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三國志  作者: 宝粱長一
漢室腐敗し、反乱相次ぐ
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張純の乱平定

中平4年(187)張純ちょうじゅんが反旗を翻した張純の乱...鄒靖すうせいの軍の元、劉備りゅうびたち義勇軍は先陣を任され、敗北してしまう...劉備は命からがらの帰還を果たす。敗戦の責については、義勇軍のみの被害だったうえ、張純に倍近くの被害を与えたため、責は問われなかった。しかし、いくら先程の戦で兵が減ったとしても、まだ9万は最低でもいる。次は公孫瓚こうそんさんが出陣した。公孫瓚は「白馬陣はくばじん」と言うものを得意としており、内容は名の通り白の馬を揃えた部隊と言う兵法である。公孫瓚軍は、張純軍と対峙し、得意の白馬陣で突撃した。張純軍は白馬陣にはかなわず敗走した。世に言う「石門合戦」である。張純は白馬陣に破れたが、乱を平定するには至らなかった...その後は膠着状態が続いたが、とうとう劉虞が異民族攻略のため動き出した。しかし劉虞は非好戦的な性格のため懐柔策を用いて張純との離間を図り、直ぐに使者を遣わした。

しかし、これを良く思わない人物がいた...公孫瓚である。

公孫瓚は劉虞に功績を奪われればまずいと思い、使者の暗殺を画策し、実行した。

劉虞は暗殺の報を聞くと、使者を再度出した。

公孫瓚と劉虞の対立はここから始まった。

公孫瓚は使者を何度も出され、その度に暗殺するのは無理だと悟り、諦めた

使者が烏丸族の大人・丘力居きゅうりききょの元へ到着したが、首を縦には振らなかった

しかし劉虞は粘り歳月を掛け調略し続けた結果、元々劉虞が人徳の人であったことも功を奏し、丘力居は恭順の意を示した。張純は丘力居と言う強力な後ろ楯を無くし、逃亡。鮮卑族せんぴぞくの元へ行くが、中平6年(189)3月。食客として来ていた王政おうせいによって殺害され、張挙ちょうきょも自刃し

乱は平定されたのだった...

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