↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

竜骨の王座は三百十二本の骨でできております。――うち二百九本は当家からの貸与品ですので、ただいま返却を申し受けますね

作者: uta
掲載日:2026/10/07

「ヴェルナ、お前との婚約を破棄する」


建国祭の大広間。弦楽の音が、ふつりと途切れました。


「竜の骨を磨くしか能のない女を、王妃の座に置くわけにはいかない」


王太子アルベリク・ヴァン・レイガルド殿下は、よく通る声でそうおっしゃいました。金髪碧眼、歩き方まで訓練された完璧な王子さま。その腕には、蜂蜜色の巻き毛の少女が寄り添っております。


ミレイユ・フォンテ男爵令嬢。光魔法の才を持つ、聖女候補。


「わたくし、思いますの」


彼女は大きな緑の瞳をきらきらさせて、玉座のほうを振り返りました。


「あんな古臭い骨なんて全部捨てて、水晶の玉座にしたら素敵ですわ。きらきらして、お城が明るくなりますもの」


広間の空気が、わずかに笑いさざめきます。


――はいはい。


十二年間の無償労働、契約解除ですね。承知いたしました。退職手続きは速やかにいたします。引き継ぎ資料は毎年ご提出済みですので、どうぞご確認くださいませ。


あ。未開封でしたっけ。


わたくしは膝を折りました。


灰銀の髪は項で簡素に結ったまま。指先は骨粉で荒れ、爪は短く切りそろえてあります。袖口には鉛墨。化粧気はありません。今朝も夜明け前に王座の下へ潜っておりましたので、身支度をする時間がございませんでした。


「かしこまりました」


「……かしこまった?」


殿下が眉を寄せます。


「それだけか。泣き喚くでも、縋るでもなく」


「殿下のご意向は、王国の意向でございます。わたくしごときが異を唱える立場にはございません」


「……ふん。最後まで面白みのない女だ」


面白みを求められていたとは存じませんでした。ご要望は仕様書に明記していただけますと助かります。


わたくし――ヴェルナ・ドラグホルム、十九歳。竜墓守り伯爵家の長女。


王国の象徴『竜骨の王座』を磨き、継ぎ、整える一族の跡取りでございます。


そして、前世がございます。


日本という国で、神社仏閣の木材修復と、寺院の宝物台帳管理をしていた三十四歳の職員。残業続きで職場の床に倒れ、そのまま。地味で、誰にも知られず、誰にも褒められない仕事でした。


だから十二年間、誰も読まない帳面をつけ続けることに、わたくしは何の苦痛も感じませんでした。


記録とは、未来の誰かへの手紙ですから。


「ヴェルナ嬢」


立ち去ろうとしたわたくしを、宰相ギーゼル・マルクヴァート閣下が呼び止めます。痩身に片眼鏡、いつも書類の束を抱えた現実主義者。


「王座の管理についてだが……当面は使用人に引き継がせる。手順書か何かはあるかね」


「毎年、提出しております」


「……提出?」


「『竜骨王座維持管理報告書』。二十三ページから四十一ページに、日次・週次・月次の手順をすべて。閣下の回覧印が押してございます」


片眼鏡の奥で、瞳が泳ぎました。


押しただけで、読んではいない。そういう印の押し方があることを、わたくしは前世でよく存じております。


「では、失礼いたします」


もう一度、深く礼をいたしました。


振り返りざま、玉座が目に入ります。


三百十二本の竜骨を組み上げた、王国の象徴。乳白色の骨は蝋燭の光を受けて、仄かに脈打つように輝いております。


美しい。十二年、毎朝見てまいりました。


――罅、十七本。


わたくしは胸の内で、いつもの作業を済ませました。


左前脚第三節に新たな罅。右翼支柱の接合部に微細な歪み。背骨第七番の表面に、乾燥痕。


十七本。昨日より三本増えております。おそらくミレイユ様が、昨夜お触れになったのでしょう。光の残り香がいたします。


記録。頭の中の帳面に、きちんと記録。


もっとも、もう提出先はございませんが。


大広間の扉が、背後で閉まりました。


十二年が、終わった音でした。


──────────


王城の門を出ると、建国祭の屋台が並んでおりました。


焼き菓子の匂い、芋酒の湯気、吟遊詩人の竪琴。人々は誰も、わたくしが今しがた王太子妃候補の座を失ったことを知りません。


好都合でございます。


「おっ、ドラグホルムのお嬢さんじゃねえか」


冒険者ギルドの前を通りかかると、査定板の前にいた男たちが振り返りました。革鎧に剣、肩には魔物の牙の首飾り。この国で最も景気のいい職業の方々です。


「相変わらず骨くせえな。今日は何本磨いてきたんだ?」


「三十一本でございます。おはようございます」


「はは、まじめに答えんな」


彼らに悪意はございません。たぶん。


ギルドの査定板には、わたくしの登録情報が貼り出されたままです。十三の年、形式上登録だけはいたしました。


──────────

ヴェルナ・ドラグホルム

職位:未定(非戦闘)

