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バス

作者: 清水 和紀
掲載日:2018/10/01

バス


 ちょうど房総の鴨川かそこらのあたりの、海を見下ろすようにして広がった低い丘に白い建物が立って居る。そこで私は働いている。建物に上がるためにはその丘を登らなければならないので、車が無いと少し面倒だ。しかしここを気に入っている。南国のような低い雲が青空に流れていくのを見たり、丘を一歩一歩上がるたびに開けてくる海の景色を見ているのが好きだし、何よりあって無いような楽な仕事だったのだ。


 私はどうも受付のようなことをやっていて、誰かが来るたびにサインを書いてもらい、そして次々とやってくる人を中に通したり、別のところに案内したりした。その間に私の立って居るロビーの大きなガラス張りの窓から、海に日が沈んだり、昇ったりするのを見ることが出来たので、私は私の仕事にとても満足していた。ただ不思議なことに、訪れる人訪れる人がみなパナマハットをかぶっているのが気がかりだった。何故それをみんなかぶっているのかが私には分からなかった。その上、サインを書いてもらうときにパナマハットの下の顔を見ようとするのだが、男なのだか、女なのだか、前を向いているのだか後ろを向いているのだか判然としない。

 サインを書いてもらっている間不思議に思い、何とか注視してみるのだが、どうも分からいまま、その人たちは建物の奥の方に消えてしまう。サインを書いてもらってこちらです、と私が案内すると、決まってそのパナマハットの人たちは、軽く礼をして、ふわりと奥の方に進んで、消えてしまう。私は私の仕事に満足している。しかしそれだけが不思議だった。時には、その人々が、ガラス窓の奥の入道雲に溶けていってしまうように見えることもあった。そういう時、私は不思議なだけでなく、なんとなく不安で、悲しいようななような気がするのだった。


 私は、その日の仕事を終え、夕暮れの海を見ながら、煙草を吸っているらしかった。海は夕日を受け、少し青色から暮色に変わり始めているが、波が静かに立って居るのは変わらない。私はそのロビーのようなところのソファーで何も考えず、それを見ている。パナマハットの人たちはどうしたのだろう。まだこの建物の中にいるのだろうか。それとも皆帰ってしまったのだろうか。


ふと、隣を見ると女が腰かけていた。女は私と同じようにソファーに腰かけているが、前を向いているということ以外何をするでもなく、ただただ腰かけている、という感じだった。私は、そんな女の様子が懐かしく、かわいらしく感じられ、何か話しかけたいような気がしたが、その女があまりにも微妙なバランスでその様子を保っていて、不安定な積み木のように、軽くつついたらその均衡状態が一気に崩れて駄目になってしまうといった様子だったので、話しかけられずにいた。

 しばらくそうしていると、あたりがすうっと暗くなった。煙草の火も見えないくらいに暗くなってしまった。女の鼻息が近くに感じられる。音も立てずに顔を近づけると、女は言った。


「行かなくていいの?」


 どこに、そう言おうとした瞬間、心の中にさっきのような余裕は消え去っていた。行かなくてはならない。一息に動悸が早まり、頭にかあっと血が上がってきた。遅れてしまった。とにかく行かなくては。息が荒くなる。指も細かに震えだした。焦りばかりが先行して、体が動かない。行かなくては。私は机に当たりながらも、何とか立ち上がり、出口に向かった。自分の鼻先も見えない闇なのに、出口だけはわかった。ふと、私は焦りながらも、闇の中に女を残してきたのだけが心残りな気がした。振り返っても、もう女は見えなかった。


 私はいつの間にか、泣きだしたいような気分で、夜の街角に立って居た。遅れてしまったという気分と、もうどうにもならないという気分に支配され、私はうろうろとそのさびれた夜の街を歩いた。今日は何か、大切な、遠出をする日だったのだ。私は焦ってあの建物から飛び出してとりあえず町に降りたが、もう皆に追いつくはずがない。私のバスは行ってしまった。みんなそれに乗って行ってしまった。もう追いつけないんだ。本当に泣き出したくなってきた。何でこんなことになってしまったのか分からず、理不尽さと、私は悪くないはずだという思いで悔しさと焦りが均等に配分され、ブレンドされた強烈な酒を飲み下したように、私は混乱した。


 もう駄目だろうという気分で、バス停を見る。文字が何故か判然としない。時刻表の数字も、あのパナマハットの人々と同じように判然としない。しかし、こんなさびれた街に、こんな時間いバスがあるはずもない。もう出てしまったのだ。そして、私はバスに乗らなけらば、もう二度とあの愛すべき白い建物に帰れないのだろう。あの丘はバスが無くては登れないのだ。登れるはずがない。そしてそのバスを逃した。


 私は往生際悪く、その海辺の町で、バス以外の方法であの丘に登る方法を考え、うろついた。しかし、あの低かったはずの丘は、気付けば天を衝くほど高い峻険な山になっている様だった。闇の中で見よく見えないが、それだけは実感を伴って分かるような気がした。私は、もう高すぎて見えなくなってしまった私の愛した建物の明かりだけでも見よう、と上を見上げ、目を凝らした。


 すると、雲の切れ間切れ間に、光が見えた。それは移動していた。私の乗り逃したバスが山をらせん状に巻いてひかれた道路を上がっていく光だった。しばらく見ていると、その明るい車窓の中に、パナマハットの人々がたくさん載っているのが分かった。相変わらず判然としない感じだったが、こちらを残念そうな顔で見ている気がした。私は、それを見て安心し、ようやく海辺の町で夜明けを待つ気に成れたのである。


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