第1話 下
ヨリスの祖父が危篤状態に陥ったのはそれから数日後のことだった。
「お坊様、イルゴールの奴、どうやらいけねえらしい」
水車小屋の隅で寝ていた俺は番人のジジイに揺りおこされた。
「何だと?」
「あそこんちのガキが来てまさァ」
ヨリスが唐土の灯籠のようなものを提げて水車小屋の入口に立っている。
「お坊様、爺ちゃんが――」
「うむ、行こう」
俺はこういうときにかっこつけるためのものが網代笠しかないのでそれをかぶり、暗い中へ飛びだした。
ヨリスの家にはたくさんの人が集まっていた。蠟燭を多く灯しているため、室内は昼間よりも明るい。脂の臭いが漂い、天井付近には煙が立ちこめている。
俺は笠を取り、ヨリスに預けた。
室の隅に横たわる老爺の影を蠟燭の火がゆらゆら揺らしていた。それは不思議に秘儀めいて見えた。
「お坊様……」
老爺が震える手を差しだしてくる。俺はその手を取った。
「俺はここにいるぞ」
「お坊様がこの間いっていたこと、ようやくわかりやした」
「本当か?」
俺がきくと、老爺はすっかり歯の抜けた口を開き、笑う。
「東に向かって伸びた木、あれは太陽に向かって育ったせいでがす。儂でいうと、儂を育てたのはまず親だ。親父は厳しかったが、腕のいい大工でやした。おふくろは、儂の生みの親は死んじまったので継母だったが、とても優しい人でやした。兄弟は、喧嘩することもありやしたが、ふだんは仲がよく、いつも助けあっていやした。神様も儂を育ててくれやした。儂は1日に何度も神様に祈り、そんな儂に神様はよくしてくださいやした。こうやって伸びた木が儂でがす」
「ふむ」
「儂はよい家族に育ったので、自分が一人前になったら、今度は自分でよい家庭を築くのだと決めてやした。もう死んじまいやしたが、うちの婆さんは気立てがよく、働き者でした。息子の嫁もそれに劣らぬ働き者でがす。息子は腕のいい大工になりやした。かわいい孫たちも生まれやした。儂の家族はみな神の僕でがす。いまも儂のために祈ってくれていやす。これが儂という木の倒れる場所でがす。儂を育ててくれたものと同じところに儂は倒れていくんでがす。儂は善く生きた。だから善く死ぬにちがいありやせん。神様だってこんな儂の魂を悪くはなさらねえでしょう」
老爺はにっと笑う。つられて俺も笑った。
「大工イルゴール、あなたは俺よりもはるかに高いところまで達せられた」
「お坊様のおかげで」
「いや、すべてあなたの力だ。『見性成仏』ということばがある。悟りとはおのれの中にあるものを自覚することだ。つまりあなたがその高みに達せられたのは、その高みがすでにしてあなたの中にあったということなのだ」
俺は老爺に向かい、師に対してするように深く頭をさげた。
家族が一人一人、老爺と最期の別れをする。
俺はすこし離れたところに立ち、それを眺めていた。
父のことを思う。こんなふうに父は、よい最期を迎えられただろうか。もし俺がその場にいたら、父のために何かできただろうか。
やがて老爺の寝床近くですすり泣きが起こり、室の中全体にひろがっていった。俺はそのときが来たことを知った。
女たちが互いに抱きあい、慰めあう。男たちが労わるように老爺の肩や手を叩く。
ヨリスが父に伴われて俺の前にやってきた。
「お坊様、ありがとうございました」
そういって涙に濡れた頬を拭う。
「礼には及ばん」
俺は彼の肩に手を置いた。
「お坊様――」
ヨリスの父が進みでる。「これから父のために通夜の祈りと葬儀を行います。よろしければ我々とともに祈り、父に聞かせてくださったようなありがたいお話を我々にもしていただけないでしょうか」
「うむ、引きうけよう」
俺は、老爺が育て、やがて彼の誇りとなった親子に向かって大きくうなずいた。
翌日、葬儀を終えると、老爺の亡骸を納めた棺が家から運びだされた。寺の裏にある墓地に埋葬するという。
俺は棺を担ぐ者たちに続いて鈴を鳴らしながら歩いた。そのうしろには遺族、そして町の住人たちが列をなす。