筋力E 魔力E 耐久E 敏捷E

スキル:【鑑定(骨限定)】【記録】

備考:討伐実績なし

──────────


「ハズレ二種持ち」


十九年、ずっとそう呼ばれてまいりました。


【鑑定】はよろしいのです。素材の真贋、魔物の等級、宝物の価値。冒険者にとっては垂涎のスキル。ですが、わたくしのそれには括弧がついております。


(骨限定)


骨しか視えません。鉄も、宝石も、布も、薬草も。何ひとつ。


【記録】に至っては、見たものを忘れないというだけ。攻撃も防御も回復もいたしません。


「なあ嬢ちゃん、そのハズレスキル、いつまで持ってんだ? 神殿で振り直してもらえば」


「専門職ですので」


わたくしは軽く会釈して、歩き出しました。


――ええ。専門職です。


前世の職場にも、こういう方はいらっしゃいました。「で、それって何の役に立つんですか?」と悪びれず聞いてくる方。


わたくしは答えました。「五十年後に、誰かが困らないためです」と。


誰も納得してくれませんでしたけれど。


坂を下り、市壁の外へ。街道を一刻ほど歩くと、低い丘の連なりが見えてまいります。


竜墓。


三百年前、大陸中の竜が自ら集い、自ら死に、自ら骨を差し出したと伝えられる場所。その麓に、ドラグホルム伯爵邸はございます。


屋敷と呼ぶのもおこがましい、石造りの古い館。塗り直されていない壁、軋む床板。竜墓の湿気が、何もかもを早く傷めるのです。


「お嬢」


玄関で、ハンネが腕まくりのまま待っておりました。家令兼侍女長、四十歳。がっしりした肩、まな板みたいな手のひら。


「城から早馬が来ました。……婚約破棄だそうで」


「ええ」


「あの金髪の坊ちゃん」


ハンネは、ごきりと首を鳴らしました。


「骨に触って、指が溶けりゃいいんだ」


「ハンネ」


「言いましたよ。お嬢の前で言わないって決めてましたけど、言っちまった」


彼女はエプロンで顔をこすりました。十二年間、夜明け前に王城へ向かうわたくしのために、毎朝スープを温め続けてくれた人です。


唯一の、目撃者。


「スープ、温まってますよ。今日はちゃんと、夕方に食べられますね」


「……ええ」


変な感じでした。


夕方に、温かいスープを飲む。十二年ぶりでございます。


その夜、わたくしは書斎にこもりました。


壁一面の棚。そこに並ぶのは、十二年分の帳面。背表紙には几帳面な数字。


『竜骨王座維持管理台帳 第壱巻 〜 第四十八巻』


一冊目を開きます。七歳の字。まだ線が震えております。


『第一番。頭蓋前頭骨。供出竜〈ソルヴェイ〉。貸与年:建国元年。帰属:ドラグホルム家』


帰属。


わたくしは、ゆっくりと息を吸いました。


前世の職場で、わたくしが最もうるさく言われたことがございます。


『所蔵品と、寄託品は、絶対に分けて記録すること』


寺の宝物蔵には、寺の持ち物と、檀家から預かっているだけの物が混ざっておりました。ごちゃ混ぜに管理していると、何十年か経ったとき、誰も区別できなくなるのです。


だから、分けて書く。所有者と、預かった日付と、返却条件を。


七歳のわたくしは、その癖のまま、竜骨の台帳をつけ始めました。


三百十二本。一本ずつ。


王家の所有か。ドラグホルム家からの貸与か。


ページをめくる。めくる。めくる。


指が、最後の集計表で止まりました。


『王家所有 百三本』

『ドラグホルム家貸与 二百九本』


……あら。


わたくしは、机の端に置いてあった古法典の写しを引き寄せました。背表紙がぼろぼろの、父の遺品。


第七条。


『竜墓守りの血が王家より離れし時、貸与されし骨は墓所へ帰すものとする』


蝋燭の炎が、ちろりと揺れました。


わたくしは、鉛墨を取り出します。


新しいページに、こう書きました。


『棚卸し予定日:本日より三日後』


――はい。


退職にあたり、ひとつだけ、残務がございました。


──────────


翌朝、わたくしは台所で粉をふるっておりました。


「おい、お嬢」


ハンネが戸口で腕を組んでおります。


「朝の四時に起きる癖、抜けてないんですね」


「十二年ですので」


「で、何作ってるんです」


「パンケーキを」


小麦粉に卵、蜂蜜。そこへ、小瓶から白い粉をひとつまみ。


竜骨粉です。磨きの際に出る微細な削り屑を、わたくしが十二年かけて集めたもの。王家の資産ではございません。『作業副産物』として、きちんと帳面に記載してございます。


――帳面に書いてあるものは、誰のものかが決まっている。


それが台帳の、唯一にして最大の力です。


焼き上がったパンケーキを皿に三枚重ね、蜂蜜を垂らして、わたくしは二階へ上がりました。


「トビアス、起きていますか」


「ねえさま!」


ベッドの上で、小さな体が跳ね起きます。八歳の弟、トビアス。竜墓守り家系特有の『骨魔力過敏』を持って生まれ、青白い頬と細い手首をしております。


でも、目だけはよく光るのです。


「わ、パンケーキだ。今日おうちにいるの?」


「ええ。しばらくおります」


「ずっと?」


「……ええ。ずっと」


トビアスはフォークを握って、三枚のうち一枚を半分食べました。それだけで、彼にとっては大仕事です。


「ねえさま」


「はい」


「お城にはもう行かないの?」


手が、止まりました。


窓の外では、朝霧が竜墓の丘を這っております。十二年間、わたくしはこの時刻には王城の地下、王座の真下におりました。暗闇の中で蝋燭を立て、骨の表面に指を這わせ、罅を数え、魔力を流し、記録する。


誰も見ていない。誰も褒めない。誰も読まない。


それでもよかったのです。だって、前世のわたくしもそうでしたから。


木の柱の裏側に、職人の名前と年号が小さく彫ってあるのを見つけたとき、わたくしは泣きました。四百年前の誰かが、誰にも見えない場所に、自分がここにいたと書き残していた。


