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異世界求法巡礼行記  作者: 石川博品
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第3話 上

 風に混じる潮の香が海の近いことを告げていた。


 俺は足を止め、空に舞う鳥を見あげた。


「いざことわんみやこどり、か……」


 日本もこの国も、海鳥というのはたいしてかわらない。大きくて白くて翼の長い鳥が悠々と風に乗っている。


「兄上~、私もう歩けません」


 道端では熊羅が足を投げだし、座りこんでいる。俺はそれをにらみつけた。


「何をいっとるか。立て」


「でも足が痛いし、おなかがすきました」


「つらいときこそ歩け。それが修行だ」


「おんぶしてください」


「阿呆か、おぬしは」


 どうも旅というものをしたことがないらしく、熊羅はあの森を出てからずっと不平を漏らしている。


 俺が歩きだすと、彼女は渋々立ちあがり、ついてきた。


「兄上、修行ってこんなにつらいものなんですね」


「もちろんよ。俺も唐土にいた頃は八刻(2時間)坐禅したのちに美童と戯れ、また八刻坐禅するという過酷な日々を送ったものだった」


「ただのゆう(ゆう)てきでは?」


 しばらく行くと港町に着いた。大きな船が何隻も停泊し、とうから交易の品が次々に運びだされていく。


 俺は道行く男に声をかけた。


「ここはヴェストゴールの町かね?」


「ここはミットアーフェンだよ」


 彼は港の方を指差す。「船に乗れば州都まではすぐだがね」


 そういわれても船賃など持ちあわせていない。そもそも食べるものすらないのだ。


 俺は男に礼をいい、町の広場へと足を運んだ。


「よし、ここで托鉢をするぞ」


 熊羅に合図して「ホーホー」と声をあげさせる。


 人々の目が集まったところで、鈴をひとつ鳴らし、経を読みはじめた。


 熊羅もつっかえつっかえながら何とかついてくる。


 ひとしきりきょうを済ますと、善男善女が貨幣を差しだしてきた。俺はそれを裏返した笠で受けた。これまでの町とはちがって商業が発達しているようだ。


 1人の肥った男がぺこぺこしながら近づいてくる。


「お坊様、私はこの近くで酒家を営んでいる者です。よろしければ当家にお立ちよりください。お食事をご用意いたします」


「うむ」


 人の多いところにはそれだけ信心深い者も多くいるものだ。


「わーい。ありがとうございます」


 熊羅が跳びあがって喜ぶので、俺は、


「これ」


 と叱りつけた。


「在家信者からの布施はその者が徳を積むためのもの。感謝のことばを口にするのは、その布施をわたくししようとする気持ちの表れだぞ」


「すいませんでした」


 熊羅は頭をさげる。


 案内された酒家は船乗りが集まる店らしく、騒々しくて椅子や卓は少々汚かったが、活気に満ちていた。


 麦のかゆと干し肉、麦酒が供され、俺はあっという間にそれらをたいらげた。


「兄上、食べるの速いですねえ」


 熊羅がさじで粥をすくう手を止め、目を丸くする。


「寺にいた頃は食事の時間が短かったからな。自然と早飯になるのだ」


「じゃあ私も」


 熊羅は粥を乱暴に掻きこもうとする。


「おぬしはゆっくり食べなさい。よく味わい、食べ物に感謝することもまた修行だ」


「はい、兄上」


 熊羅は粥に夢中になるあまり、鉢に顔をすっかり突っこんでしまっている。


「これこれ、行儀よくしなさい」


「はい、兄上」


 何だか子育てをしているような気分だ。


「ところで兄上――」


 彼女が顔をあげた。「禅って何ですか」


「えらく根本的なところを突くのう」


「でも禅が何なのか知らないまま修行するのも変かと思って」


「なるほど。では――」


 俺は自分の匙を手に取った。「その前にきくが、これは何かね」


「スプーンです」


「ふむ。だがそれはこのものの名前にすぎぬ。『俺が手にしているこのものは何か』という問いの答えにはなっていないな」


「では兄上――」


 熊羅は自分の匙を突きだしてくる。「これは何ですか」


 俺はそれを凝視した。


「それか。それはな……こうじゃ――――い!」


 匙を思いきり叩いて弾きとばす。


 熊羅は空になった自分の手を見つめていたが、やがて床に平伏した。


「ありがたい教えをありがとうございます」


「うむ」


 俺は椅子にもどるよう彼女を促した。


 禅とは何かと問われて、匙を匙だというように説明することはできる。だが禅とは本来、人それぞれ形がちがうものだ。だからことばで表すにしても、自分のことばでなくてはならぬし、表したところでそれは自分のものでしかなく、相手にとって意味はない。


