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【雛節句】

 桃の花がほころび始めた。残雪は桃の花に残っているが、それもまもなく溶けて消えるに違いない。

 冷たい風の中にも、ぬるい風が混じりはじめ、冬の間は辺りの色を吸い込む雪の白も、桃の花の艶やかさに色を譲るようになってきた。

 道を行く女の着物の色も鮮やかになり、ああ。春がきたのだ。と源五郎はそう思った。


「源さぁん」

 鮮やかな着物が源五郎の家の玄関に立ったのは、まだ朝餉の途中のことである。

 春の朝日は暖かいが、まだ地面にはうっすら雪が残る。まだ冬の名残を感じる季節である。

「源さぁん、居るんでしょう?」

 玄関をたたくのは轆轤であった。春らしい淡い色合いの着物をまとい、手には桃の枝などを持っている。

 町娘風ではあったが、彼女の白い肌は夜の女の香りを残していた。そのせいか、轆轤は不思議と朝が似合わない女である。

「来ちゃった」

 轆轤は赤い頬を膨らませ、上目遣いに笑う。口を開いても白い息を吹き出さないのが、人間とは異なるところだろう。と源五郎は思う。

「外はまだ冷えるだろう。中に入るといい」

 玄関を開けて招き入れると、彼女は当然のような顔をして家に滑りこんだ。

「こんなお家なのねえ。狭いけどいい家」

「妖怪が早起きとは驚かされる。それも、花街の女がこんなに出歩いてもいいのか」

「私はねえ、あすこで働いているってわけじゃないし。あそこに住み着いているだけだから。そりゃ、たまにはお仕事もするけれど」

「そうか……ちょうど朝をとっていた。おまえも食べていくか」

 しじみの汁と飯。その程度の簡単な朝飯を、源五郎はもう一人分よそう。

「……食事は、できるのだったか」

「できるわよう。あんたのところの可愛いお袖ちゃんだって食べてるでしょう。妖怪だからって人ばかり食べるわけじゃない」

 ふと視線をやれば、先ほどまで共に膳を囲んでいたお袖がいない。

「お袖」

 気がつけば、お袖は源五郎のそばにひたりと寄り添い、袖をきゅっと握りしめているのだった。

 その赤い頬が、少しばかり膨れているのが見える。

「げんご、だあれ」

「ああ、この子がお袖ちゃん。袖引き妖怪ね。ほぅら、私は」

 轆轤はパッと目を輝かせ、お袖に近づいた。おびえるかと思いきや、お袖は不思議と逃げずに轆轤と向かい合う。

「……ろくろ首」

 轆轤の首がするりと伸びた。抜けるように白い首が宙を舞って紅い唇から哄笑が漏れる。

 春のぬるい空気の中、それはまるで幻のようだった。

「無理をするな轆轤。おまえの頭はちと重い」

 しかし舞うことができたのは一瞬のこと。安定を失い下降する頭をつかみ、源五郎は体に戻してやる。

「昔はもっと、うまく舞えたのよ」

 照れたように轆轤はえくぼを染めて笑った。

「だって今は、源さんがこうして受け止めてくれるのだもの」

「げんご!」

 強い力で袖を引かれ、源五郎は思わず身をそらす。お袖が珍しいほどの利かん気で、轆轤をにらんでいるのだ。