わたくしはそれを、台帳に書き写しました。


記録とは、未来の誰かを信じる行為です。


でも。


でも、未来の誰かが、十二年経っても、誰も読まなかったら。


「ねえさま、泣いてる?」


「いいえ」


わたくしは弟の髪をなでました。細い、柔らかい髪。


「トビアス。わたくしね、婚約を破棄されたのです」


「……王子さまに?」


「ええ。『骨を磨くしか能のない女は要らない』と」


トビアスは、しばらく黙っておりました。


それから、びっくりするほど静かな声で言いました。


「ねえさまの帳面、ぼくは全部読んだよ」


「え」


「ぜんぶ。四十八冊。ベッドから出られないから、することないんだもん」


フォークを置いて、彼はわたくしを見上げます。


「第一番、頭蓋前頭骨、ソルヴェイ。第二番、頭蓋頭頂骨、ソルヴェイ。第三番、下顎骨、エイルファ。第四番……」


「トビアス」


「ぜんぶ覚えてる。三百十二本。ねえさまが毎晩読み上げてくれたから」


子守唄代わりでした。眠れない弟に、わたくしは帳面を読み聞かせていたのです。数字と、骨の名前と、竜の名前を。


「だからね、ねえさま」


トビアスは、にこりと笑いました。


「ねえさまの字は、ひとりぼっちじゃないよ」


――ああ。


わたくしは、十二年分を、たぶんこの瞬間に許されたのだと思います。


「ねえ、ねえさま。じゃあ、もうお城を助けないの?」


顔を上げました。


朝の光が、窓から差し込んでおります。


「ええ」


わたくしは、はっきりと申しました。


「もう助けません」


十二年。


一日も休まず。熱を出した日も、父の葬儀の翌朝も、わたくしは王座の下に潜りました。罅を止め、腐敗を抑え、魔力を注ぎ、記録しました。


それを「誰でもできる簡単な作業」とお呼びになった。


でしたら。


どうぞ、誰かにおやりいただければよろしいかと存じます。


「ハンネ」


階下へ声をかけました。


「今日から、わたくしは王城へ参りません。朝のスープは、通常の時刻でけっこうです」


「……へえ」


「それと」


わたくしは袖口から鉛墨を抜きました。


「大神殿へ使いを。古法典原本の閲覧を申請いたします。第七条、及び建国時の竜骨貸与契約の写し」


階段の下で、ハンネが長く息を吐く音がしました。


「お嬢」


「はい」


「……あたし、包丁研いでていいですか」


「包丁は料理にお使いください」


わたくしは微笑みました。


「わたくしは、帳面で参ります」


──────────


その日の午後、わたくしは竜墓へ下りました。


王城の王座を整えることはもうありませんが、竜墓そのものの管理は、ドラグホルム家の仕事として残っております。石段を百八十段。蝋燭を掲げ、湿った空気を下って。


三百年前、竜たちが集って死んだ場所。


壁には竜の浮き彫り。床には、骨を運び出した際の擦過痕。わたくしはそれらの位置も、全部帳面に記しております。


最奥の広間に着いたときでした。


「おい」


「……は?」


「おい、と言っておる」


床が、持ち上がりました。


正確には、床だと思っていた巨大な石板が、内側から押し上げられたのです。砂埃が舞い、蝋燭の炎が横倒しになります。


隙間から、白銀の頭が出てまいりました。


青灰の角。縦に裂けた金の瞳。二十代半ばほどの、恐ろしく整った顔立ちの青年。


その体は、腰から下がまだ石の下に埋まっております。


「わ、我は三百年ぶりに起きたのだぞ」


青年は、わたくしをじろりと睨みました。


「誰も話しかけてこぬのだぞ」


「…………」


「無視をするでない! 我は竜ぞ! 最後の竜ぞ!」


【鑑定(骨限定)】が、勝手に発動いたしました。


──────────

対象:竜骨(生体・完全・未供出)

個体名:ザハラク

状態:覚醒直後/三百年の封印摩耗あり

備考:本台帳に未記載。番号なし。

──────────


わたくしは、ゆっくりと膝を折りました。


「失礼いたしました。ドラグホルム伯爵家が長女、ヴェルナと申します。竜墓守りの家の者でございます」


「……知っておる」


青年——ザハラク様は、ふいと目を逸らしました。


「毎朝、我の上の床で、ぶつぶつ言うておったであろう」


「……はい?」


「『第百四十一番、左翼第二指節、供出竜ヴァイラ、表面に微細な乾燥痕、油分補充』だの、『第二百七番、肋骨第十一、昨日より罅の進行なし、良好』だの」


わたくしは、息を呑みました。


王座の下。わたくしが十二年、毎朝独り言を呟いていたあの場所。


その真下に、竜墓の最深部が通じていたのです。地図には載っていない。わたくしの帳面にも、書けていない。


「お、お聞きになっていたのですか」


「他にすることがなかったのだ!」


ザハラク様は、ばしん、と石板を叩きました。砂埃がまた舞います。


「三百年だぞ。三百年、我は暗闇で、ただ一人であったのだ。兄弟たちは皆、自ら死んで骨をくれてやった。人間を愛していたからだと。馬鹿馬鹿しい。我は反対した。ゆえに我だけが残り、ゆえに我だけが封じられた」