 俺が匙を弾きとばしたのはそういうことだ。説明を拒否する。ことばを拒否する。問いそのものを拒否する。ただ動く。そうした鮮烈さの中にしか禅は存在しない。


「ほれ、これを使え」


 俺は熊羅に自分の匙を差しだした。


 それを彼女が一礼して受けとろうとしたとき、


「テメエかあ、俺にスプーンをぶつけやがったのは」


 大きな声をあげながら俺たちの卓にひとりの男が近寄ってきた。


 身の丈六尺五寸(197cm)はあろうか。かなりの大男である。周囲の卓に就いている海の男たちはみな厳ついが、この男は格別に武骨で、山出しの猪武者という感じだ。腰の革帯には長剣を吊ってあった。


「こいつはテメエのだな?」


 そういって男は匙を突きつけてくる。俺はそれをひったくった。


「かたじけない。ちょうどさがしていたのだ」


「ふざけやがって……」


 男は自分の襟をつかんでひっぱった。「見ろ。そのスプーンが飛んできて染みがついちまった。どうしてくれる」


「それはすまなんだ。すくないが、洗濯代の足しにしてくれ」


 俺は懐から先程布施としてもらった貨幣を取りだし、卓の上に積みかさねた。男がそれをつかみとる。


「いい心がけじゃねえか。だが、これっぽっちじゃ足りねえなあ」


「しかしこれ以上は持ちあわせがなくてな」


「ほう、そうかい」


 男が熊羅に目を向ける。「それなら代わりに嬢ちゃんのその外套をいただくとしようか」


「ええっ、嫌です」


 熊羅が我が身を抱きかかえる。男はにやりと笑った。


「嬢ちゃんの連れが悪いんだぜ。恨むならあいつを恨むんだな」


 そういって彼女の外套に手を伸ばす。


 そこへ、先ほど俺たちをここに招いてくれた店主が割って入った。


「お客さん、うちの店で面倒は困りますよ」


 男は彼をにらみつける。


「うるせえ。すっこんでろ」


 乱暴に店主を押しのける。彼はとなりの卓にぶつかり、床に倒れた。


「おい、早くよこすんだよ」


 男が熊羅の外套をつかむ。彼女が悲鳴をあげる。


「まあ待ちなさい」


 俺はゆったりと立ちあがった。「ここはひとつ俺の顔に免じて、表に出てりあおうではないか」


 店内の男たちが「おおっ」と声をあげる。


「意外と好戦的!」


「喧嘩だ喧嘩だ!」


 男が鼻息を荒くしながらこちらに迫ってくる。


「いいだろう。受けて立つぜ」


 俺は彼に続いて店を出た。


 往来に立つと、野次馬に取りかこまれた。


「気に食わん野郎だが、度胸だけは認めてやろう。特別に1対1でやってやる」


 男はそういって背後に目をやる。長い外套を着た小男と、出家者らしいゆったりした衣の男が立っている。どうやら仲間らしい。


「まあ俺は1対1でも1対3でもどっちでもいいがな」


 俺は首筋を掻いた。まわりを見ても男ばかりで、美女や美童の姿はない。これではもうひとつやる気が出ないというものだ。


「兄上がんばってー」


 熊羅が応援してくれているが、俺の禅に火を点けるには至らない。


 男が腰の剣を抜いた。


「オメエさん、武器はねえのかい」


「俺はこれで充分だ」


 店から持ってきた匙を見せる。


「ヤロウ……ナメやがって」


 顔を真っ赤にした男が突進してきた。薪割りでもするごとく剣を振りかぶる。


「死ねいッ!」


 振りおろされるのを俺は後方に跳んでかわした。


「うおおっ!」


 今度は大きく振りまわしてくるので、身を反らして避ける。


 この長い剣を振るうというのはなかなかの腕力だが、速度はそれほどない。


「野郎、ちょこまかと……」


 男はいっそう大きく剣を振りかぶる。俺を身を低くして構えた。


 剣が真っ向から振りおろされる。


「こんな剣、禅を燃やすまでもない!」


 その剣の柄を俺は左手で受けた。外に弾いておいてし、逆手に持った匙で相手の喉を突く。


「ぐうっ……」


 相手が嘔吐するような声を漏らす。


 俺は匙を捨て、その手で相手の奥襟を取った。それを引きずりおろしつつ、反対の手で腿をつかんで引きあげると、相手の体は宙に浮く。


「ほいっ」


 そのまま地面に叩きつける。


「ぐわあっ」


 後頭部を打ちつけた男は起きあがろうとしてぐらりと崩れ、伸びてしまった。


