【正月】
仇だけは殺さねばならぬ。
その感情は、燃えるような情熱によるものではない。仇を殺さねば、仇を討たねば自分の生きる意味がなくなる。意味がないということは、自分の存在が無くなるということである。
だからこそ、自分の存在を賭けて仇だけは討たねばならぬ。
源五郎は呟いて、歩いた。夢かうつつか、本人さえ分からない足取りであった。それは倒れる身を二本の足で支えながら、ようやく一歩進むという体である。
源五郎の足が進むごとに、真っ白な新雪が、じゃくじゃくと音を立てて泣く。どこかからか、新春を言祝ぐ声が聞こえてきた。抜けるような青空には子供があげたものか、糸の切れた凧が舞い上がる。
道の角にたてられた門松を細目で見つめ、源五郎は顔を深くうつむける。彼の足音と、刀の鞘がたてる音がただ不穏であった。
新春の日差しは眩しいほどだが、道を曲がるとその光は突如途絶える。
源五郎は静かに顔を上げた。
彼は異相である。顔の右半分、額から顎にかけて深い刀傷が刻まれているのである。傷は最近付いたものらしく、生々しい血の跡がいまだこびりついている。
そのせいで、彼の右目は硬く閉ざされたままだった。その右目はもう、新春の光も通さない。
さらに着物は擦り切れ垢にまみれ、髪はざんばらをただ結わえたばかり。顔はひどくやつれ、髭がそのやつれを覆い隠していた。幾日寝ていないのか、目の下のくまは縁取りのように深く刻まれている。
唯一、首筋だけが白く、思いがけない彼の若さを示していた。
「……」
真っ白な息を吐き出して、源五郎は笠を降ろした。積もった雪が、固まりとなって源五郎の足下に散る。
遠巻きに闖入者を眺めていた若い女達が、きゃ。と小さく悲鳴をあげて逃げ去った。
かまわず源五郎は目的の家を凝視する。
それは袋小路の一番奥、日当たりの悪い古びた長屋。
通称化け物屋敷と呼ばれるその長屋に彼が越してきたのは、まだ新年の言祝ぎ香る正月明けのことであった。
思えばこのような怪しい男に家を貸したものだ。と、源五郎は今でも思う。
(仇を討たねば)
呪いのように何度でも、源五郎は口の中で呟いた。その言葉を呟くたびに、彼の身がどろりと闇に覆われるようである。
(俺は一度死んだ。一度死んで地獄から這い上がった)
残された左目で彼は自分の掌を見る。そこにも刀傷が刻まれていた。右目に触れると、そこも傷で隆起している。しかし、生きている。
(死んでもいいと思ったが……いや、死ねば仇は討てぬ。仇を討たねば死ねぬ)
がりがりにやせ細った体のどこにそんな力があったのか、彼はまた一歩進んだ。
生きるには、どこかに住む必要があった。源五郎が辿りついたのは、この薄暗い長屋の一部屋である。
片目のつぶれた浪人に貸し出される家は、結局のところ訳ありの物件であった。
通りすがりの小僧が、源五郎をみてはやし立てるように 化け物屋敷の化け物侍。と叫んで逃げた。
その理由は部屋に入ってすぐにわかる。
想像よりも部屋は清潔だった。ただなにもない、6畳ほどの狭い部屋である。
畳だけはかえたのだろう。新しい青臭さが新年を感じさせた。
「でてこい」
源五郎は笠を土間において、静かに戸を閉める。戸を閉めると、部屋の中は恐ろしいほど静寂に包まれた。
「別にとって喰いやしない」
苛々と、源五郎は声を上げた。中に一歩入った瞬間、感じたのである。それは、あるかなきか、小さなあやかしの気配であった。
普段ならばもう少し、優しい声もかけられただろう。しかし今の源五郎は疲れ果てていた。少しでも早く、座りたい。右目もまだ痛む。できれば横になりたい。
「出てこい」
声に棘がにじんだ。
「……」
袖にふと、重みがかかった。つい、と誰かが引いたのである。人気のない狭い部屋。袖を引くものなどあろうはずもない。あるとするならそれは。
「妖怪か」
脅かさないよう、源五郎は静かに振り返る。