 その幼い目をのぞき込んで、轆轤はいかにもおかしいといわんばかりに笑う。

「あら、妬かれちゃった」

「ばかなことを」

「あら。源さんは女の機微に弱いから……っでもね今日は喧嘩をしにきたわけじゃないのよ。同じ江戸に住む妖怪同士、仲良くしようと思ってきたのだった」

 轆轤は舐めた指で鬢を整え座り直すと、手荷物から小さな人形を取り出した。

「ほら、お雛様。今日は雛節句だから」

 それは手の中に収まるほどに小さい。布で作られた、愛らしい二つの人形である。

 顔には黒い瞳と紅い口が縫い込まれ、色鮮やかな着物をまとう。

「お人形」

 しばらく警戒していたお袖だが、人形をみて目を輝かせた。

 おそるおそる受け取ると、上気した頬にそれを押しつけ、小さな声で礼を言う。

「どうせ男にはこういうのはわからない。だめね。女の手がないと、こういうことに気づかないでしょう」

「……すまない」

 轆轤とお袖が笑うのをみて、源五郎は苦笑を返すばかりだ。

 轆轤に言われるまでもなく、源五郎は今日が何の日であるのかなど気づきもしなかった。

 通りをいく女たちが艶やかな格好をしていることにさえ、気づかなかったのだ。

 季節を祝う、その思い出はかつての主とともにあった。主亡き後、そのような時間が自分に訪れるなど思ってもいなかった。

 日常は、まだ続いていたのだ。源五郎の中に不意に暖かいものが流れた。

「源さんにはこっち。豊島屋っていう白酒。朝から並ぶ随分な人気のお店よ、なじみの客からもらったの」

 続いて轆轤が差し出したのは、瓶に詰められた白酒である。辛口の白酒として評判の店だ。雛節句のときには朝から大勢が並ぶのだという。

 欠けた湯呑みに注げば、冷えた部屋に酒が香った。

「あら、おいしい」

 それを一口含んで頬を染める轆轤は、ふつうの人間の女にしか見えなかった。

「……一度聞いてみたいことがあった」

 お袖は人形遊びに夢中で、黒い髪が揺れるたびに白い横顔がちらりとみえる。

 それを横目に見ながら、源五郎は酒を口に含んだ。酒は春に合う、苦み走った味がする。

 妖怪だから酒に強いのか、そもそもが強いもか轆轤はうまそうに喉をならしていた。

「聞きたいことって?」

「妖怪とは、どういうものか」

「人間とそうかわりやしない。ただ、ちょっと掟が厳しいばかりで」

 二人の目が同時にお袖を見る。線に気がついたのか、お袖は二人の間に割って入り源五郎の袖で顔を隠した。

「はぐれたら、戻れない……か」

「妖怪はそもそもそんな、年がら年中一緒にいるわけじゃないから。うちはまあ、三匹くらい集まってるけどね。年に一度の百鬼夜行で一斉に集まるってわけ」

 江戸の町を行く百鬼夜行はさぞ見事なのだろうと源五郎は想像する。

 そもそも源五郎はあやかしを見はしても、ここまで親しくふれ合ったことはなかった。

「私らみたいに、自分の意志で人の世界に紛れているのなら問題はないのだけれど、お袖はまだ小さいでしょう。小さい妖怪は妖力も小さいから、人の世界でうまく立ち回れない」