「すごいすごい!」


 熊羅が飛びついてくる。「そんな技、どこで習ったんですか」


「一応武士の出だからな。太刀たちを持った相手と戦うやり方くらいは身につけとるわい」


 野次馬たちが拍手を送ってくる。こんなことで目立つのは嫌なので熊羅を連れて立ちさろうとすると、


「待てい!」


 男の仲間でゆるふわ衣を着たのが進みでてきた。


「今度は私が相手だ」


「1対1でやるという話ではなかったかな?」


 俺がいうと男は倒れている仲間を顎でしゃくる。


「それはそいつとの約束だろ? 私は関係ない」


「つまらんことば遊びをするのう……」


 男が掌を向けてきた。俺の禅が警戒するよう告げている。


「熊羅、俺から離れろ!」


 2人同時に跳びのく。そこへ激しい炎が吹きつけた。


「何だこれは……」


 ゆるふわ衣の掌から放たれた炎は吸いこまれるように元の掌へと消えていった。


「びっくりしたぁ!」


 熊羅が目を丸くしている。「兄上、あいつ魔物じゃないですかね」


「ん? ……まあそうかもしれんな」


 俺は魔物丸出しな妹弟子を横目に見た。この国では人が熊になるくらいだから、人が炎を生ぜしめたところでいまさら驚くに値しない。


「やはり避けるのは得意なようだな」


 ゆるふわ衣が今度は両の掌を向けてくる。「ならばこれでどうだ」


 またそこから炎が出てくるのかと思いきや、炎は地面から吹きだした。


「むむっ……」


 俺を取りかこむように炎の柱が立ちあがる。


「1、2、3、4……兄上、12本ありますよ」


 本数については熊羅が数えてくれた。まあまあ時間をかけていうことがそれか。


 熱気が俺の体を包む。衣の裾が焼けているのか、焦げくさい臭いが漂ってくる。


「ククク……この強力な炎で蒸し焼きになりたくなければひざまずいて非礼を詫びるのだ」


 ゆるふわ衣が不敵な笑みを浮かべる。


「フッ……」


 俺は鼻で笑った。「強力な炎か……子供の頃から浴びてたぞ。寺の事情でな」


 野次馬たちが「おおっ」と声をあげる。


「何と過酷な修行だ!」


「いったいどこの殺人教団なんだ……」


 ゆるふわ衣の顔から笑いが消えた。


「口の減らん奴め。ならば望みどおり焼きつくしてくれよう」


 彼が掌を合わせるような動きをすると、俺を取りかこんでいた炎の柱がじわじわと中央に集まってきた。


 実はさっきの子供の頃からどうとかいうのはまったくのハッタリなので、小便で何とか消火できないだろうかと珍宝をまさぐったそのとき、


「待て!」


 熊羅の声が響きわたった。


 見ると彼女は、うつぶせになった長剣男の背中に乗り、その右腕を逆さにねじあげていた。


「兄上を傷つけたらこいつの腕を折る!」


「でかした!」


 俺は思わず叫んだ。


「ぬうっ、しゃくな……」


 ゆるふわ衣が熊羅をにらみつける。


「何をやっている。そんな小娘などねのけてしまえ」


 うしろにいた外套の小男がいう。


「それが駄目なんだぁ」


 長剣の男が泣きだしそうな声をあげた。「どんなに力をこめてもびくともしねえ。こいつバケモンだ」


「フフ……俺の妹弟子は怒ったら何をするかわからんぞ」


 俺は言外に「それを止められるのは俺だけだ」という感じを匂わて自分を大きく見せようとした。


「チッ……仕方ない」


 ゆるふわ衣が手を振ると、炎の柱は消えうせた。


「ふう……」


 俺はため息をついた。何とかこんがり即身仏にはならずに済んだようだ。衣をつかんで裾が焦げていないか調べる。


「熊羅よ、そいつはもう放してやりなさい」


「はい、兄上。……あれっ? 鼻が……むずむずして……ハ、ハ、ハーックション!」


 熊羅はくしゃみをする拍子につんのめった。彼女のねじあげていた腕もいっしょに倒れる。ペキッと変な音がした。


「ギャーッ! てえーッ!」


 男の腕はありえない方向に曲がってしまっていた。


 熊羅がペロッと舌を出す。


「テヘッ、折っちゃいました」


「あらら」


 俺はのたうちまわっている男の肩に手を置いた。


「ふむ……これは肩と肘をやられておるな。まあ安心せい。半年から1年もすればよくなるだろう」


「かなりの重傷じゃねえか!」


