第2話 下
女童は俺の喝を食らっても平気な顔をしている。
「ならば……物理攻撃あるのみ!」
俺は拳を握り、深く腰を割った。
「それより服着てよ!」
女童は俺の股間に目をやり、手で顔を覆う。
「全裸はすなわち禅裸に通ずる。これが俺の戦闘形態よ」
俺は拳を腰に当て、低く構えた。
唐土留学時代、近所に武術の道場があったので出入りしていたことがある。健康にいいというのでやっていたら、気づくと師範代になっていた。そこの師匠が酒を飲みに行くときには代わりに門弟たちの稽古をつけてやったものだ。
「世界最先端の武術、受けてみるがよい」
俺は突きや蹴りをぶるんぶるんと放ってみせた。
「ぶるんぶるんしてる……!」
女童は俺の股間を凝視している。
「行くぞ!」
俺は隙だらけの女童に飛びかかった。「破ーッ!」
空中二段突きをお見舞いするが、すばやくかわされる。
「覇っ! 奮ッ!」
まわし蹴りを続けざまに繰りだすも、空を切る。
「吠――――ッ!」
必殺の飛び膝蹴りを、女童はとんぼを切ることで回避した。
「フフ……いつまでもそうやって逃げまわっているつもりかな?」
俺の口からこのあと逆転負けを食らうこと必至なことばが飛びだした。
女童が俺をにらみつける。
「じゃあ今度はこっちから行くぞ!」
外套を頭からひっかぶると、熊の姿に早がわりする。
熊は矢のような勢いでまっすぐ俺に向かってきた。
「まずい! 避け……いや――」
敵の速度は四足になることで2倍、獣化することでさらに2倍になっている。
「間に合わん! ならば――」
この場で防ぎきるしかない。奴の全速力と俺の禅力、どちらが上かという勝負だ。
燃えろ、俺の禅!
俺は腕で身をかばうのではなく、逆に胸を出して構えた。
熊が体当たりをかましてくる。まるで転がる岩のように重く、硬い。
だが俺はそれを受けとめた。足の指でつかんでいた地面がえぐれる。
「どすこ――――い!」
相手の毛をつかみ、完全に勢いを止める。
「何ィ!」
俺の胸に頭をつけた熊が叫んだ。
「角力の構えを取った上で、禅の力によって肉体を内側から強化した。これで受けとめきれぬ攻撃はないわい」
今度は俺が前に出る番だ。熊は俺の腰を抱えようとするが、俺はその腕を絞りあげ、許さない。
「そらっそらっ! どうじゃい、この厳しい押っつけ!」
さらに体を密着させ、腰を振りながらがぶり寄る。
「ひゃあっ! 押しつけないで!」
熊が悲鳴をあげる。俺の大事なところに毛が刺さってチクチクするが、気にしている場合ではない。
相手の腰が浮いたのを察知した俺は、左ですくって豪快に投げとばした。
「どりゃああああ――――ッ!」
熊は地面を転がり、木に頭をぶつけて伸びてしまった。
「完禅勝利じゃ――――い!」
俺の雄叫びは木々の間に響きわたった。この森に新たな王者が誕生した瞬間である。
さて、冷静になって考えてみると、俺は振珍でいったい何をやっておるのだろうか。坂田金時もこんなことは元服前に卒業している。
衣を着こんで、改めて熊の奴を見てみる。恐ろしい姿をしているが、中身は子供だ。そしてその子供が町の者たちと戦いつづける修羅道に堕ちてしまっている。
考えてみれば憐れなことだ。これには何か事情があるにちがいない。
俺は熊を揺りおこした。
「ほれ、飲むか?」
水の入った革袋を差しだすと、熊は外套を脱ぎ、女童の姿になってその水を飲んだ。
「おぬし、親はどうした」
「お父さんははじめからいない。お母さんは死んだ」
女童はうつむく。「殺されたんだ。町の奴らに」
「何だと……?」
「あいつらが毒の入った食べ物を森に仕掛けて、それをお母さんが食べてしまった。お母さんは何日も苦しみつづけて、町の連中に復讐するよう私にいいのこして死んでいった」
そういって女童は手で顔を覆い、すすり泣いた。
「うーむ……」
俺は腕を組み、思案した。悪魔に生活を脅かされた町の者たちを助けるためにここまで来たが、助けるべきはむしろ悪魔と呼ばれたこの女童の方ではなかろうか。
母を思う心に人も獣も魔物もない。俺もこの世の縁をすべて断ちきるべき出家の身でありながら、修行をはじめた当初は母恋しさに枕を濡らしたものだった。