「袖を引くだけの、子供の妖怪か」
いつの前にか、そこにはまだ幼い。いとけない、少女がいた。
幼い髪が、肩のあたりで揺れている。おろした前髪の下、黒い目がきょとんと丸まっていた。
生きた人間ではない。それは、一見すると人にしか見えないが、瞳に色がない。光に当たっても影がない。そして、身からはひやりと冷たい気が流れ出ている。
生きたものではない。あやかし、妖怪。そう呼ばれるものに相違ない。
少女は、源五郎の袖を後ろから、そっと引いている。その指の先は、桜貝のごとき小ささであった。
その姿に、源五郎の毒気が抜かれる。
源五郎に気づかれたことに、驚いたのだろう。彼女は悲鳴をかみ殺して尻餅をつく。
唇がふるえて声も出せない、幼いその姿に源五郎はふと哀れみを感じた。
顔も手先も皆、蒼白である。がたがた震えるその姿は、人の子となんらかわらない。
「俺よりも先にここに住んでいたのか。それは申し訳ないことをした」
腰を落として声をかける。それに驚いたか、少女は悲鳴を上げていずこかへと消えた。押入の奥に隠れたか、はたまた天井にでも隠れたか。
少女の持つ清廉な空気だけがそこに残り、源五郎は今更少し、罪悪感を感じた。
越してきて数日が経った。外はまだ、新春の香りが高い。
どれくらいたったのだろう。と源五郎は伸びきった髪の隙間から入り口をみる。
雪でも降ったか、今日は外がやけに明るい。
越してきたといっても、特になにが変わったわけでもない。荷物は増えていない。ただ着の身着のまま、荷をそこにばらしただけだ。ただ、部屋の隅にあった文机の上には、何枚かの書き損じた文が散らかっている。
それを前に、源五郎はうめいた。髪をかき乱し、つぶれた目からは血が幾度も流れた。その血は、彼の垢めいた着物を汚して、いよいよすさまじいこととなった。
長屋の住人も、源五郎を不気味に思っているのだろう。隙間からのぞいては、皆去っていく。
しかしそれにも気付かず、源五郎は頭を抱えたままである。
仇を、討たねばならぬ。その不気味な声だけが頭の中に響くのである。
それは足かせのように、源五郎の動きを止めた。体の中から彼をむしばんでいく。
仇を、討たねばならない。しかし、彼は動けない。呪いの中に、閉じこめられたように、動けない。
「若い男が正月から腐ってるんじゃないよまったく」
いよいよ、体が闇に蝕まれそうになったそのとき。突如戸が開かれた。
入り口といっても、薄い扉一枚だ。開け放たれた瞬間、冬が香る。雪の白さが目を焼き、冷たい風が源五郎の鼻を冷やした。
入り口に立っていたのは長屋の大家である。肉付きのいい中年の女で、名をお富といった。
急ぎ住む家を探していた源五郎に、この家を紹介した女である。訳ありの人間をこれまで多く入居させてきたのだろう。彼女は身よりもない源五郎をあっさり受け入れた。
「ずっと家からでないっていうから心配してきてみれば」
彼女は春らしい着物をたすき掛けにして、たっぷり太った腕を外にさらしている。腕は意外なほどに白かった。
彼女はずかずかと、部屋にあがりこむ。
手早くそのあたりのものを片づけると、彼女は源五郎の髪をぐい、と引いた。
いつ手にしていたのか、彼女は櫛で源五郎の髪をまとめると、軽く結いあげる。鬢付け油のすえた香りが部屋に広がる。
「顔もお貸し」
お富は続いて源五郎の顔をつかむなり、手にした剃刀で髭をそり落とした。
「何だお前さん、なかなかいい男じゃあないか」
柔らかく太った指が顔をなでた時、初めて源五郎は気づいたように左目を丸めた。
「……すまない」
「目だけは可哀想にねえ。こればかりはしかたがない」
閉じた右目を、お富の手がなでる。それは子を持つ母の手である。
開いたままの戸の向こう、何人かの野次馬がいるようだ。髭をそり落とした源五郎をみて黄色い声をあげる女を睨んで、お富が叫んだ。