 男の顔がみるみる青ざめていき、やがて気を失った。彼の仲間が駆けよってくる。


「これではしばらく動けんな。任務の遂行が厳しくなった」


「上に連絡して応援を頼むか」


「しかし、事態は急を要する。追加の人員を待っている余裕はないぞ」


「うーむ……」


 何やら深刻そうな話をしている。


 俺の中で燃えていた禅の炎が鎮まると同時に野次馬根性がメラメラ燃えあがってきた。


「いったいどうしたのかね」


 俺が声をかけると、ゆるふわ衣の方が威儀を正し、こちらに向きなおった。


「我々は武装修道会のものだ。このたびは、この町に悪魔が出没するという訴えにより派遣されてきた」


「また悪魔か……」


 俺のことばに相手はいぶかしげな顔をする。


また(・・)とは?」


「ちょうどここに来る途中で森に住んでたやつを1匹退治してきたところよ」


「何だと……」


 ゆるふわ衣と外套男が顔を見合わせる。


「でもそんな悪いやつじゃなかったですよね」


 熊羅が俺の経歴を微妙におとしめようとする。


 外套男と何やら囁きあっていたゆるふわ衣が俺に歩みよってきた。


「なかなかの手練てだれとお見受けするが、もしよければ悪魔退治を手伝っていただけないだろうか」


「ふむ……」


「我々の利益のためにいっているのではない。悪魔に苦しめられている憐れな者のためだ」


 そんなご立派なことをいうなら、人から金や外套を強請ゆすろうとしたこの大男をよくしつけておかんかい、と怒鳴りそうになったが、俺の方も、いま目の前で倒れている男の懐をさぐって財布を開き、


「兄上、さっき盗られたお金が倍になってもどってきましたよ」


 などとぬかす妹弟子を持っているので大きなことはいえない。


「人助けのためとあらば、引きうけよう」


「おお、やってくれるか」


 ゆるふわ衣と外套男に手を取られ、感謝される。こっちとしても大男に怪我をさせてしまった負い目があるので断りにくい。


「それでは熊羅よ――」


 俺は妹弟子に呼びかけた。「移動するから怪我人を助けてやりなさい」


「はい、兄上」


 熊羅は地面に倒れている大男を、まるで天秤棒でも運ぶように片手でひょいと持ちあげた。


 ゆるふわ衣が目を丸くする。


「……あなた方はみんなこうなのか?」


「ま、まあな……」


 野次馬たちが騒ぎだす。


「何て怪力だ……」


「殺人教団ってどうすれば入れるんだ?」


 俺は、早いとこ熊羅を破門しなければこの世界に禅がまちがって伝わってしまうのではないかという不安に駆られた。




 ゆるふわ衣に連れられていった先は町はずれの丘に立つ、広壮な屋敷だった。


「わあ、おっきいなあ」


 3階建てのその屋敷を熊羅が口開けて見あげる。


「我々に悪魔退治を依頼してきたヘルニッヒ氏はこの町一の豪商なのだ」


 ゆるふわ衣がいう。


 使用人に案内されて、俺たちは邸内の応接室に入った。


 壁に裸の女を描いた絵が何枚もかけられている。みな生きているような質感だ。唐土の肖像画も写実という点ではかなりの水準にあるのだが、いかんせん描く対象がシワシワの高僧とかなので、見ていて楽しくない。


 ふわふわした椅子が珍しいのか、熊羅がはしゃいで何度も立ったり座ったりする。


 やがてヘルニッヒとその家族が室に入ってきて、俺たちと向かいあう形で座った。


 ヘルニッヒその人は40絡みのごうそうな男。肌がよく日に焼けていて、元は船乗りだったのではないかと想像される。


 そのとなりに座る息子は14、5歳の美童だ。ややかげのある表情が庇護ひごよくをかきたてる。


 20歳くらいの女が乳飲み子を抱いている。はじめは乳母(めのと)かとも思ったが、ヘルニッヒの妻女だった。長男と年齢が合わないからのちえだろうか。


「あなた方をお呼びしたのは、私の長男に取りついた悪魔のためです」


 ヘルニッヒが切りだすと、熊羅が「怖い!」と声をあげて俺の袖にすがりついた。


「具体的にどのような被害が?」


 ゆるふわ衣が身を乗りだす。


「息子は小さい頃から病気知らずだったのですが、このところ体を壊して床に就くことが多くなりました。医者に診せても、病気ではないといわれます。それでも日に日に痩せていくので、これは人智を超えたものが関わっているのではないかと」


