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永遠の旅人

不変の天

作者: 宗像竜子

 果たしていつの時代か、いつの王の御世か。

 クアストゥール──『寄せ集め』と呼ばれる大陸群に、一人の冒険者がいた。

 彼の名は歴史の何処にも残されていない。しかし、遥か後世にまで、その足跡を語り継がれる事になる人物である。

 その詳細な出自こそ謎に包まれているが、彼はいくつもの大地が連なるクアストゥールの全てを踏破し、そしてそこで様々な物語を残した。


 これは、その無数とも言える物語の一つである──。


+ + +


 それはひどく静かな、晴れた日の昼下がりだった。


「ねえ、死んだら人は何処へ行くのかしら」


 突然彼の元へやってきた少女は、口を開いたかと思うとぽつりとそう尋ねた。

 年の頃は十代前半。まだまだ幼さを残す顔立ちに表情はなく、その背に流れる灰色の髪と相まってその容姿は殊更人形じみたものに感じられた。

「ねえ……、あなたは知ってる?」

 男は困惑した。質問にではない。その質問に隠された、意図に対して。

 言葉通りの質問ならば答える事は簡単だ。だがそれを質問してきた意図を考えると、その答え方を考えねばならない。

 死んだ人間が、その後どうなるのか。

 いくつもの大陸群を有するクアストゥール。その全ての大陸を知る訳ではないが、今まで渡り歩いてきた道のりで知ったのは、死のみならずあらゆる概念が大陸ごとに大きく異なるという事だった。

 たとえば今、彼がいるこの大陸──クアストゥールの南西に位置する──で信じられているのは、三界思想だ。

 すなわち、天界・間界げんかい・地界の三界であり、天界は神とその使徒、そして神によってその眷属に加わる事を許された神霊が存在する世界、間界はこの地上を示し、地界は死者と罪人が下る場所とされている。

 故にこの地では土葬が一般的で、それは人の魂が迷わず地へ下り、間界を彷徨さまよい出ないようにする意味合いがある。つまり少女が言葉通りの事を尋ねているのなら、こう答えれば良いのだ。


 ──人は死んだら死の神に導かれ地界へ入り、その眷属である裁きの神霊により魂に記された善悪を計られ、善人ならば《眠りの庭》へ、罪人ならば《煉獄の穴》へ送られる


……と。

 しかし、おそらく少女はそんな当たり前の答えなど欲してはいないのだ。

「側に、いて下さるのよね?」

 男が返す言葉に迷っていると、先に少女が同意を求めるように言葉を紡いだ。

「母さまは約束して下さったわ。わたしを見守っていて下さると。見えずとも側にいて、わたしを決して一人にはしない……死の神ネイストラにお願いして、わたしが大人になるまで間界に留まれるようして頂く、って……!!」

 矢継ぎ早の言葉を紡ぎながら、少女は着ている白い服をぎゅっと握り締める。白い──真っ白いそれは喪服。これから地界へ旅立つ者を見送る為の、その為だけの礼服だ。

 少女は昨夜、たった一人の肉親である母親を喪ったばかりだった。

 少女の黒めがちの大きな瞳が、じっと男の顔を見つめる。覗きこむと吸い込まれそうな闇色の鏡に、神妙な顔の男が小さく映っている。否定する事は許さない、そうその瞳は語っていた。

 それを真っ直ぐに見返しながら、男はゆっくりと口を開く。

「──ここより北東にある大陸には、こう伝わっている」

 期待のこもった眼差しを受け、男は一気に言い放った。

「そこでは、いつまでも故人を忘れずにい続けると、その死者の魂がその思いに縛り付けられ、天上の門──そこでは死者の国が地の底ではなく、空の上にあるんだが──を潜れなくなり、地上を彷徨った挙句、最後には悪霊となり果ててしまうと言われている」

「……っ」

「死者を、その思いで縛り付けては駄目だ。安らかな眠りに就けてやる事こそ、彼等の幸福となるのだから。……そして、その影に縋りつく限り──残された者にも新たな平安はやって来ない」