「あんたたち、いつまでもちらちらとみてるんじゃないよ! 暇ならなんぞ飯でも作って持ってきな!」
そして源五郎をみると、彼女は眉を落として笑った。
「……ねえあんた。老けて見えたが、こうして顔をすっきりさせるとよくわかる。まだ20やそこいらの若さだろう。何があったか知らないけどね」
「俺は」
「言わなくてもいいさ。ただ、その目はいけない。あんた、そのうち殺されるよ、自分の感情にさ」
お富の声が源五郎に突き刺さった。身の奥から呻くような呪いの声は、自分自身が発しているものである。
お富は文机をちらりとみた。書き散らかした手紙の残片がそこにある。
「……あんた字も書けるんだね。それならいくらでも食いっぱぐれがないじゃないか」
「あれは……」
「あれもこれもないさ。腰にいいものさしてたって、所詮はあんた浪人さんだろう?」
床に散らかしたものの中に、刀がある。それはいかにも古くさい鞘に収まっているが、いずれ名のあるものであることは、お富にもわかったのだろう。源五郎は俯いたまま、刀をそっと着物の袖に隠した。
「お勤めがないなら何とかして稼ぐ。でなきゃ食べられないからね。腐ってたって、金はふっちゃこないんだ」
お富はつぶやき、そして部屋の奥をみた。その鋭い目がふと、和らぐ。
「ほら、あんな小さな子までいるのに……妹さんかい」
源五郎は、残った左目でみた。部屋の奥、鍋を積んだ部屋の隅に小さく座っているのは、先日みた袖を引く少女ではないか。
お富はそれが生きた人間に見えるのだ。母親の顔をして、少女を見つめる。
「名前はなんていうのお嬢さん」
「……袖」
なぜその名が浮かんだのか。源五郎の口から、名が漏れる。
「お袖という」
その名を思いついたのは、ただの偶然だ。出会いは袖であった。袖がふれあっただけの少女である。人間ですらない。彼女は、あやかしだ。
「お袖ちゃん、ごめんねえ」
お袖と呼ばれたことに驚いたのか、少女は逃げることも忘れて目を丸くした。前髪がさらさらと眉の上で揺れている。
「お兄ちゃんのことを少し活入れただけだからね、おびえないでおくれよ」
お富は目を細めてそういった。
「あんたも、あんなかわいい妹がいるのに、いつまでこうして腐ってるんだい。今日は勘弁するが明日からはちゃきちゃき働きな。仕事口くらい私がいくらいでも案内してやる」
そして彼女は懐から一枚の紙を取り出した。あけてみると、深い墨で七福神が描かれている。福福しい神々は船に乗って雲の切れ目で遊んでいる。
「ほら、あんたのところはなにも正月の支度なんざしてないんだろう。これをあげるよ。いい夢がみられるとさ」
宝船の絵である。これを枕に忍ばせればよい夢を見るという。明るいその絵を源五郎は額に押しいただいた。
急に、呪いが解かれた気がした。頭の中を叫び続ける、仇を討てという声が薄れた。新春の光が射し込んだようである。
ありがたい。と残った左目にふいに涙が浮かんだ。
「世話焼きを厭わないでおくれよ。あたしの息子もあんたと同じくらいでね。もっとも、昨年の大火で、おっちんじまったが」
そんな源五郎の背を、お富がなでた。その声は、悲しいほどの柔らかさで、新春の風に溶ける。
「おびえるな」
お富は去った。長屋の連中も興味深そうにこちらをみていたが、お富とのやりとりで安心したのだろう。食べ物などを土間において去った。
人が去ると、残されたのは静かな空気と、そして少女のあやかしだけだった。
「俺は、出て行くことにするよ」
でていく宛などないのだが、源五郎はそういった。
目線の先に、先ほどの少女の姿がある。
あまりに幼いその姿に、毒気を抜かれたせいもある。人とふれ、血なまぐさい自分の身上に嫌気がさしたせいもある。久々に髭を剃り髪をまとめると、張り詰めていたものが途端に溶けた。
「俺には使命がある。この家でなくとも叶う使命だ」