「なるほど。それは悪魔の仕業であるとも考えられますが、もうひとつ、呪いという可能性もあります。ヘルニッヒさん、あなたを恨む者に心当たりは?」


「手広く商売をしていますので、恨みを買うこともあるでしょうが、呪いなど……」


 ふたりで退屈な話をしているので、俺は余所見よそみをしていた。


 ヘルニッヒ夫人はなかなかの美女だ。14、5の少年のもとにこんな若くてうつくしい継母がやってきたら、病気になるどころかいろいろ元気になってしかるべきである――そんなことを考えていると、熊羅に肘でつつかれた。


「なんでニヤニヤしてるんですか」


「しとらんわい」


 どうもこいつは勘がいい。


 ゆるふわ衣ご一行が少年の部屋を見に行くというのでついていった。


 3階にある寝室は窓にも扉に鍵がかけられるようになっており、外から侵入するのは難しそうだ。


 俺は床に腹這いになり、寝台の下をのぞいた。春画の類はない。少年が痩せていくというと、たいていはシコ(シコ)のしすぎが原因だが、その痕跡は見られなかった。


「我々はこの部屋に結界を張り、不寝番をしよう」


 ゆるふわ衣が俺の方を向く。「あなたはとなりの部屋で予備として待機していてくれ」


「心得た」


 本当は少年に添い寝して守ってやりたかったが、今回依頼を受けたのは修道会の連中なのだから、顔を立てておこう。


 屋敷の中や周囲をひととおり見てまわったら日が暮れた。


 夕食をご馳走してくれるというので俺たちは食堂に出向いた。


「わあ~」


 卓に並べられた料理を見て熊羅が目を輝かせた。


 山海の珍味がずらりと並び、湯気を立てている。唐土風にいえば満漢全席というやつだ。


 修道会の3人組はすでに卓に就き、貪り食っていた。


「食べるぞ食べるぞ~」


 熊羅が舌なめずりしながら椅子に腰をおろす。


 俺はそばをとおりかかった給仕の者を呼びとめた。


「すまんが、俺に麵麭パンと水を持ってきてくれ。他は何もいらない。


「えっ……?」


 熊羅が目を剝く。「兄上、それしか食べないんですか?」


「修行中の身ゆえ、贅沢は慎まねばならない」


 俺のことばに熊羅はうつむき、自身の前に置かれた空の皿を見つめていたが、やがて決然と顔をあげ、給仕の者に合図した。


「私も麵麭と水だけでいいです」


「おぬしは俺に構わず食べなさい」


 俺がいうと、彼女はかすかに笑った。


「私も兄上と同じ、修行中の身ですから」


 そういいながらもやはり未練が残るらしく、血の滴る肉に舌鼓を打つ3人組を横目に見る。俺はその姿に哀れをおぼえながら、兄弟子として頼もしくも思っていた。




 食事が終わると、俺たちは寝室でしばし坐禅すわった。


 熊羅の結跏趺坐もなかなかさま(・・)になってきている。


「今日はいろいろありましたね」


「本当だな」


 いろいろあって、思いがけずもふわふわの寝台で眠ることになった。


 布団に潜りこむと、昨日までの草枕引きむすぶ野宿とはちがった安らぎに体全体が包まれる。


「兄上――」


 となりの寝台で熊羅が寝返りを打つ。「出ますかねえ、悪魔」


「まあ出ないだろうな」


「そうなんですか?」


「あの少年は心に迷いがあるのだろう。それゆえに体の調子も悪くなるし、痩せもする。余人にはそれがわからぬから悪魔の仕業などといっておそれるのだ」


「じゃあ坐禅を教えてあげましょう。そしたら心の迷いが消えます」


「そうだな。それがいい」


 俺は熊羅があの少年に先輩風を吹かせて坐禅を指導する光景を思いうかべながら、眠りの淵へと沈んでいった。




 目をさますと、俺は白い室の中にいた。


「ややっ、これは……」


 驚いて寝台から飛びだす。足の裏に冷たい床が触れた。眠る前は木の床だったのだが、いまは滑らかな石板だ。白い中に薄雲のようなが入っている。大理石だろうか。


 壁も天井も白い石だ。窓があったはずだが、なくなっている。扉は元のままだ。


 室内にあるものはふたつの寝台のみ。俺が寝ていたもののとなりでは阿呆面の妹弟子がいびきをかいている。


「おい熊羅、起きろ」


 頬を軽く叩くと、


「んあっ、何ですか~?」