広場をすぎて墓地に沿う道に来たところで、1台の馬車が門の方からやってくるのが見えた。
葬列が歩みを止め、不穏なざわめきがひろがる。
「これはいったい何の騒ぎじゃな」
馬車からぞろっとした服装の男がおりてきた。
俺はその男が気に食わなかった。働くのに不便そうなその服といい、頭に必足くっつく薄手の帽子といい、妙にとおりのいい声といい、雰囲気で出家だとわかる。だがその肥えて垂れさがった頬といい、邪羅邪羅した首飾りといい、妙に気取った物言いといい、あまりに俗っぽい。
何より気に食わんのが、侍者としてとびきりの美童を連れていることだった。
「あいつ、何者じゃい」
俺がたずねると、ヨリスは声をひそめた。
「この町の司祭様ですよ」
「ふうむ」
つまりあれが寺にいるはずの住職らしい。
葬列の中から肥った男が出てきて、司祭とやらのもとに駆けよった。
「これはこれは司祭様」
「町長か。こんなところで何をしているのかな。私の見たところ、葬式のようだが」
司祭は道の上の行列を見渡す。その目には人々を見くだす色が浮かんでいる。
町長と呼ばれた男は哀れなほどに腰も辞も低くしていた。
「大工のイルゴールが亡くなりました」
「それで私がいないのにもかかわらず葬式を執りおこなったというわけか」
「こればかりは日を延べるわけにも参りませんので」
「司祭抜きの葬式をかね」
「それは司祭様が町を離れていらっしゃったからで……」
「私には広い教区を巡察する義務があるのだ」
「よく存じております」
「司祭抜きで葬儀を行ったとなると、その者を犠教徒の墓地に埋葬することはできぬな」
「えっ、何ですって」
「司祭の祝福を受けずに死んだ者は真の犠者と呼べぬからだ。他の善き犠者たちと並んで眠る資格はない」
「そんな……」
町長がおろおろとこちらをふりかえる。
ヨリスが不安げな面持ちで俺を見あげた。
「お坊様、爺ちゃんはお墓に入れないんですか」
「なあに、案ずることはない」
そう答えておいたが、確信はなかった。我々はあの司祭の面子をつぶしてしまった。俗物ほど面子を気にするものだ。そして、この世でもっとも俗なのは袈裟を着た俗物である。
司祭がぺこぺこしている町長を見おろす。
「いったい誰がこの葬式を取りしきったのかね」
「それはあちらのお坊様が――」
町長は俺を指差した。
「あれが……?」
司祭が俺をにらみつける。「あの異装……何者だ。単なる異端とも見えぬ。まさか邪教の徒では……」
何だかよくわからんが、悪くいわれているのは伝わってくる。
こうした異教徒とやりあったためしはあまりない。留学時代、近所に住んでいた回々(イスラム教徒)のうつくしい娘とちょっといい感じになっていたところをその父親に見つかって、最終的に路地裏で殴りあうこととなったのだが、それが最後だ。
そうした荒事はできるだけ避けたいが、攻撃されたままで黙っているという法もないだろう。「寝ぼけたことをぬかすなら師匠でもぶん殴れ」というのが禅の教えだ。
俺は棺を追いこし、司祭の前に立った。
「平梵扶通。禅僧だ」
名乗りをあげるが、司祭は見て見ぬふりをして町長と話しつづける。
「このような者に葬式をまかせたとあっては、この町が異端の巣であると非難されても仕方なかろうな」
「司祭様、それは……」
「私は中央に報告する。そうなれば公式にそなたたちは異端者と認定され、厳しい罰がくだされるであろう」
「そ、それだけはどうかお赦しを……」
「町の者の差しだす貢租と労働奉仕を増やすというなら手心を加えてやらんでもないぞ」
「すでに私どもはできる限りのことをしております。その上さらに負担を増やすというのは……」
「ならば異端と見なされてもやむをえんな」
「しかし……」
ふたりの会話を聞いている俺の中でふつふつと禅が燃えあがりつつあった。
この司祭は仏の道を説かずに金や利のことばかりを口にしている。僧の風上にも置けぬ奴だ。
俺は司祭と町長の間に割って入った。
「おぬし、なまぐさい話ばかりしとるのう。なまぐさ坊主をとおりこして悪臭を放っとるわい」
