことはすぐに噂として広まった。昨年に父が流行病で亡くなり、我がナターシャ家の当主についたのは叔父のゴルドだった。


父はゴルドのことを信じてはいなかったので、遺書には娘のレイラ、つまり私を女当主とすると書いてくれたが、ゴルドは「女に当主など務まるはずがない!」と鼻で笑って一蹴し、当家の中心人物を金で囲い込み、あるいは処分して、権力を掌握した。


私はたんなる家のお飾りになった。何の権力も持ち得なかった私に危険性はないとして叔父は私を見逃し、ほとんど放置していた。愛する父を失い失意の底にいた私は、しばらく外界との連絡を絶ち、自分の部屋でふさぎ込んでいた。


 メイドや執事たちはゴルドにかしづくようになり、私には事務的に接した。私は味方がいなくてとてもさみしかった。母は幼き日に病死し、父も亡き今、どうすれば良いのか分からず、気持ちがふさぎ込んでしまった。


(……こんなことではいけないわ、外に出ないと)


 そして私はあのパーティに出席したのだった。噂はゴルドの耳にも入り、ナターシャ家の恥として私を地下牢に投獄したのだ。


「……あぁ、おなか減ったわ」


 石造りの壁面はとても冷たかった。向こうの牢屋には子供のものとみられる小さな骸骨が二体、肩を寄せ合うようにして壁際に寄りかかっていた。私もいずれああなるのか……


 私はまだ17歳だった。こんな若いときに、もっとも華やかに青春を送るべきときに、死んでしまうなんてまっぴらごめんだった。短気な性格の私はいらだちを覚えたが、しかしお腹がすいていたために、怒り出す元気がなかった。


 暴れ出す代わりに、唇を強く噛んで怒りを静めようとした。噛みきられた唇の一部から赤い血が流れ出す。私はその血を手でぬぐって、血が暖かいのに気づいた。私はまだちゃんと生きているんだ、と思った。


「……あれは何かしら?」


 月明かりが牢屋の通気口から差し込んで、私の入っていた牢の地面の一部を照らしていた。そこにはよく見ないと分からない、古びた小さな円形の紋様が彫られていた。


(うちの家紋に似ているけれど、わずかに違う。文字が紋様の中に含まれているわね、しかも古代ヴィクトリア語で……)


 私は貴族の女の一般教養として学んだ古代ヴィクトリア語の読み書きを思い出した。私はおぼろげな記憶を頼りにその文字を解読し、口にしてみた。


「――王の黄昏よ、汝の気高き血をもって、大罪と契約せよ。さすれば鎖は外れ、一族は従者を取り戻さん……?」


 意味不明だった。誰かのいたずら書きだろうか? 前にこの牢に入れられた者の仕業かと考えたが、この牢にだけは骸骨がない。わざわざこの牢だけを掃除するわけもないから、おそらく私が初めて投獄された未使用の牢屋のはずだ。私は首をかしげた。


「血がなんだって言うのよ、ばかばかしい」


 私はそう独り言をつぶやいたが、誰も返事をしなかった。当たり前だ。私一人しかいないし、お隣さんは骸骨だ。そう思うと途端に寒気が増した。唇からは相変わらず血が細く流れ出ている。


 どうせ出られないんだったら、と思うと、自然と体が動いていた。王の黄昏が誰なのかはまるで知らないが、もし平凡な子爵家の女の、さして気高くもない血が落とされたらどうなるかを試してみたくなった。子供だましの紋様に対する悪あがきだった。


「なによっ……こんなもの、好きなだけくれてやるわよ、どうせこのまま飢え死にするんですからっ……」


 唇からしたたる血を全て文様になすりつけた。それからぼんやり眺めた。何も起こらない。やはりただのいたずらだったのだ。


 私は牢の隅に体を寄せた。そして体育座りで顔を埋め、しくしくと泣き始めた。神は私を救ってくださらない。


《――バキンッ……バキッ……》


 ふいに妙な金属音がして、顔を上げた。そして私は絶句した。牢の中に突如として、私以外に、もう一人が出現していた。


そのもう一人は、全身が黒ずくめで、全身に鎖が張り巡らされたまま、ちょうど紋様のすぐ上でぶしつけに座り込んでいた。鎖は独りでに自壊し始め、バキンと音を立てて崩れ去りつつあった。


その者は男だった。それもかなり大柄で、ぼさぼさした長い黒髪のすき間から鋭い眼光が私をとらえている。私はその視線に磔にされたように動けない。


「――何を泣いているのだ」


 低く、そして重い声が牢の中に響いた。17年間生きてきて、様々な人と関わってきたが、こんな声は生まれて初めて聞いた。全身が震え上がるような、異様な存在感が、その声色に凄みを加えていた。


「だ、誰、誰なの」


 私は声を振り絞って、やっとのことで言葉を発した。男はにたりと大きな口を引き伸ばして笑った。


「私の名は、ローライト・ミューズ・リッケンバウアー……、ヴィクトリア家に代々仕える執事だ」

「……はい?」


 ここは我が帝国の最高貴族、ヴィクトリア家の邸宅ではない。平凡なる子爵、ナターシャ家の地下牢だ、何を言っているんだこの男は……、って、その前にいろいろおかしい。どうやってこの牢に入ってきたのだろう。訳が分からない。


「こ、ここはナターシャ家ですけど……」


 男はそれを聞くと、一瞬きょとんとした顔をしたが、しかし何かに気がついてように顔をほころばせ、盛大に笑い飛ばした。


「ハーッハッハ! 違うぞ我が主よ、貴様は勘違いしている。貴様は紛れもなくヴィクトリア家の正統な血を引く、王位継承者だ。これは血の契約に基づいている。間違えようがないのだ」

「な、何を言っているのか、さっぱりだわ」

「まず聞く。いまは皇歴何年だ」

「え、えっと、1294年」


 男は目を丸くした。それから、ジャックは何をしていたんだか、とささやき、気を取り直して説明を続けた。


「つまり、つまりだ。そのナターシャ家というのは、偽の名前で、本来、この家はヴィクトリア家の世を忍ぶ仮の住まいということだ。貴様がヴィクトリア家と信じてやまない一家はだな、あれは分家だ。初代皇帝の死の直後に内乱があったが、そのときに本家が島流しのような目に遭い、……当時は、たしかレイノルド家と名乗っていたような……、まぁいい、いまはナターシャ家と改名しているに過ぎん」

「……」

「ようするに、ここは本家なのだ。私と契約を結べる者は本家の主のみ。だから、私は貴様にかしづく。私は自らの罪を償わなければならない」

「……全く意味が分からない」

「あとでじっくり説明してやる。まずはさっさと、この陰気な牢から出ることから始めようではないか。ハッハ!」


 男は立ち上がり、牢屋の鉄格子に手をかけた。男が手を引くと、鉄格子はふにゃりと歪曲して、簡単に変形してしまった。大男が一人通過できるすき間ができ、それを放心状態で見ていた私は唖然とした。


 立ち上がれない私の元に歩み寄り、男が手をさしのべて、こう言った。


「さあ、我が主よ、お手を拝借」


 私はその手を取った。とても冷たくて、大きく、たくましい男の手だった。



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