俺は泣いている彼女のとなりに腰をおろした。
「俺は仏道の修行をしている平梵扶通という者だ。いまからおぬしに仏のありがたい話をしてやろう」
女童は顔をあげない。だが構わず話しつづける。
「仏道をはじめたのは釈尊という人だ。その弟子に目連という者がいた。彼は不思議な力を持っていて、はるか遠くのものを見ることができた。ある日、彼は亡くなった母親がどこにいるのか、その不思議な力を使って見てみることにした。するとどうだろう、彼の母親は地獄に堕ち、永遠に癒されぬ飢えに苦しんでおったのだ」
「地獄に……?」
女童が涙に濡れた顔をあげた。
「目連はたいそう驚き、また嘆き悲しんだ。なぜ優しく善良な母が地獄に堕ちねばならぬのであろう。実は、彼の母は家の前をとおる托鉢僧の一団に息子の姿をみとめ、他に与えず彼だけに施しをしたのだった。地獄に堕ちたのはそれゆえだ。我が子かわいさのあまりに物を吝しむという罪を犯してしまったわけだな」
「そんなことで地獄に堕ちてしまうの?」
「それが罪というものの恐ろしさよ。さて、目連は地獄にある母を救おうと思いたった。そこでその不思議な力でもって食べ物飲み物を地獄に送りこんだのだ。ところが、それらは地獄の炎に焼きつくされ、母の口に入ることはなかった」
「ひどい……」
「ところで、なぜこんな話をしたのかというと、そのような地獄におぬしの母親も堕ちているからだ」
「えっ……」
女童が色をなす。「そんなはずない!」
「だがおぬしの母は自分に毒を食わせた者に復讐するよういいのこした。それはつまり、我が子に人を傷つけるよう命じたということだ。それが罪でなくて何であろう。最初に毒を盛った者が悪いにしても、彼を傷つけることもまた悪い。ましてそのような悪を人に為さしめることは、この上なく大きな罪である。それゆえ、おぬしの母は地獄行きとなったのだ」
「うわーん、お母さーん!」
女童は泣き伏してしまった。
俺は腕を組み、ただそれを見つめた。酷な話だが、罪ということを説くにはここまで突きつめていく必要がある。
女童が地面に手を突いたまま顔をあげる。
「お坊様、お母さんを救う方法はありませんか」
「うむ。目連も同じことをたずねたぞ。相手はもちろん、師匠である釈尊だ」
「釈尊は何と?」
「『地獄の亡者に直接食べ物を送ることはできぬ。だが現世の人々に施しをすれば、それがやがてそなたの母のもとに届くであろう』と。目連はそのとおりに施しを行った。そののちに霊の力で母の在処を見てみるというと、息子の施しによって飢えは癒され、またその罪のもととなった煩悩も消えて、無事極楽へとのぼっていったのだ」
「施し……」
「おぬしも同じことよ。いくら人を傷つけたところで、母の苦しみは消えぬ。むしろ人の傷を癒すことこそが母の苦しみを癒すことにつながろう」
「私が行ったところで、人は私のいうことを聞いてくれるでしょうか」
「おぬし、名は何という」
「コルネラといいます」
「コルネラよ、行って人々にこう告げるのだ――私は生まれてから、一度も人を傷つけたことがない。その事実によってあなたたちの傷を癒そう、と」
「でも私はたくさんの人を傷つけました」
「ならばコルネラよ、行ってこう告げるのだ――私は聖なる教えを知り、生まれかわってから、一度も人を傷つけたことがない。その事実によってあなたたちの傷を癒そう、と」
そう俺がいうと、コルネラは這いよってきて俺の足に口づけた。
「いまのありがたいお話で私は目がさめました。本当に生まれかわったような思いです。人々に施しをし、母の魂を救えるよう努力いたします」
「うむ。それがよかろう」
俺は彼女の頭に手を置いた。
翌朝、俺は彼女を連れて宿場町へともどった。
最初に来たときのように家々は鎖され、人の影はない。
俺は複数人で托鉢行をするときのように「ホーホー」と声をあげた。
するとそれを合図に建物から人があふれだした。
「お坊様のお帰りだ」
「ご無事でしたか」
集まってくる者たちの中に森番の姿があった。
