霊帝崩御
中平6年(189)年、漢帝国が混乱の渦に巻き込まれる中、劉宏(霊帝)が崩御する。霊帝は後継者を劉協にと遺書を残すが、十常侍・蹇碩は遺書を捏造し劉弁を後継者にたてた。
大将軍・何進の擁立する劉協、十常侍の一人で霊帝の信頼を得た張譲が擁立する劉弁の間での対立が表面化した。蹇碩は劉弁を即位させるのに邪魔な何進を暗殺しようと画策した。しかし十常侍の趙忠を初めとする宦官達は、何進を恐れ裏切り、計画を漏らしてしまう。激怒した何進は蹇碩を含め、謀反に関与した董一族を処断した。これを批判したのは宦官達である。もはや、この対立は修繕不可能なほどの物だった。この際、何進は残りの宦官達も排除しようと考える。何進の配下・袁紹は国の武将達を、この洛陽に集結させることを進言した、盧植・曹操達は反対したが、何進は諸侯を集めた。張譲は、何進の妹で霊帝の妻であった者の名で何進を呼び寄せた。
袁紹は「行くべきではこざいませぬ!」と反対したが、妹からであると言い、丸腰で向かった。しかし、向かった先で張譲の罠にあい、その生涯を終えた...
袁紹やその従兄弟・袁術は激怒し、十常侍の屋敷に乗り込み、手当たり次第に斬った。中には髭が無いからと斬られた者もいたと言う。張譲は劉弁と劉協を連れ、逃亡した。
しかし、これがこの後新たな波乱を起こす事となる...