この部屋には昔からこのあやかしが住んでいたのだろう。そこに源五郎が入り込んだことになる。
部屋を一度綺麗に掃き清め、そして源五郎は頭を下げた。
「……邪魔をしたな」
源五郎は手早く文机の上のものを片づけ、刀を腰にさす。
……と、袖がつい。と引かれた。
「いか……」
「ん?」
「いかないで……」
少女である。彼女は小さな手で、源五郎の袖を引いている。
小さな目を精一杯開き、彼女は叫ぶようにいった。
「いかないで!」
少女は足が震えたのか、その場に崩れ落ちる。彼女の目に涙が浮かんだ。源五郎はあわてて彼女の身を起こした。
……やはり、冷たい体だ。生きた人間の娘ではない。
「大丈夫か」
ぶるぶるとふるえる少女に源五郎がしてやれたのは、背をなでてやることだけであった。
黒い目に涙がみるみる浮かんで、雨の滴のようにぼとぼと落ちる。それは新しい畳に落ちて、はじけた。
そして、やっと彼女は自分の身の上を、語り始めた。
「暮れの百鬼夜行の行列においていかれたのだな」
幼い彼女が詰まり詰まり身の上を語り終えた頃、すでに日は暮れていた。
「ここ潰れると……困る……次の百鬼夜行、くるの今年の暮れだから」
百鬼夜行というものがある。とは源五郎も噂にはきいたことがある。
妖怪どもが列をなし、町を進むのである。
理由も目的は分からない。ただ異形のものたちによる行列である。その間に人もくわれるだろう、家も壊されるかもしれない。それは嵐のようなもので、人間は耐えるしかないと聞いていた。
しかし妖怪からすれば、数年に一度のお祭り騒ぎ。多くの仲間とともに通りを行く。
その行列に、この少女は取り残された。
「それまで、いくところない……」
「そうか」
源五郎が立ち退けば、この家はつぶすのだと大家は困り果てた顔でそういっていた。
この家に越してきた人間はもう数え切れない。
化け物屋敷だと噂が立っている家であった。
源五郎さえもでていくのならば、この家は取り壊して稲荷でもたてるしかない。と、大家はそういっていた。
「先日の百鬼夜行に取り残されたのか」
「もう何年も……何年も前」
少女は泣き疲れたのか、源五郎の袖をつかんだまま、動きを止めた。
「百鬼夜行の行列が通る場所はいつも違うの。何年か一度だけ、同じ場所に戻ってくる……から」
「それが今年の正月か」
「あと、一年……」
眠いのか、目の縁と鼻が赤い。一見すると人間の少女にしか見えない、いとけない子供である。
この子供は、何年この家で堪え忍んでいたのか。そう思うと、源五郎の中に哀れみが浮かんだ。
他人に対して哀れむことなど、久々であった。それが人に対してでなくとも。
「何年も、ずっとここで……だから……なくなると、困るの……」
ただ一人仲間からはぐれ、この狭い長屋の一角で、彼女は生きてきた。哀れなほどに怯える子である。人を脅かしたことなど皆無だろう。しかし、あやかし特有の気配は消せない。ここに住んだ人間は皆、見えない妖気に怯え家を出た。
その背を見送りながら、彼女は傷ついたに違い無い。
袖をきつくつかんだまま、少女は唐突に寝息をたてた。白い手足がかわいそうなほどに白い。
「……そうか」
一度は死にかけた身を頼る小さな手がある。それが源五郎には驚きであり、かすかな喜びであった。そしてそれを喜びと思える自分に少なからず驚いた。
「俺には大望がある。いつまでも一緒には居てやれないが、しかし、一年ほどならば」
源五郎は着物を一枚彼女にかけて、その幼い体を床に降ろす。頭の下に、宝船の絵をそっと忍ばせ、体には着物をかけた。彼女の小さな手は、安堵するよう、その袖をつかむ。
「お前の望みを叶えてから死んでも遅くはないか」
眠りの中、あやかしも七福神の夢をみるのだろう。それは幸せな夢に違い無く。
玄関の薄い障子から月の光が射し込んで、部屋の中を一筋染める。
それは新春の言祝ぎが似合う、清らかな光であった。