「悪魔はどうなった?」
「退治した。もう二度と現れまい」
俺がいうと、町の者たちの間から歓声があがった。
「さすがお坊様だ」
「これで街道に人がもどってくるぞ」
喜びあう善男善女を見ていると、俺も何だかうれしくなる。
「お坊様――」
森番が俺の傍らに立つコルネラを指した。「この女の子は何だい」
「これは医者だ」
「医者?」
「森で採れた薬草から作った薬を持ってきた。これでおぬしらの怪我を治そうというのだ」
小さな籠を手にしたコルネラがおずおずと進みでる。
「わ、私はお坊様のおかげで聖なる教えを知り、生まれかわってから、一度も人を傷つけたことがありません。その事実によってあなたの傷を癒します」
「何だか難しい話みたいだが――」
森番が片肌脱ぐ。「ひとつ診てもらおうか」
肩口の傷はまだ塞がっておらず、血がにじんでいた。それを見たコルネラが息を呑む。
「悪魔の野郎に矢で射られたものだ」
「は、はい。では薬を塗ります」
コルネラは籠の中から大きな葉にくるまれた軟膏を取りだした。黒くねばねばするそれを森番の傷口に擦りこむ。
森番はそれをじっと見つめていたが、やがて肩を大きくまわした。
「おおっ、痛みが引いてきたぞ」
まわりの者たちが「ほう」と感心したように声をあげる。
俺は手を挙げ、彼らに指示を出した。
「怪我をしたものはこちらに並ぶがいい。塗り薬と精のつく干しキノコをやるぞ」
それに呼応した男衆がコルネラの前に列を作る。女子供や老人たちがそのまわりでコルネラによる治療を物珍しげに見る。
「お坊様――」
ふいに背中を叩かれた。ふりかえって見ると、昨日「弁当を盗られた」と泣き言ぬかしていた男だ。
「どうしたんじゃい」
「オイラにもその精のつくキノコってやつをいただけませんかね」
「阿呆ぬかせ。おぬしはどこも怪我しとらんだろうが」
男は「へへっ」と笑って頭を掻いた。どうにも調子のいい野郎だ。
コルネラは治療した相手に感謝のことばをかけられ、照れ笑いを浮かべている。殺すだの何だのといっているよりも、こっちの方が彼女には似合って見えた。
そんな心温まる光景を眺めていると、となりにいた弁当男に袖を引かれた。
「お坊様――」
「今度は何じゃい」
「あの子、どこから連れてきたんですか」
「ちょいとな。縁があって出会ったのだ」
「どうも見おぼえがあるんですよ、あの毛皮」
弁当男がコルネラの外套を指差す。「オイラの弁当を盗っていった獣にそっくりだ」
「ハハッ、何を莫迦な……」
そういいながら俺は心の臓は漠々いっていた。
弁当男がコルネラの背後に駆けよる。
「こんな色の毛皮は他に見たことがない。まちがいないぞ! オイラたちを襲ったのはこいつだ! この娘は悪魔の化身だ!」
周囲にざわめきがひろがる。
コルネラが不安げな顔でこちらに視線をよこす。
「お坊様、こいつはいったいどういうことなんだ」
森番が詰めよってくる。
「さあのう。お調子者が見まちがえたんだろう」
そういいつつ俺はコルネラに目で合図を送った――ウ・ソ・モ・ホ・ウ・ベ・ン。
彼女は思いつめたような表情を浮かべ、うなずいた。
「あの罠を仕掛け、みなさんに怪我をさせたのは私です」
町が静まりかえる。
俺は天を仰いだ。こんなことなら前もって目で合図するやり方を打ちあわせておくんだった……。
さっきまで薬を塗ってもらっていた者たちがコルネラを取りかこみ、その体を小突く。
「こいつ、何を企んでやがる」
「ノコノコと現れやがって。この傷のお返しをしてやるぜ」
「やっちまえ」
コルネラはされるがままだ。町の者たちが遠巻きに見ている。誰も止めようとはしない。
俺には改心して町の者に施しをしようとするコルネラの気持ちも、その改心を受けいれられぬ町の者たちの気持ちもよくわかった。
はたしてどちらが正しいのか。俺はどちらにつくべきなのか。
そのとき頭をよぎったのは「自心是仏」ということばだ。つまり自分の心にこそ仏性はあるのだ。
俺はみずからの心に問いかけた――いま俺が為すべきこととは何か。
次の瞬間、
「大喝!」
俺の口から気合が放たれていた。
