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彼女は、そして。

作者: くう

 むかし、とある村には不思議な泉があった。

 ひんやりとした洞窟の奥の奥。そこに湛えられた水は、どろりとしていて、温かい。

 そしてその泉の水は、すべてを癒す万能の薬だった。

 飲めばどんな病も癒え、浸せば失くした腕さえ生えてくる。

 村人たちは、時折その恩恵に与りながらも、泉を守って生活をしていた。


 ――数十年に一人生まれてくる、「泉の子」を生贄に捧げながら。




 * * *




 ――初めて自分の身体の異変に気付いたのは、一体いつの頃だったろう。

 ふと空に手をかざしてみると手の甲を透かした向こう側に空の青い色が見えたりだとか、川に足を浸しているとまるで足が水に溶けているように感じたりだとか。そういう感覚は結構な昔からよくあったことのような気がする。

 あの頃はただの目の錯覚だと思っていたけれど、今思えばあれは前兆だったのだ。




 高校入試の合格発表の日、ひかると稜は二人で発表を見に行こうと約束をした。

「午後一時に、いつものところで待ち合わせね。川の近くの、ブランコと滑り台がある小さな公園で」

 その日は日差しもやわらかく散歩にはぴったりの天気だったので、ひかるはわざと約束の時間より三十分も早く待ち合わせの場所に向かった。

 この辺り子供がだんだん少なくなってきたから、日曜だというのに公園には人っ子一人見えない。それともお昼時だからごはんを食べに帰っているだけなのか。

「うん、絶好の昼寝日和だね」

 ひかるは周りで一番大きな樹に背中を持たせて腰を下ろした。ねずみ色のごつごつした幹が服を挟んで背中にあたっているけれど、別に痛くはない。むしろこういう樹には動物にはない不思議なぬくもりがあるようにさえ感じられる。

 ほどいた長い黒髪が、春の風に吹かれて小さく揺れた。嗅覚に意識を集中させてみると、微かに香るのは若葉と花と、それから日向に干した布団のにおい。

 こうやって、何も考えずにぼうっと風に吹かれる時間がひかるは大好きだった。

 そうしているうちに春特有の強烈な睡魔はゆるゆると手を伸ばしてきて―― 



 ーーどれくらい時間が経ったか。

 まどろみから覚めたひかるがまず知覚したのは、まだ稜は来ていないようだなということだった。もうそろそろ来るころだろうから、起きて頭をはっきりさせておこう。

 とりあえず身を起こそうとして、ひかるはようやく自分の体の異常に気が付いた。

 ――動けない?

 と言うより、感覚がないのだ。地に軽く触れた手が、投げ出された足が、まるで石になってしまったかのように、大脳からの命令にまったく従ってくれない。

「――?」

 かろうじて動いてくれた首を回して、ひかるは自身の腕の状態を目視する。

「な――?」

 どういうこと? これは。樹? に、肌が、同化しているの? 私の、腕が? 

 ねずみ色に変色した堅い皮膚は、まぎれもなく背中にある樹のはだと同じもの。背中の樹に、くっついている私の肩、私の腕。この樹と、同じものになってしまったの? 私の腕は。

 じゃあ、足は? 

視線を、ゆっくりと、ゆっくりとずらして、投げ出された両足に向ける。

「――――」

 砂、が靴を、履いているの?

 制服のスカートの布地はそのまま変わらない。でも、そこから出ている二本の〝足〟は、黒いニットの靴下に包まれている〝コレ〟は――まるで、砂を固めて作った、みたいな。

これと似たようなものを、見たことがあるような気がする。

 ……そうだ。擬態、だ。 

 捕食動物に、見つからないために、体を葉っぱとか樹の幹、とかに似せる生き物とおんなじだ。――でも、私のこの腕と、足は。

 まるで、()()()()みたいじゃないか。

 ――気持ち悪い。

 なぜこんなことになったのか、とかそういうことは浮かばなかった。ただ圧倒的な拒絶の感情だけがひかるの全身を蝕むように駆け巡る。

 ――嫌だ!

 強く思ったその時。ぬるり、と、体の奥でなにかが動いた――ような気がした。

 同時に両の目に強烈な乾きを感じてひかるはぎゅっと力を込めて目を閉じ、しばらくそのままでいてから、また開ける。すると――

 ――え?