声が、だんだん小さくなります。


「……そのうち、上で誰かが喋り出した。小さな、女の子の声だった」


金の瞳が、ちらりとわたくしを見ます。


「最初は泣いておったな。暗い、怖い、と」


「……七歳でしたので」


「だがそのうち、数を数え始めた。毎朝だ。雪の日も、嵐の日も。お前は一度も来なかった日がなかった」


「…………」


「我は、兄弟の骨の名を、お前の口から知った」


ザハラク様は、顔をそむけました。角の先が、ほんのり赤くなっているように見えます。


「ソルヴェイ。エイルファ。ヴァイラ。ギムル。……三百年、誰も呼ばなかった名だ。人間は骨を『椅子』と呼んだ。番号すらつけなかった」


「……番号は、つけておりました」


「お前がな」


彼は、こちらを見ました。


「お前の帳面の声だけが、我の三百年だった」


蝋燭が、じじ、と鳴りました。


わたくしは、立っていられませんでした。膝が石床についていて助かりました。


――ああ。


読んでくださった方が。


十二年。いいえ、前世からずっと。誰も読まない記録を書き続けて、それでいいと思っていて、それでもたぶん少しだけ寂しくて。


「お、おい」


ザハラク様が慌てた声を出します。


「な、なぜ泣く。我は何も悪いことは言うておらぬぞ。言うておらぬであろう?」


「いいえ」


わたくしは袖で目元を拭いました。


「失礼いたしました。少々、感極まっただけでございます」


「ふ、ふん。人間は脆いな」


「ザハラク様」


「ザハラクでよい。……様をつけられたのも、三百年ぶりだがな」


「ザハラク様。ひとつ、お伺いしてよろしいでしょうか」


わたくしは立ち上がり、懐から帳面を取り出しました。表紙には『棚卸し準備』とだけ。


「三日後、わたくしは王城で、ある手続きを行います」


「手続き?」


「返却でございます」


竜の瞳が、ゆっくりと細くなりました。


「……骨を、か」


「古法第七条。『竜墓守りの血が王家より離れし時、貸与されし骨は墓所へ帰すものとする』。三日前、わたくしは婚約を破棄されました。貸与契約は、既に失効しております」


わたくしは帳面を開きます。


「二百九本。お兄様方を、お返しいたします」


静寂。


それから。


「……ふ」


ザハラクが、笑いました。喉の奥で、低く、長く。


「ふはははは! よい! よいぞ人の子! あやつらは我の兄弟を椅子にした! 三百年、尻の下に敷いたのだ!」


「お静かに。天井が崩れます」


「我も行く!」


「それは——」


「連れていけ!」


彼は石板を押しのけて、ついに全身を出しました。思いのほか背が高く、思いのほか肩幅が広く、そして。


裸足でした。


「……ザハラク様」


「なんだ」


「人前に出られるのでしたら、まず衣服をご用意いたしましょう」


「む」


「それと、靴を。竜墓の石段は冷えますので」


竜は、ぽかんとした顔をいたしました。


三百年ぶりに心配をされた顔、というものを、わたくしはこのとき初めて見たのだと思います。


──────────


ヴェルナ・ドラグホルムが王城を去って、十日目の朝。


玉座の間に、音が響いた。


低く、長く、床を這うような音。獣の呻きに似ていた。


「……なんだ、今の」


アルベリク王太子は、朝の謁見のために入室したところだった。扉のそばで立ち止まり、眉をひそめる。


「鳥か? 風か?」


「殿下」


侍従の声が震えていた。