 淡々とした男の言葉で少女の瞳に黒い炎が宿った。

 その怒りという名の炎はすぐさま彼女の全身に広がり包み込み──そして次の瞬間、鎮火した。その目から零れ落ちた、涙という名の雨によって。

「や、約束、して下さったの……」

「……」

「でも──そうよ、本当はわかっているの。……母さまは、嘘をお吐きになった。一人残る、わたしを励ます為に──……」

 ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、それでも少女は唇をきつく噛み締める事で泣き声を殺した。

 恥も外聞もかなぐり捨てて、小さな子供のように泣き叫べたら、どんなにか彼女の心の痛みは和らいだだろう。しかし少女はそうしない。それだけはしてはならないと理解しているからだ。

 そんな弱さではこれから先に待つ決して短くはない人生を、一人で生き抜いては行けない、と……。

 彼にその弱さを見せるのは単純に彼が彼女にとって『部外者』であるからだ。

 彼はこの国の人間ではない。大陸から大陸、国から国へと渡り歩く寄る辺のない旅人である。

 彼等の関係は今から一月ほど前に遡る。道中で得た傷が元で発熱し、意識を失いかけていた所をたまたま散策に来ていた少女が見つけて保護した事が発端だった。

 かろうじて言葉は通じたものの、明らかにこの大陸の人間ではない何処の馬の骨ともつかぬ男だ。

 おそらく周辺の人間には苦言も呈されたであろうに、少女は取り合わずに医師に診せ、さらに男を手ずから看病してくれた。身分の高さにより同年代の友人のいない少女にとって、男の存在は目新しいだけでなく唯一本音の言える──言っても害とならない──存在に映ったようだ。

 そして今、少女は他にやり場のない苦しみを吐露している。男はただ黙ってそれを受け止めた。下手な慰めなど必要としていないと理解していたからだ。

 微かな嗚咽が混じる重苦しい沈黙。そこに扉を軽く叩く音が響いた。


「──殿下? こちらにいらっしゃいますか?」


 その声は彼女の側仕えの女性のもので、少女はその声を耳にした瞬間、劇的なほどに表情を切り替えた。そして背後の扉に向かって慣れた様子で受け答える。

「ここにいる──何用か」

「間もなくお時間でございます。式典が始まる前にお席にお着きください」

「わかった。……すぐに行く」

 少女の受け答えに満足したのか、女は彼等の部屋に立ち入る事なくそのまま退出して行く。遠ざかる軽い足音を聞き届け、それが消えるのを確認すると少女は再び彼に向き直った。

「行かなくては……」

 零れ落ちた言葉は、先程の威厳すらも漂っていたものではなく、また年相応の少女のものに戻っている。その何処か心細そうな口調に表情を改めると、男は頷いた。

「ああ……。そうだな、俺も傷も癒えた事だしそろそろ立ち去ろうと思う」

 その言葉に少女ははっとした顔になり──けれど、何処か諦めた顔で頷いた。

「……そう」

「世話になったな」

「いいえ……。あなたの話は本当に興味深かった。この国から出た事のないわたしだけど、自分でその場所を訪れたような気持ちが味わえたもの。……あなたが今ここにいてくれて本当に良かったと思う」

 言いながら、少女の表情は次第に別の物に変化する。幼さを残す、親を喪った悲しみに胸を痛める少女から──一国を背に負う、主のそれに。

「もし……、またこの国へ来る事があったらここに立ち寄ってくれるだろうか? わたしの、友として」

 見つめる瞳は、真摯なもの。その瞳に何処か縋るようなものを見つけ、彼は軽く目を見開く。だが、彼はすぐに表情を和らげ、力強く頷いた。

 親子程も年が離れた少女を対等の友人と認める。一国の主としてこれからこの国に属する者には決して弱音を吐く事が許されない、彼女の為に。

「もちろん。いつ、とは約束出来ないが……この国に立ち寄る時は、必ずここに顔を出す事を誓おう。我が友に会う為に」

「……良かった」

 ようやく、少女の顔に笑顔らしきものが浮かんだ。しかしそれもすぐに消え、代わって浮かんだのは、何処か苦さを漂わせる笑みだった。

「あなたは言ったな。死んだ人間をいつまでも想い続けると、その魂を縛り付け、安らかな眠りに就く事を妨げてしまうと」

「……ああ」

「わたしは、母をそんな目に遭わせたくはない。だから──今ここで、母の事は思い出にしようと思う。……わかっている、わかっているんだ。国主としての責務は、結局わたしがわたし自身の力で果たして行かなければならないという事くらい。死んでからも側にして欲しい、姿は見えなくてもそこにいるのだと信じたい──そんな気持ちは、所詮甘えに過ぎないのだと」