 手と足が、ある。さっきみたいに樹とか地面に溶け込んだみたいなのじゃなくて、ちゃんとした人間の――〝吉森ひかる〟の体がある。

 なんだったのだろう……さっきのは。幻覚……? いや、でも――

 その時、聞き慣れた声で名前を呼ばれるのが聞こえた。

「ひかるー!」

 稜だ。大きく手を振りながらひかるの方へ向かってくる。

 量はひかるの隣で立ち止まると、手を伸ばしてひかるの頭を優しくたたく。

「またこんなところで寝てたんだ。まだ寒いんだから気をつけなよ?」

 稜は腰をかがめて、ひかるに両手を差し出した。ひかるがその手を掴むと稜がぐっと引き上げてひかるを立ち上がらせる。

「行こう。あと十分で電車が来る」

「――うん」

 稜はひかるの手を引いたまま歩き出したが、半歩遅れてついてくるひかるの様子がいつもと違うことに気付いたのか、途中で足を止めて振り返った。

「どうかした?」

 不思議そうに見つめてくる稜の顔をぼうっと見返して、ひかるは考えた。

 ――話してしまおうか。彼に、さっきのことを。そうすればきっと彼はバカバカしいと言って笑ってくれるだろう。寝ぼけて夢の続きを見ていたんだよ、と言うだろう。そうしてもらえば、ひかるも少しは気が楽になるかもしれない。

 けれど、実際にひかるの口をついて出たのは違う言葉だった。

「ううん、なんでもないよ」

 そう言ってひかるは目を細めて稜に少しぎこちない笑顔を見せた。

 それから大きく一歩踏み込んで、稜の隣に並ぶ。

「ね、わたしたちちゃんと二人とも受かっているかな?」

「大丈夫だって、絶対」

「そうだね」

 やはり夢だったのだろう、さっきのは。だって今ここで稜と一緒に歩いていることが何よりの証拠だもの。稜にわざわざ話して心配させるほどのことでもない。

「稜、電車が来るまであと何分?」

「あと五分。やばい、これ逃したら二十分待ちだ!」

「急ごう!」

 ひかるが急に手を繋いだまま駆け出したので稜は前につんのめってこけそうになった。ひかるがそれを見て高い声で笑う。

 小さい頃、窓ガラスに誤って腕を突っ込んでしまったときにできた腕の傷がきれいに消えてしまっていることに、ひかるは最後まで気づかなかった。




 * * *




 ――明かりに照らされた居間で、ひと組の夫婦が向かい合っている。

「ねえ、このマグカップを見て。取っ手のところがちょっと溶けたみたいになっているのよ」

「変形しているな。――ひかるのか?」

「そう。それにあの子、最近様子が変なのよ。ぼーっと自分の手のひらをいつまでも眺めていたり、何も言わずに突然家を飛び出していったり」

「……なら、そろそろなのかもな」

「やっぱり、そうなのかしら」

「こればかりは仕方がない。ひかるが生まれた時からわかっていたことだ」

「でも、普通は遅くとも小学校に上がるまでにはもう()()()いるはずなのに。ひかるはもう来月から高校なのよ? 遅すぎるにも程があるわ」

「しかし前兆が出始めたなら、完全に変化してしまうのも時間の問題だ」

「……そうよね。……せっかく、ここまで大きくなれたのにね。でも、仕方がないのよね――わかっていた、ことだものね」

「それで、ひかるは今どこに?」

「稜君と遊びに出かけているわ。まだ、自分の意思で形は保てているのね」

「それもいつまで続くか……」

「ひかるがいなくなった後、稜君がどうなるかが心配ね――こちらとしては、しらを切り通すしかないのだけれど……」

 母親はそう言って長く長く溜息をついた。感情を押し殺したような、何かを諦めたような溜息だった。




 * * *




 高校の合格発表があったあの日から、()()()()()が頻繁に起こるようになってきた。

まだ、あれから二週間も経っていないのに。今ではもう、少しでも気を抜けばいつでも自分が他のなにかに()()()しまうような気がする。

 それこそ空気や土や服の布や、そのとき肌に触れている様々なものと同じものに、まるで全身の細胞が溶け込んでしまうかのような――そんな感覚が、常にひかるの全身につきまとっている。