「王座を……ご覧ください」


三百十二本の竜骨を組み上げた、王国の象徴。


その左前脚部分——かつて乳白色に脈打っていた骨の表面に、黒い筋が走っていた。


一本ではない。幾筋も。蜘蛛の巣のように。


「罅だと?」


「は、はい。昨日までは、ここまでは……」


「磨かせろ。誰かいるだろう、磨き係が」


「それが、三人とも倒れまして」


「は?」


侍従は言葉を選びながら言った。


「骨に触れた者の……魔力を、吸うのです。一人目は二刻で意識を失い、二人目は指先が白く変色し、三人目は——」


「そんな馬鹿な話があるか!」


アルベリクは声を荒らげた。


「骨を磨くだけだぞ。布で擦ればいいだけの、誰にでもできる作業だろう!」


「……殿下」


宰相ギーゼル・マルクヴァートが、片眼鏡を押し上げながら進み出た。顔色が悪い。


「『誰にでもできる』と、我々は何を根拠に判断していたのでしょうか」


「なに?」


「ヴェルナ嬢は十二年間、毎朝夜明け前に、王座の真下へ潜っておりました。殿下は、一度でも見に行かれたことが?」


アルベリクは答えなかった。


無い。一度も無い。


そんなものを見に行く理由が、どこにあるというのか。彼にとって王座は、生まれたときからそこにある家具だった。朝になれば磨かれていて、夕になれば光っている。誰がどうやっているかなど、考えたこともなかった。


「わたくしが!」


明るい声が、場を切り裂いた。


ミレイユ・フォンテが、ドレスの裾を持ち上げて駆け寄ってくる。


「わたくしが浄化いたしますわ! 黒く汚れているのでしょう? 光魔法で綺麗にできますもの」


「ミレイユ嬢、お待ちを——」


宰相の制止は、間に合わなかった。


白い手が、王座へ向けられる。


「《浄化》!」


黄金の光が、竜骨を包んだ。


一瞬、美しかった。


次の瞬間、


王座が、叫んだ。


人の声ではない。骨そのものが震え、空気を裂き、ガラスのような悲鳴を上げた。窓が割れた。燭台が倒れた。衛兵が耳を押さえて膝をついた。


光が消えたあと。


十七本の骨が、黒く焦げていた。


乳白色の艶は失われ、炭のような質感に変わり、触れる前からぼろぼろと粉を落としている。


「……え?」


ミレイユは、自分の手を見た。


「え、どうして? わたくし、綺麗にしようとしただけですわ。汚れを落とそうと、善いことをしようと」


「ミレイユ嬢」


ギーゼルの声が、氷のようだった。


「竜骨は、死んだ素材ではありません」


「……え?」


「生きた骨です。微弱ながら生命反応を保っている。浄化魔法は、生命反応を『不純物』として焼きます」


「そ、そんなの知らないわ! 誰も教えてくれなかったもの!」


宰相は、答えなかった。


代わりに、踵を返した。


「閣下? どちらへ」


「執務室だ」


彼は早足で廊下を進んだ。片眼鏡が汗で滑る。


執務室の、最も奥の棚。十二年分の、埃をかぶった報告書の束。


『竜骨王座維持管理報告書』


封蝋が、切られていない。


一冊も。


一冊も、だ。


震える指で、最新のものを裂いた。几帳面な、小さな字が並んでいた。


『注記(第十二年・再掲):竜骨は生体素材である。光属性の浄化魔法は生命反応を不純物として処理するため、使用した場合、骨は不可逆的に壊死する。復元手段は現在存在しない。該当魔法の使用を、王座周辺において厳に禁ずること。――初出:第一年次報告書 第三十四項』