「邪教徒は黙っていろ」
司祭が俺の胸を突きおす。俺は1、2歩よろめき、踏みとどまる。
「おぬしが寺を留守にしとるから俺が葬式をやったんだろうが。感謝されこそすれ、悪口を叩かれる筋合いはないわい」
「何をぬかすか」
司祭が鬼の形相で迫ってくる。
こうなったら退くに退けんぜ、この法戦場。
俺は内なる禅を急激に燃焼させ、爆発させた。
「喝!」
気合を放つと、目の前にいた司祭は吹きとび、馬車につながれた2頭の馬は立ちあがっていななき、馭者は転げおち、侍者の美童はジョンジョワ~と失禁した。
「お坊様……これはいったい……」
町長が眼前の光景を茫然と眺めている。
「禅門の徒の喝は、問答という戦場において発せられる、いわば兵器よ。修行を積んでいない者が浴びた場合、その肉体が破壊されることもあるという」
「おお、恐ろしい……」
俺もはじめて老師の喝を食らったときは、衝撃で屁が3日間止まらなかったものだ。
「さてと――」
俺は衣を濡らして立っている美童の手を引いた。「汚れたところを俺が拭いてやろう。さあ、そこの暗がりへ――」
「待てーい!」
司祭が地面に手をつき、起きあがる。
「ほう……俺の喝を食らって立ちあがってこられるとはな」
俺はこのあと逆転負けを食らいそうなことばを吐いた。
「邪教徒の怪しげな術に負けるわけにはいかん。私は神の僕なのだ」
墓から黄泉返った屍みたいな司祭を見て、俺は鼻で笑った。
「おぬしに道を説く資格はない」
「そういうそなたはどうなのだ。無知な不信心者どもを丸めこんでいい気になっておる」
「それよ、おぬしの悪いところは」
俺は司祭の丸い鼻を指差した。「おぬしが見くだす者たちの中にこそ本当の信心があるものよ。それを理解すれば、世の善男善女におのずから敬意が持てるというものだ」
「聖典も読めぬ者どもに信心などあるものか」
司祭が侍者に命じて馬車から分厚い本を持ってこさせた。表装が革でできていて、閉じておくための留め具がついている。あんな立派な本は唐土でも見たことがない。
「ここにいる者どもは誰一人としてこの聖典を読めぬ。そんな連中に神のご意志など理解できるはずもないし、本当の信心などとうてい望みえぬわ」
俺は町長の方をふりむいた。
「本当に読めないのか」
「古代のことばで書かれていますから」
町長は悲しげに頭を振る。
「うーむ、それは難儀だのう」
仏典や経典は漢文で書かれているので、鄙びた山村であっても1人くらいは読める者がいる。
もともとは梵語(サンスクリット語。古代インドで使われた)で書かれていたものを玄奘三蔵(『西遊記』でおなじみの訳経僧)や鳩摩羅什(玄奘と並び称される訳経僧。初代三蔵法師)といった俺の大先輩たちが漢訳したのだ。だがこの国の司祭は、やたら立派な本を作るくせに、それを人々にも読めるよう翻訳する労は惜しむらしい。これは怠惰というものだろう。大先輩方の努力がしみじみとありがたく感ぜられ、俺は思わず手を合わせた。
「よし、ならばその本を使って町の者たちの信心を証明してやろうわい」
「何……?」
司祭がいぶかしげな顔をする。
禅僧は素直でないから、「ない」といわれれば「ある」といいたくなる。その聖典とやらが不信心の証拠だというなら、逆にそれを使って信心があることを明らかにしてやろうと思ってしまう。
「しかしどうやって信心を証明しようというのだ」
「それはだな――」
俺は司祭の手から本を掠めとった。「こうじゃ――――い!」
本をひろげて持ち、破離破離と引きさく。
「何をする!」
つかみかかってくる司祭を俺は、
「大喝!」
気合で吹きとばし、さらに本を裂く。
「『お釈迦様の体とは?』と問われて『カリカリに乾いた糞』と答えるのが禅の真骨頂よ。たかが本など恐るるに足らんわい」
破羅破羅になった本を懐にねじこみ、葬列の中へともどる。
「邪魔者は消えた。さあ、葬式の続きだ」
棺のうしろにつくと、ヨリスが顔をのぞきこんできた。
「お坊様、僕たちの信心を証明するなんてことが本当にできるんですか」
