1話 逃走したら
次に興昌が目を開けた時には、そこはもう白一色の世界ではなく、木々がうっそうと生い茂る緑豊かな森の中であった。時刻としては日が昇った直後らしく、木々の合間を縫って差し込んでくる朝日に少し目を細める。
「さて、無事に異世界に来れたようだし、これからどうすっかな」
そう言いつつ、あたりをぐるりと見渡す。すると一つの切り株が目に留まった。よくある普通の切り株だったが、違っているのはその上にこれ見よがしに一冊の本が置いてあることであった。
「何らかの方法で知識を与える、って言ってたけど、これか?」
近づいて手に取り、パラパラとめくってみる。
「どうやらこれであってるみたいだな。…俺の知らない事ばかりだ」
軽く舌なめずりして、切り株に腰かけ読み耽ることにした興昌。本来こういった森の中で周囲の警戒を怠ることは死に繋がりかけないが、ここにはモンスターなんていない事を知っているため、早々に放棄してしまっていた。またインドア派だったであろう興昌には知るすべもなかったが、なぜか動物の気配がかなり希薄になってしまっていたのも幸いした。こうして興昌の読書タイムを邪魔するものが現れないまま、かなりの時間が経過した頃、興昌は本を閉じて立ち上がった。
「よし、読み終わったぞ。あとは実際に経験して確かめるしかないな」
ふと空を見上げると、読み始める前は上り始めたばかりだった太陽が、頂点を通り越して傾きかけている。
「そろそろ動かないと森から出る前に日が沈んじまうな。本の最後にこの森からの出方が書いてあったな。確か…」
そう呟きながら歩き出そうとした瞬間、
「そこにいるのは誰だ!」
後ろから叫ばれ、一瞬硬直してしまう興昌。振り返ってみると、繁みをガサガサ言わせながら声の主が現れる。
「貴様、ここで何をしている!ここは王家が所領している森だぞ!両手を上にあげてそこから動くな!」
現れたのは一人の男。胸や腕、脚に革製と見られる防具をしているが兜はかぶっていない。腰には剣を下げ、手には弓も持っている。おそらく、というか間違いなく兵士であろう。本来ならおとなしく捕まるのが安パイなのであろう。だが、王家という単語を聞いて、興昌の思考と肉体は直結して、素早く一つの答えを導き出していた。
「あっ、貴様待たんか!」
両手という単語を言うが早いか、興昌は逃走という答えを選択した。後ろめたいことはしていないが、捕まった場合間違いなく持ち物を調べられるだろう。そうなったら、この国のことについても詳しく書かれた本があれば、他国のスパイとみられるかもしれない。取り調べもきついだろう。そうなるのは御免こうむりたい。
「止まれ!止まらんと撃つぞ!」
後ろからはそう言って兵士が弓を構えながら走ってくる。だが一向に撃ってこなかった。
(撃てるわけないよなあ…)
走りながら興昌はそう考えていた。まず第一に、ここは森の中であり、当たり前であるが周りには沢山の木が生えている。興昌はその木の間を縫うようにしながら走っていた。こうすることで木を遮蔽物代わりに使い、撃っても当たらないようにしていた。第二に、森の中は障害物が多く、それらの障害物をよけつつ弓を放って的に命中させるには高い技術が必要であり、失礼な言い方だがそこまでの技量がないと判断したからである。そして第三は、
(この後面倒だからな、取り逃がした場合)
矢とは消耗品である。弓を打てば当たり前だが減っていく。もし矢を打って取り逃がしていた場合、矢が少なくなっているのが隠していてもいずればれるだろう。そうなれば不審者を取り逃がしたことに対する何らかの処罰が下るだろう。でも逆に言えば矢さえ打たなければ、取り逃がしたことはばれずに済むであろう。目撃者もいないため、本人さえ黙っていれば闇に葬ってなかった事にできるのだ。興昌は、兵士が自分の保身のために矢は撃たない、そう判断したため逃走を継続しているのだ。しばらく走り続けて後ろを振り返ってみると、すでに兵士の姿はなく、自分の走る音と呼吸音しか聞き取れなかった。
「まいたか…」
走るのをやめ、歩きに移行した興昌。歩き続けているのは、見つかるリスクを下げるためできるだけ早くこの森から抜け出したいと考えているためだ。
「まったく、運動は苦手なんだよ。こんなに走らせやがって…」
誰ともなく毒を吐き捨て、歩き続けながら物思いにふける。ここは何処かとか、森から出たらどこへ向かおうか等と考えて上の空になっていたため、足元に注意を向けることを忘れてしまっていた。
「あらっ、あらぁ~!」
足を踏み外し、川に落ちてしまった。慌てて岸に上がろうとするが、流れがかなり早いうえ、直前まで走っていたため息が上がっており、岸に這い上がるだけの体力が残っていなかった。何かにつかまろうとしても、つかめるだけのものが周りにはなかった。あったらあったで避けなければいけない等の問題が発生するのだが、こういう物はあって欲しい時にないのが常である。そして、あって欲しくない時にあってしまうのもまた常である。ふと興昌は、流れる先から轟音が聞こえてくるのに気付く。
「こんなお約束ならいらないよっ!」
流れていった先にはパターン通り、滝が待ち構えていた。慌てて岸の方向に泳ぎだすが、対処するにはもう手遅れであった。
「うわああああああああああぁ~」
滝によって放り投げられた興昌が見たものは、人のように小さく見えた木々が広がる光景だった。それを見て、興昌は思った。
(終わった…俺の命、終わった…orz)
自由落下が始まり、滝壺にたたきつけられた瞬間、興昌は意識を手放した。