 まだ先程の涙の気配の残る大きな瞳を真っ直ぐに持ち上げて、少女──否、新たな国主は自身の中にあった感傷に決別を告げる。

 それは不思議と痛々しさではなく、どん底から再び立ち上がる力強さを感じさせた。

「わたしはこの身、この命である限り、この国の主。……亡き母の愛したこの国を、必ずや守ってみせよう。あなたも祈ってくれるだろうか? たとえこの地を遠く離れても、この国が平らかに永く続く事を」

 国主の言葉に、彼女の唯一の友となった男は力づけるようにきっぱりと答える。

「ああ、何処にいても。この国の永い平安と──あなたの幸いを祈ろう」

 そして男はその傷だらけの大きな手を差し出した。一瞬目を丸くした国主はその意味に気付き、躊躇なくその手を握る。

「大地は一続きではないが、空は全て繋がっている。だから毎日、空に願おう。……あなたは一人ではない。直接助けにはなれずとも、この世界の何処かに一人は絶対的な味方がいる」

 国主はその言葉に微笑んだ。

「それは心強い」

 二人は笑顔を交わし、もう一度硬く握り合ってから手を離した。国主は男に対して優雅に一礼すると、前国主を地界へ送り出す式典に向かうべく、軽やかに身を翻す。

 この部屋を出た瞬間から──彼女はもはやただの少女には戻れず、一国の国主となる。その細い背に、男は最後の餞となる言葉を贈った。

「──北東の大陸で、何故死者の国が天にあるか知っているか?」

「え?」

 思いがけない言葉に、国主は驚き思わず振り返る。その一瞬だけ元の少女の顔に戻った顔に笑いかけ、男は言う。

「それは死者が、地上に残した愛する人々の行く末をそこから見守るからだそうだ。地上の上に空がある限り──彼等はそこからずっと見守ってくれる。たとえ、その人が彼等の事を忘れても」

「……そう、か」

 国主の顔に、ようやく心の底からの晴れ晴れとした笑顔が戻った。

「それなら……いい。天からならきっと──この国の行く末も見ていられる。天は、いついかなる時も、我等を上から見下ろしているのだから」

 国主は呟くと今度こそ扉に手をかけ、ついにそれを押し開く。

 その先に続く掃き清められた長い廊下──それはまるで、これから彼女が歩む人生を象徴とするかのようだった。けれども、もう国主は迷わない。

「あなたに幸いを、陛下」

「ありがとう」

 廊下へ足を踏み出した彼女の上に、もう母の死に対する悲しみも、これからの重責に対する不安もなかった。途中、国主は窓辺で立ち止まり、そこから見える空を見上げた。

 青い空には雲一つない。

 それを確かめて、まるでそこにいる誰かに微笑みかけるように彼女は笑う。そして再び歩き出した。今度は立ち止まる事なく。


+ + +


 クアストゥールの南西の存在する大陸は、太古から大小様々な国が乱立し、盛衰を繰り返していたという。

 建国・侵略・滅亡──それ等を繰り返す国々の中、異例な事に実に千年近くにも渡って独立を守り続けた国が在った。

 もはやその国の名は時に埋もれてわからないが、当時一国の平均寿命が数代──数百年程度という事を考えれば、どれ程に稀有だったかわかるだろう。

 決して国土も広くなく、特出した武力も有さなかったその国が、それ程永く存続した理由は今となっては定かではない。

 唯一目を惹くのは、その国を治めた国主が代々女性に受け継がれたという事だろう。いくつかかろうじて残る当時の文献はかの国をこう語る。



 ──かの国は母の慈愛をもって治まるる国

 ──いかなる暴力も、健全に育まれた大地と民とを屈服する事は能わず


+ + +


 天はいついかなる時も上にあり、我等を見守っている。

 手に届く事はなくとも、見上げれば必ずそこに在る。


 ──永久に、変わる事無く。

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