 轆轤はお袖を哀れむようにみた。

「かといって仲間の妖怪が守ってくれるわけもなし……」

 お袖は二人の会話の意味が分からないのか、空気に漂う酒精に酔ったのか、源五郎の袖を持ったまま船を漕ぐ。

 轆轤は持ち込んだ桃の枝を一本手折って、それをお袖の髪に刺した。

「基本的に妖怪は親子の愛も家族の愛もないものだけど、群れにいる間は守ってくれる。小さな妖怪はそうして、はぐれないように生きていく」

「はぐれたら、死ぬか」

「妖怪を食う妖怪だっているわけだから」

 そりゃあ死ぬこともある。と轆轤は冷たく言った。

 しかしその冷たさに自分でも驚いたのか、あわてて手を振ってみせる。

「ここまで知り合いになったんだから、私だってこの子に変な妖怪が近づけば、守るくらいはするわよう。でもねえ」

「責任はとれない……か」

 轆轤の声はやはり平坦だった。

「そういうこと」

 桃の花を頭に飾って眠気と戦う少女は、ごくふつうの人間の娘にしか見えない。

 しかし、ただ一人でこの長屋に残され、何年彼女は耐えたのか。

「そうだ。源さんと私が夫婦になれば、守ってあげられるけど」

「どうせ死ぬ男と夫婦となってどうする。おまえはもう少し自分を大切にしろ」

「これだから源さんは女なかせだ」

 轆轤の笑い声に、お袖の寝息が重なる。

「寝たか」

 袖を握る指をほどいて、お袖の体に着物をかける。それを見て轆轤もあくびをかみ殺した。

「私も眠くなっちゃった。茶屋で猫又を懐炉代わりに眠ろうかしら」

「送っていこう」

 まだ朝日が残る部屋は明るく、雛節句の匂いが充満しているようである。


「ちょいと源さん」

 轆轤を花街に送った後、長屋に近づくと困惑声が源五郎の足を止める。

 振り返れば、大家の女が井戸端からこちらを見ている。

「代筆の仕事を花街に紹介したのは確かに私だよ。だからといって、そんなところの女と」

「いや、仕事の話をしただけだ」

「そう……ならいいけど」

 轆轤とともにいるところをみられたのか、それとも花街から朝帰りをしたとでも思われたか。親切だがお節介にすぎる彼女は、源五郎をなじるように言う。

「お袖ちゃんに心配かけさせちゃあだめだよ」

「わかっている」

 案じる女を適当にあしらって、源五郎の足は自然と町へ向かう。

 それは日課といっていい散策である。

 主の仇を探る、散策である。当然だが、日が経つにつれて情報は薄くなる。そもそも武家屋敷には同心さえ入り込めない場所である。

 しかし毎日歩けば少しでも情報は手には入るものだった。

 屋敷で下働きをしていた銀次という男と再会したのも、源五郎の執念のおかげであった。

 銀次は博打も打つやくざものだが、悪い男ではない。

 屋敷に住み込んでいたが、くだんの騒動で一之介を庇い、あやうく斬られかけた。

 あれほど優しい主はない。目の前にあったのに守りきれなかった。すまない、すまないと、再会した時に銀次は源五郎の前で泣いて崩れた。

 彼が探ったところによると、謀略を推し進めた中間の名を、伊藤という。今や正妻の地位に立った遊女の兄とも、かつての男であるとも言われているが詳しいことは分からない。

 伊藤一派に逆らった家の者はことごとく追い払われるか斬られるかしたという。上に訴えたものは、川に沈んだ。

 ただ思いきった事件を起こした後である、伊藤を中心とした中間らはおとなしい。しかし、任地に詰める大殿との連絡はとれなくなって久しい。

 敵を斬るのは、命を捨てる覚悟があれば容易い。しかし、闇雲に中間を斬るだけでは伊藤に刀は届かない。ただ数名の中間を斬ったところで、私怨を晴らしたに過ぎない。

「義憤をはらすのであれば今は耐えてくれ」

 銀次は茶の入った湯呑を握りしめたままそういった。

 町の茶店の隅。背をあわせて座る源五郎にもわかる。銀次の指は震えている。

 春めいた空気に似合わない、どす黒い空気が二人の間に降りていた。

「たった一つしかない命だ。黒幕のくびねっこつかんで散らそうじゃねえか」

 いつものように二人は顔も見ず別れる。町の雑踏を歩きながら、源五郎はいつか唇をきつくかみしめていた。

 つまりは、今はただ向こうの出方を待つしか無いのである。伊藤は屋敷の奥深くにいて、彼の目的も沈黙の理由も分からない。

 つながりは糸のように細いが、つかんでいればいつか主の仇が討てると、源五郎は必死にその糸を引き寄せている。

 朝は晴れていたというのに、とたんに空気が曇った。温度が急に落ち、道に揺れる桃の花が重く頭をもたげる。

 花に水が散っていた。 

(……雨か)

 冷えると思えば雨が降り始めていたのだ。

 春とはいえ、まだ寒いこの時期の雨はほそく、気がつくと体にまとわりついている。

 それはまるであやかしのようであった。

 花を眺めるうちに源五郎はお袖のことを思い出す。思い出せば、仇を憎く思う心が晴れ上がり、春の雨の眩しさに目を細めた。

(雛節句には、なにを食べるのが習わしか……)

 ふと源五郎は思う。

 家で待つ、お袖の体はひどく冷えているに違いない。寂しがっているかもしれない。今夜は雛節句にあう、何かを作るべきだ。

(早く帰ろう)

 自分たちの家。と源五郎は思い、その考えに驚いたように目を見開く。

 仇を打ち損ねて数ヶ月。源五郎の中にあった荒んだものは、確実にすり減りつつあった。それはひとえに、一人の少女のおかげである。

 血なまぐさい夢から、桃の香る現実に引き戻される。

 さてこれは、どちらが現実であるのだろうかと源五郎は苦笑した。

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