第一年次。


十二年前。


七歳の少女が、既に書いていた。


ギーゼルは、椅子に座り込んだ。


ページの余白に、回覧印が押してある。


自分の印だけが。


上司も、部下も、誰も押していない。回覧は、自分のところで止まっていた。


『竜墓守りの帳面など、伯爵家の自己満足だ』


そう判断して、十二年。


「……私が」


彼は、顔を覆った。


「私が、止めたのか」


──────────


その夜、宰相ギーゼル・マルクヴァートは、単騎で街道を駆けた。


竜墓の麓。古い石造りの館。


扉を叩くと、腕まくりの侍女長が出てきて、彼の顔を見るなり鼻で笑った。


「おや、宰相閣下。こんな夜更けにどうしました」


「ヴェルナ嬢に、お目通りを」


「お嬢はお休みです」


「頼む」


ギーゼルは、頭を下げた。深く、腰から。王国宰相が、伯爵家の家令に向かって。


「……どうか」


背後で、足音がした。


「ハンネ、よろしいのです」


灰銀の髪を下ろしたヴェルナが、燭台を手に立っていた。寝間着の上にショールを羽織り、片手には——やはり、帳面を抱えている。


「閣下。お顔の色が優れませんね」


「……伯爵令嬢」


ギーゼルは、もう一度頭を下げた。


「私が間違っていた。十二年分の報告書を、今夜すべて読んだ。……どうか、戻ってきてはくれまいか」


沈黙。


ヴェルナは、燭台をそっとテーブルに置いた。


そして、微笑んだ。


「お断りします」


「……そう、か」


「ただし」


彼女は、帳面を開く。


「ひとつ、業務が残っております」


「業務?」


「棚卸しです」


宰相は、顔を上げた。


片眼鏡の奥で、瞳が大きく見開かれていた。


──────────


大神殿の文書庫は、地下三層にございました。


「……五十年だ」


大神官ソルミナ様が、震える手で封印の紐を解いておられます。七十三歳。曲がった背、白濁しかけた目。けれど、その指は正確でした。


「五十年ぶりに、この棚を開ける者が来た」


「五十年、どなたも?」


「誰も。古法の原典を読める者が、もうおらんのだ。わしと、あと二人おったが、二人とも死んだ」


老婆は、黄ばんだ羊皮紙を慎重に広げました。


「建国時の竜骨貸与契約。――ほれ、ここだ。嬢ちゃん」


わたくしは覗き込みました。


古語で書かれた条文。その横に、三百年前の筆跡の注記が並んでおります。


『第七条 竜墓守りの血が王家より離れし時、貸与されし骨は墓所へ帰すものとする』


そして、その下。


『附則 貸与骨の目録は、代々の竜墓守りがこれを記し、継ぐものとする。目録を欠くとき、返却の範囲は定まらず』


……目録を欠くとき、返却の範囲は定まらない。


つまり。


帳面が無ければ、この条文は死んでいた。


「三百年、誰も目録をつけとらんかったのだよ」


ソルミナ様が、しわがれた声で言いました。


「わしが知る限り、きちんと分類して継いだのは、嬢ちゃんの家だけだ。……いや、嬢ちゃんだけだ。父君の代の帳面は、通し番号すら飛んでおった」


「……父は、忙しい人でしたので」


「嬢ちゃん」


老婆は、白濁した目でわたくしを見上げました。


「なぜ、書いた」


「……は?」


「誰も読まん。誰も褒めん。十二年。朝の四時に起きて、暗がりで、たった一人で。なぜ書いた」


わたくしは、少し考えました。


それから、正直に申し上げました。


「前世の癖でございます」


「ほう」


「驚かれないのですね」


「この歳になるとな、転生者の一人や二人、珍しくもない。……で、どんな前世だった」


「文化財の修復と、宝物台帳の管理を」


わたくしは、記憶をたどりました。


「寺の蔵に、四百年前の木箱がございました。中身は何も入っていない、ただの空箱です。誰も価値を認めませんでした。処分しようという話も出ました」


「ふむ」


「でも、蓋の裏に小さく書いてあったのです。『天保七年、修理。大工・源蔵』と」


老婆は、黙って聞いておられます。


「四百年前の誰かが、誰にも見えない場所に、自分がここにいたと書き残していた。わたくしはそれを台帳に写しました。ですからその箱は、今も蔵にございます。……たぶん」


蝋燭が、ゆらりと揺れました。


「わたくしは、その日に知ったのです。記録とは、未来の誰かへの手紙なのだと」


「……ふ」


ソルミナ様が、笑いました。


皺だらけの顔が、くしゃりと崩れます。


「記録とはな、嬢ちゃん」


「はい」


「未来の誰かを信じる行為だ」


老婆は、羊皮紙を撫でました。三百年、誰も問い合わせに来なかった棚。彼女が五十年、埃の中で守り続けた棚。


「わしは、信じ続けとった。いつか誰かが、この棚を開けに来ると」


「……お待たせして、申し訳ございません」


「よい。来おったからな」


彼女は、封印用の神殿印を取り出しました。


「照合済証を出そう。嬢ちゃんの帳面四十八巻と、この原典を突き合わせた。――三百十二本。王家所有百三本、ドラグホルム家貸与二百九本。一本の齟齬もない」


印が、重く押されます。


「嬢ちゃん」


「はい」


「当日は、わしも行く。条文は、読める者が読み上げねば意味がない」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。五十年ぶりの出番だ。老いぼれにも華を持たせておくれ」