コルネラを打擲していた男衆が吹きとぶ。その身をかばって小さくなっていた彼女が顔をあげる。
「お坊様……」
「コルネラ、こっちに来い!」
「は、はいっ」
彼女は小走りにやってくる。
「何してる。やっちまえやっちまえ」
となりでくだらん野次を飛ばしている弁当男を殴りたおし、俺はコルネラを迎えた。
「おぬしはよくやった。あとは俺にまかせろ」
すがりつくコルネラの頭を撫でてやる。
「この坊主、悪魔の手先だぞ」
「まとめてたたんじまえ」
町の者たちが俺を取りかこみ、罵声を浴びせてくる。森番は武器を求めて囲みの方へと走っていった。
「お坊様、ごめんなさい」
コルネラが俺を見あげる。「私のせいでこんなことになってしまって」
「なあに、老師の問いにいい答えを出せなければすぐに拳や蹴りが飛んでくる禅問答の現場とくらべれば、こんなもの屁でもないわい」
俺の大先輩である臨済禅師も若い頃、師匠のところに仏法の大意をききに行ってぶん殴られ、別の和尚のところで泣き言をいっている内に大悟し、「おう、何を悟ったんだ」と詰めてきたその和尚をぶん殴り、師匠のもとへ行くと師匠が「その和尚ぶん殴ってやりてえな」というので「おう、やってやるよ」となぜか師匠をぶん殴ったという、およそ人としてギリギリな逸話を残している。釈尊の時代とくらべて沙門も過激になってきているのだ。
俺はぐるりを見まわし、北の方角を指した。
「あちらへ行くぞ」
「はい」
コルネラとともに駆けだす。
「あの一角は女子供だらけだ! そこを狙え!」
「はい!」
俺の気合で囲みを破り、コルネラが吠えて人々を遠ざける。さらに立ちふさがるものは掻きわけ、俺たちは包囲陣を突破した。
「おおっ、女子供を狙うとは」
「悪魔の発想だ」
非難とも感嘆ともつかぬ声を背後に聞きつつ、俺たちは走った。
街路は細く入りくんでいる。じめじめした路面に足を取られる。
「正面から来ます」
コルネラが叫ぶ。
見ると、森番率いる男衆が武器を手に向かってきていた。
「どうします? 逃げますか?」
「ぬうっ、むしろ攻めかかれいッ!」
俺はまっすぐ彼らに突っこんでいった。
森番が棒を振りかざす。
俺はとなりを行くコルネラに目をやった。
「奴らは怪我人だ! 弱点を狙え!」
「はい!」
コルネラが飛びかかり、森番の肩口を殴りつける。
「ぐわあっ」
棒を取りおとす森番に、
「おらァ――――ッ!」
俺は強烈なぶちかましを食らわせた。いっしょに後続の連中も薙ぎたおす。
「うわあっ」
「こいつら何て強さだ」
「奴らこそ真の悪魔だ……」
うめく者どもを跳びこし、俺たちはさらに走った。
道はますます曲がりくねる。地の利は町を知りつくした敵方にあるので、何度もまわりこまれそうになった。それを避けて進路をかえるたび、細い路地へと追いこまれていく。
「ああっ」
コルネラが悲痛な声をあげ、立ちどまった。
俺たちは袋小路に入りこんでしまっていた。三方を囲む建物には小さな窓しかなく、しかもそれは閉めきられている。
俺は来た道をふりかえった。追手のひたひたと迫ってくる気配がある。
「お坊様、どうしましょう」
コルネラが俺の袖にすがりつく。
「うむ、ちょっと待っておれ……」
俺は、これまでの人生で糸を出す類の生き物を助けたことがなかったか、と記憶をたどりつつ、天を仰いでいた。すると、右手にある建物の小窓が開き、そこから白い手がぬっと突きだした。
「こっちよ」
女の声がする。手が俺たちを差し招く。
俺とコルネラは顔を見合わせた。
「どうする?」
「行きましょう」
俺たちは壁をよじのぼり、その小さな窓に体をねじこんだ。
もつれあうようにして暗い室内に転がりこんだ俺たちの前に、ふたつの人影が現れた。
「お坊様、だいじょうぶ?」
「町の者たちみんなを敵にまわすなんて、無茶するわね」
見ると、おとといの夜、干し草の上で狐狸狐狸した美女2人組であった。
「おお、おぬしたちか」
彼女たちの案内で、俺たちはその家の玄関口から外に出た。正面に建物と建物の間を縫うようなごく細い道がある。
「ここを抜けていくと森に出るわ」