 やはり、あの日のことは夢ではなかったのだ。

 それは半ば予想していたことでもあり、そのこと自体がひかるに大きなショックを与えるようなことはなかった。ただ、日に日に増してゆく焦燥感だけはどうしようもなかった。

 この現象が何なのか、ひかるにはさっぱりわからないけれど。不思議なことに、自分がそういうものに()()()しまうという感じは決して嫌な感覚ではないのだった。

 それは例えるならば、空を見上げて流れる雲に心を乗せたときの開放感だとか、ブレーキをかけずに坂道を自転車で駆け下りる時の高揚だとか、雨上がりに雫と緑の香りのする澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだときの震えるような喜びだとか――そういったものに似ている。

 自分が人間という小さな器を超えてもっと大きな流れの一部となることへの快感、とでもいうのだろうか。気がつけば、このまま溶けてなくなってしまうのも悪くないと考えている自分がいる。

 それでもひかるが〝人間〟でいることにこだわる理由は、ただ一つだけ。

 ――稜。

 彼の前でだけは、どうしても一人の女の子、人間の〝吉森ひかる〟として存在していたいから。



 その日は入学式も目前となった日曜日のことだった。

 朝ひかるは目を覚まして、なにか変だなと思った。

 あの〝擬態〟が目に見える形で起こっているわけではない。ただ、何というか――波に揺れてゆらゆらと海を漂っているような、はっきりしない奇妙な感覚が寝起きの意識を包み込んでいたのだ。

 はじめに、まだ目が覚めていないのかなと疑った。

 それから、ああ、いよいよなのかと悟った。今日が、わたしが〝吉森ひかる〟でいられる最後の日なのだと。

 階下に下り、家族四人での朝食を食べ終わると、ひかるは黙って靴を履いて外に出た。両親と姉が意味ありげな瞳で玄関へ向かうひかるの背中を見送っていたことと、母がいつものように出かける先を尋ねることをしなかったことには気がつかなかった。

 ひかるの足は、自然と丘の裏にある小さな社へと向かった。

 大人の背丈ほどしかない小さな鳥居。背後にかっぽりと口を開けた岩穴に、はめこむようにして造られた拝殿。その周りには鬱蒼とした常緑の木々が年中葉を茂らせており、それはまるで、この小さな聖域を世のあらゆる不浄から守ろうとしているかのようでもある。

 ひかるは石畳に膝をついてへたりと座り込み、正面の拝殿を見上げた。拝殿の木製の扉はぴったりと閉じられ錠がかけられているので、中の御神体が何なのかを窺い知ることはできない。

 考えてみれば、ひかるはこの社で祀られている神の名前を知らなかった。大人たちが話してくれることもなかったし、ひかるから尋ねることもしなかったからだ。知っているのはこの小さな社が町じゅうの人たちにとても大切にされていることだけだ。

 ひかるが今この場所に来たのは、名も知らぬ社の主に最後の神頼みをするためだったのだろうか。何故かはわからないけれど、どうしてもここへ来なくてはならないような気がしたのは。

 ふと石畳に触れた自分の両手に視線を落とすと、そこにあったのは予想していた通りの光景だった。

 石畳に溶けこぬように、冷たい灰色に染まったてのひら。

 これは、何かの病だったのだろうか。家族や他の誰かに相談していれば、治っていたかもしれないものだった? ――いや、きっと無理だったろう。

 たぶん、ひかるはもともと人間ではなかったのだ。この十五年間をこの姿で生きることができたのはほんの偶然だったに過ぎない。

 薄い幕が降りるかのように、霧のような雨が空から降りてきた。今朝はいつもより一段と薄暗かったのは雨雲のせいだったのだろう。

 徐々に大粒になってゆく雨粒が、頭上の木の葉を叩く音がする。

 言いようのない感情は熱い雫となってひかるの目から溢れて頬を伝い、雨とともに地面に染みていった。

 なぜ、自分が泣いているのか、ひかるにはわからなかった。悲しいのか、辛いのか。

 頬を流れているのが本当に涙なのか、それとも雨水に溶けた自分の体の一部なのかさえ、ひかるにはもう何もわからなかった。






 ――それから、彼女の姿を見たものはどこにもいない。




長い世代泉の水を体内に受け入れてきたせいで、時折体のほとんどが「水」で構成された子供が生まれる。そういう子は普通は五年も生きられずに「とけて」しまう。「溶けて」か「解けて」かは……わかりません。そして、ひかるは少し特別な例だったのです。

そのうち稜視点でその後を書くかもしれません。

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