帰り際、わたくしは階段の下で立ち止まりました。


「ソルミナ様。もうひとつだけ、お伺いしても」


「なんだ」


「竜墓の最深部に、封じられていた竜がおりました。供出を拒んだ最後の一体です」


「ザハラクか」


「……ご存じでしたか」


「記録にはある。番号は振られておらん」


老婆は、ふと遠い目をいたしました。


「嬢ちゃん。ひとつ、わしも気になっておることがあってな」


「はい」


「大葬の記録によると、集まった竜は三百十三体だった」


……三百十三。


骨は三百十二本。


ザハラクを入れて、三百十三。


「数は合うておるな」


「ええ」


「だがな」


ソルミナ様は、ゆっくりと首を振りました。


「竜墓の最深部には、まだ数えられておらん骨が、一本ある」


蝋燭の炎が、消えかけました。


「……誰の骨でございましょう」


「さあな」


老婆は、にやりと笑いました。


「嬢ちゃんが、数えておくれ。――棚卸しが済んだあとでな」


──────────


棚卸し当日の朝、ハンネがわたくしの髪を結い上げました。


「紅を差します」


「必要でしょうか」


「十二年、一度も差してないでしょうが」


彼女の太い指が、驚くほど器用に動きます。


「あの坊ちゃんはね、お嬢」


「はい」


「お嬢のこと、一度もちゃんと見たことがないんですよ。だから今日は、見せてやりなさい」


鏡の中に、知らない令嬢がおりました。灰銀の髪を結い上げ、紅を差し、黒の礼装を着た女。手にはただ一つ、古い帳面。


「……武器を持った気分ですね」


「そりゃあ武器ですよ」


ハンネが笑いました。


「四十八巻分の」


──────────


玉座の間は、惨状でございました。


黒く焦げた骨。崩れかけた支柱。空気に満ちる、腐敗の匂い。十七本の壊死骨が、呼吸のようにぼろぼろと粉を落としております。


アルベリク殿下は、玉座の前に立っておられました。顔色が紙のよう。隣のミレイユ様は、目を真っ赤に泣き腫らしております。


わたくしは、入り口で深く礼をいたしました。


「ドラグホルム伯爵家、ヴェルナ・ドラグホルムでございます。本日は、棚卸しに参りました」


「ヴェルナ!」


殿下が駆け寄ってこられます。


「戻ってきたか! よし、すぐに直せ。この黒いやつを、元に——」


「殿下」


わたくしは顔を上げました。


「わたくしは、修復に参ったのではございません」


「は?」


「返却に参りました」


帳面を開きます。


乾いた紙の音が、広間に響きました。


「ご説明すべき点が、三点ございます」


──────────


「一点目」


わたくしは、集計表のページを示しました。


「この王座を成す竜骨は、三百十二本。このうち王家の所有物は、百三本でございます」


「……百三?」


「残り二百九本は、ドラグホルム家からの貸与品です」


殿下の口が、半分開きました。


「な、何を馬鹿な……! 王座は王家のものだ! 建国以来!」


「建国以来、貸与でございます」


わたくしはページをめくります。


「貸与契約の根拠は、建国時の古法第七条および附則。写しは大神殿文書庫に保管されております。本日、照合済証を持参いたしました」


「ソルミナ大神官」


宰相閣下が、静かに声をかけました。


曲がった背の老婆が、ゆっくりと進み出ます。震える手で、羊皮紙を掲げました。


「読み上げる」


声が、思いのほか大きく響きました。


「古法第七条。『竜墓守りの血が王家より離れし時、貸与されし骨は墓所へ帰すものとする』」


「……」


「附則。『貸与骨の目録は、代々の竜墓守りがこれを記し、継ぐものとする』」


老婆は、ぎろりと殿下を見上げました。


「目録は、ここにある」


──────────


「二点目」


わたくしは、次のページを開きました。


「十三日前、殿下はわたくしとの婚約を破棄なさいました。これにより、竜墓守りの血は王家より離れております」