「恩に着る」
俺とコルネラは蟹のように横歩きせねばとおれぬ隘路に体を滑りこませた。
やがて、町のはずれから森に入ることができた。昨日までは不気味な場所だったが、いまは何だか安心する。
俺はふりかえり、町の方を見た。
「やはり持つべきものは性友じゃわい」
「施し、できませんでしたね」
コルネラが肩を落として歩く。
「なあに、他所でやればよい。それがいつかまわりまわって、あの町の者にも届くだろう」
静かな森を行く。ふたりの足音だけが聞こえる。
「お坊様はこれからどこへ行くんですか?」
「西方にある何とかいう町だ。そこで聖典を手に入れねばならん」
ふりかえり、コルネラを見る。「おぬしは?」
彼女はうつむき加減に歩いていたが、やがて足を止め、平伏した。
「お願いがあります」
「何じゃい、藪から菩薩に」
「わたしをお坊様の弟子にしてください」
「何?」
「お母さんの魂のために生涯祈りを捧げていきたいのです」
「うーむ……」
俺は懐手した。
「俺はまだ半人前だ。弟子など取れる分際ではない」
「ですが私を救ってくださいました。あなたは立派な方です」
「だがのう……」
出家の意志が固いことはことばの調子からも感じとれた。そうなると俺のような半人前が門前払いするわけにもいかない。それに、いま俺の手を離れると、ふたたび悪魔へともどってしまう恐れがある。
「コルネラよ、聴きなさい」
俺はひざまずき、彼女の肩に手を置いた。「仏の教えは釈尊からはじまり、まるで血脈のように師から弟子へと受けつがれて今日まで続いている。これを法脈という。いま俺はおぬしの師たることはできぬが、我が師の門を敲く媒をしてやることはできる。それまでは俺の預かりということにしておこう」
「ありがとうございます!」
コルネラが地に額をすりつける。
「法脈において師は父、弟子は子供だ。俺とおぬしは同じ父を持つことになるのだから、兄妹も同じ。これからは俺のことを師伯と呼ぶがいいぞ」
「はい、兄上」
「出家したおぬしには法号をつけてやらねばならぬな。そうよのう……熊羅というのはどうだ。むかしの高僧の名前から取ったものだ」
「ありがとうございます。光栄です」
こうして俺はコルネラ改め熊羅という妹弟子とともに旅を続けることとなった。
これまでは割と神妙にしていた熊羅だったが、妹弟子となったあとではやたらと馴れ馴れしくなり、歩きながら俺のまわりをまわったり、顔をのぞきこんできたりする。
「兄上――」
「何だね」
「私のような人獣でも仏になれますか?」
「なれる」
「ではなぜ獣の姿になったりするのですか。まるで悪魔ではないですか」
「あえてのことなのだ」
俺が答えると熊羅はしばらく黙ってついてきていたが、やがてまた俺を追いこし、顔をのぞきこんでくる。
「本当に人獣も仏になれますか?」
「なれない」
「えっ……でもさっきなれるって……」
「代々受けつがれた業があるからだ」
俺の答えに考えこんでいた熊羅だったが、やがて「わかりました」と明るい声を出した。
俺があえて「なれる」といったり「なれない」といったりしたのは、そこが重要なのではないからだ。禅では「人間」や「人獣」という枠組を取りはらうよう教えられる。大悟に至りうるかどうかは、おのれ一個の問題だ。たとえすべての人獣が仏になれるとしても、熊羅自身がなれないのであれば彼女にとって何の意味もない。逆に、すべての人獣が仏になれぬとしても、だからといって熊羅が「自分もなれぬのだ」と決めつけることはない。
禅というものは自由で、そこにはあらゆる可能性がある。
そうした思いをこめての問答だったが、彼女には伝わっているだろうか。
それはともかく、喝が効かなかったことといい、畏れず質問してくることといい、彼女にはどこか禅味を感じさせるところがある。
案外、拾いものかもしれない。
「兄上、なんで私の方を見てニヤニヤしてるんですか」
熊羅が俺を見返りながら歩く。
「ニヤニヤなどしておらんわい」
俺は同行の者を得てわずかに足取りが軽くなっているのを感じつつ、木隠れの道を踏んでいった。