「できるさ。ちょいとおぬしの親父さんの手を借りることになろうがな」
俺が鈴をひとつ鳴らすと、列はふたたび動きだした。
3日後、町の広場は聖典を読もうと集まった人々であふれていた。
教会の前に立つ司祭があぜんとしている。
「まさか、こんなことが……」
「だからいったろうが。みな信心を秘めておるのだ。言挙げせぬだけでな」
広場の中央に巨大な円柱が立っている。中央に軸がとおっていて、人々が力を加えると回転する。広場に集まった人々は円柱に手をかけ、まわす。そのたびに額・右肩・左肩と指を当てる。
円柱の前から発した人の列は幾重にも折れまがり、広場には収まりきらず門の外まで達していた。
「お坊様――」
柱の方からヨリスが駆けてくる。「僕もう100回も読みましたよ」
「それだけ徳を積めば極楽行きはまちがいなしだろう」
俺は彼の頭を撫でた。
あの柱の中には、破った聖典を貼りあわせて巻子状にしたものを入れてある。これを一回転させれば聖典を一度通読したことになると喧伝したところ、この町の住人どころか近隣の町からも人が押しよせてきたのだった。
「西方を旅したときに見た摩尼車を真似してみたが、まさかこんなに有卦るとはな」
俺は司祭を引きつれて群衆の中に入っていった。
「お坊様」
エルファが手を振ってくる。
「おお、商売の方はどうだね」
「大繁盛よ。お坊様のおかげ」
聖典車をまわしに来た者を目当てに、市が立っていた。エルファも森で採ってきたキノコを売っている。俺の発案で「聖典キノコ」と名づけて売りだしたら、土産物としてたいへんな人気になった。
「みな楽しそうにしている」
聖典車の列に並ぶ者や市の露店をひやかして歩く者を眺めながら司祭がいう。
「うむ。実に楽しそうだ」
俺はうなずいた。
我々雲水にとって信心とはつねに厳しい修行を伴うものだが、在家信者にとっては楽しいものであっていい。実のところ、俺だって修行の中に楽しみを見出しているのだから。
聖典車をまわしてきた者たちが司祭をみとめて指で三角を切る。
「司祭様、あのようなものをつくってくださってありがとうございました」
「おかげで字の読めない私たちもありがたい聖典を読むことができました」
司祭も三角を切って応える。
「そなたたちに神の祝福あれ」
本当は俺の手柄なのだが、謙虚を旨とする禅僧として黙っておく。
「私はいままでまったくの別物と考えていた――私と彼らとを」
司祭が広場を見渡しながらいう。「神に仕える聖職者は世俗の民よりも立場が上なのだと思っていた。だがここにいる者たちはみな神を信じ敬っている。むしろ聖職者よりも熱心に神の救いを希求している。彼らに対し、聖職者は何ができるだろうか」
「それよ。俺も自分なりの悟りに自力でたどりつかねばならぬが、そのとき衆生(すべての生き物)はどうすれば救われるのかという難問にぶちあたる。自分一個が悟り得ればそれでよいのか。厳しい修行の果てにあるものが自分一個の悟りにすぎぬというのなら、そんなものに何の意味があるのか」
「いつまでも古代の雅語で聖典を書く中央教会のやり方はもう古いのかもしれぬ。人々を救うには人々に伝わることばで神のことばを説かねば」
「禅門も大事なものはことばでは伝わらないとかいっとるからなあ。修行者でもよくわからんのに、そうでない者にはなおさらわかりづらい。いったいどうすりゃいいのやら」
司祭の奴をへこませて羯糞といわせてやりたかったのに、気づけばお互い暗い顔で湿っぽい話を交わす事態になってしまっていた。
まかせられた教区が広すぎて困っているという同業者の愚痴を聞かされているところにヨリスの父がやってきた。
「お坊様、聖典車を作る任をお与えくださり、ありがとうございました。おかげで神の僕として善行を積むことができました」
あの車はヨリスの父が大工の技術を活かして作ったものだった。
「父御も草葉の陰で喜んでいることだろう」
俺がいうと彼は三角を切り、父のために祈る。