 目をこすりこすり起きあがったが、異変に気づいて俺に抱きついてきた。


「……ここ、どこですか?」


「わからん。起きたらこうなっていた」


 熊羅が俺の胸に鼻面を一度こすりつけ、また室内を見まわす。


「これ、夢ですよ」


「夢……?」


「そうです。夢です。だからこんな部屋なんですよ」


「だが妙に感覚がはっきりしているぞ」


「そういう夢もありますよ」


 熊羅は俺から身を離し、扉の方へ歩いていく。「せっかくだから探検しましょう」


「お、おう……」


 子供というのは順応性が高いものだ。一方の俺はすっかりまごついてしまっていた。


 熊羅が扉を開けると、その向こうには驚きの光景がひろがっていた。


「やややのや!」


「わあ、すご~い」


 眠る前は細い廊下だったところが大広間になっていた。ただの大広間ではない。唐土の宮殿やだいらんもかくやと思われるほどの大きさだ。百官を集めてのびょうや千僧をつのっての法要も催すことができよう。


 中央にはこれまた大きな卓があり、そこには数えきれぬほどの料理が並べられている。夕食のあれが満漢全席の看板をおろさねばならぬほどの規模だ。


 俺はあっけに取られて立ちつくしていた。


「信じられん……何なんだ、これは……」


「だから夢ですって」


 熊羅は実に落ちついたものだ。


「夢かあ……」


 大きな卓に近寄ってみると、ぽつんと4人だけが就いていた。お揃いの白くゆったりした衣をまとっている。その後姿は何となく死装束を連想させた。


「おや、あなたたちも来たのか」


 4人の内の1人に声をかけられた。どこかで見た顔だ。


「兄上、あの人、手から火を出していた人ですよ」


「ああ、あいつか」


 例のゆるふわ衣を着ていないせいですぐにはわからなかった。その両側には外套男と怪我をしたはずの大男が座っている。


「おぬし、肩の方はもういいのか?」


 俺は大男にたずねた。彼は悪い方の右手で分厚い肉を皿からつかみとっている。


「どういうわけか夢の中では治っちまったよ」


 そういってうまそうに肉を頬張る。


「そうです。これは夢です」


 修道会の3人からすこし離れたところに1人の少年が座っていた。「だから心のままに楽しめばいいんですよ」


 よく見るとそれは、ヘルニッヒの長男だった。夕食のときには肉のスープを一口飲んだだけで自室へとさがっていったはずだ。それはいまやおおいに飲み、食っている。


「兄上、どうします?」


「うーむ……」


 口を揃えて「これは夢だ」といわれると、逆に疑わしく思われてくる。これは本当に夢なのか?


 熊羅はご馳走にありつこうとうずうずしている。だが兄弟子である俺が動かないので卓に向かうことができず、泣きそうな顔になっていた。


 広間の奥から1人の女がしゃなりしゃなりとやってきた。食事をする者たちに給仕をするものかと見ていたが、卓の横をとおりすぎ、俺たちの方へ歩いてくる。背が高く、ほっそりとした女だ。俺はもっとししづき豊かな方が……思っていたが、近づいてくるのを見れば絶世の美女であった。俺の視線に気づき、ほほえんでくる。自分が魅力的なのをよくわかっているようだ。こういう女とは寝るまでの駆け引きが楽しめていい。


「くつろいでいただけるよう、お召し物を用意しました」


 そういって彼女は卓の4人が着ているのと同じ白い衣を差しだしてきた。


 熊羅は1着取って自分の体に当ててみていたが、俺の視線に気づいてそれを美女の手にもどす。


「やっぱり修行中なのでよくないですよね」


 熊羅が唇を尖らせながらいう。その肩に俺は手を置いた。


「おぬしのいうとおりだ。だがこれは夢。夢の中まで修行しろとは釈尊だっておっしゃるまい」


 俺は勢いよく諸肌脱いだ。「ここはひとつ、心ゆくまで楽しもうじゃん?」


「ヒューッ」


 熊羅も俺もりょじんを吸った服を競うように脱ぎ、白衣に着がえた。前合わせで、日本の衣に似ている。


 俺たちの脱ぎすてた服を拾いあつめながら美女が目を細め、にやりと笑った。

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