「他の町の者から同じような車を作ってほしいと依頼されています。返事はお坊様のお許しをいただいてからと思いまして」
「俺の許しなどいらんだろ」
「では引きうけることにします」
彼が頭をさげる。「中に入れる聖典をまたいただけますか」
「それは俺でなく――」
司祭の方に目をやると、小さく頭を振っている。
「もうないぞ」
「えっ、ないの?」
「聖典は貴重品なのだ。そなたが破った本は教区で唯一のものだった」
「それは困ったのう……」
俺は自分のしたことを棚にあげつつつぶやいた。「どこに行けば手に入るだろうか」
「州都ヴェストゴールならばあるいは」
「遠いのか?」
「徒歩なら1月半ほどだ」
「ふうむ」
俺は腕を組み、天を仰いだ。
雲がすごい勢いで流れていく。地上では感じられないが、空の上では風が強いのだろう。
その風が俺の心を誘う。
「行くかあ、州都とやらに」
俺は声をあげた。「聖典をもらうなり書写するなり分捕るなりしてくりゃいいんだろ」
わけのわからん国に来ても、修行のためにすることは同じ――行脚だ。
俺の大先輩たちはわけのわからん国に経典をさがしに行った。俺もまあ、わけのわからん国に来てしまった経緯はさておき、同じことをしようとしているわけで、考えてみれば悪くない。
「長い旅になるぞ」
司祭がいうのを俺は笑いとばした。
「まあそれも禅味よ」
風がようやく広場を吹きぬけていく。
旅立ちの日にも聖典車に人が集まっていて、俺を広場の一隅で見送ろうという者は少数だった。
水車小屋の番人が俺の手を取る。
「また来てくだせえ。お坊様ならいい小屋番になれますぜ」
「破門されたら世話になろうか」
俺はジジイの肩を叩いた。
ヨリスが青い瞳で俺を見あげる。
「僕、修道僧になろうと思うんです」
「何? やめとけやめとけ。ろくなもんじゃないぞ」
「でもお坊様のお話を聴いて僕も勉強したいと思ったんです」
「そうなの? うーん……親父さんは賛成しとるのか?」
「私は息子の決断を誇りに思います」
ヨリスの父が力強く言う。「神に仕える一生は決して楽なものではないでしょう。しかし、悦びもまた多いはずです」
「でも行きつく先はこいつだぞ?」
俺が指差すと、司祭が嫌な顔をした。
「人を悪い見本みたいに言うんじゃない」
「だってどう見ても破戒僧だろうが」
「そなたに言われたくはないわ。州都で恥ずかしい真似をするなよ」
「わかっとるわい」
「着いたらまず大教会に行け。そこならば聖典を都合してくれるはずだ」
「そこの連中がなまぐさでないことを祈るよ」
俺は笠をかぶり、彼らと別れた。
この町にいたのはわずかな日数だけだったが、その間に俺の禅はより大きくなったように感じられる。この道の先に何が待ちうけているのかはわからないが、きっとまた俺の禅を育ててくれることだろう。
門を出たところで背後から呼びとめられた。
「行ってしまうのね」
エルファがそのうつくしい髪を風になびかせて立っている。
「必ずもどってくる」
俺がいうと、彼女は俺の胸にすがりついてきた。
「やっぱり悪い人ね。守れない約束をするなんて」
「守るさ、必ず」
立派な禅僧になった姿を見せるという父との約束は守れなかった。エルファとの約束は守りたい。そして、老師や法兄たちと交わした約束――日本で禅を流行らせる――これもいつか必ず。
俺は彼女の肩に手を置き、その身をそっと離した。
「次に会うまでに聖典キノコで蔵が立っているといいな」
「そしたらあなたよりいい男を捕まえるわ」
彼女は笑うが、その頬には涙が光っている。
「俺よりいい男などそうそういるまい」
「どうかしら」
俺は彼女の涙を指で拭ってやった。
「それでは行く。達者でな」
彼女に背を向け、歩きだす。
胸に腕に、彼女のぬくもりが残っている。襟元が彼女の涙で濡れている。
その優しさの中に留まっていたくなる。行く手に何が待ちうけているのかわからない道に足がすくむ。
「でもまあ、禅味禅味。西方浄土に向かっていくってのも縁起がいいぜ」
俺は腕をひろげ、袖に風をはらませながら歩を速めていった。