「……それが、どうした」


「貸与契約は、既に失効しております」


「……」


「厳密に申し上げますと、婚約破棄宣言の当日、零時をもって。本日で十三日が経過しております」


広間が、しんと静まりました。


「う、嘘だ」


殿下の声が裏返ります。


「そんな条文、聞いたこともない!」


「報告書に、毎年記載しております」


「読んでないぞ!」


「存じております」


――はい。そうですよね。読んでませんよね。回覧印だけはきっちり押してありましたけど。


「ギーゼル! 嘘だと言え!」


宰相閣下は、羊皮紙を受け取り、震える指で条文をなぞっておられました。


長い、長い沈黙。


そして。


「……事実です、殿下」


それだけ。


アルベリク殿下の顔から、色が消えました。


──────────


「三点目」


わたくしは、最後のページを開きました。


「十日前、ミレイユ様が王座に光属性の浄化魔法を行使されました。これにより、竜骨十七本が壊死しております」


「ひっ」


ミレイユ様が、小さく息を呑みます。


「竜骨は生体素材であり、浄化魔法は生命反応を不純物として焼却いたします。復元手段は存在いたしません。本件は、第一年次報告書第三十四項にて注意喚起済みでございます」


「わ、わたくしは」


「損害額は、金貨四万二千枚」


広間がざわめきました。衛兵が、息を呑む音まで聞こえます。


「な、なんという額だ……!」


「なお」


わたくしは、淡々と続けました。


「壊死した十七本は、すべて『王家所有の百三本』ではなく、『当家の貸与品二百九本』から出ております」


「……」


「預かり物を、壊されました」


紙を一枚、差し出します。


「請求書は、こちらに」


「し、知らなかったのよ!」


ミレイユ様が、ついに叫びました。


「そんなの誰も教えてくれなかったもの! わたくしはただ、綺麗にしてあげようと思っただけ! 善意だったの! 善意なのに、どうしてわたくしが責められるの!?」


わたくしは、彼女を見ました。


十七歳。蜂蜜色の巻き毛。大きな緑の瞳。誰からも可愛がられ、誰からも許されてきた顔。


――ええ。たぶん、この方は本当に善意なのでしょう。


前世の職場にも、いらっしゃいました。良かれと思って、四百年前の木材をぴかぴかの新品ニスで塗ってくださった方が。


あのとき、わたくしは泣きながら、結局こう言ったのです。


「ええ」


わたくしは、静かに申し上げました。


「わたくしの帳面を、どなたも読んでくださいませんでしたから」


──────────


ミレイユ様は、へたりと床に座り込みました。


殿下は、何も言いませんでした。


「では」


わたくしは、帳面を持ち直しました。


「返却の儀を執り行います」


「ま、待て」


殿下が、かすれた声を出します。


「待ってくれ。頼む。……王座が無くなったら、どうなる」


「座る場所が、無くなりますね」


「そういうことではなく!」


「殿下」


わたくしは、小首を傾げました。


「骨を磨くだけの、誰にでもできる簡単な作業なのでしょう?」


「っ」


「では、どなたかにおやりいただけばよろしいかと存じます。――ああ、三名ほど倒れられたとか。お大事になさってください」


一礼。


「読み上げます」


わたくしは、帳面の一ページ目を開きました。


七歳の、震える字から。


「第一番。頭蓋前頭骨。供出竜――ソルヴェイ」


王座が、光りました。


──────────


「第二番。頭蓋頭頂骨。ソルヴェイ」


光が、骨から立ち上ります。


「第三番。下顎骨。エイルファ」


王座の一部が、ふわりと浮きました。重さを失ったかのように、乳白色の骨が宙に漂います。


「第四番。頸椎第一。エイルファ」


「や、やめろ!」


殿下が手を伸ばします。骨に触れた瞬間、悲鳴を上げて跳びのきました。指先が、白く霜を吹いています。


「第五番。頸椎第二。エイルファ」


わたくしは、読み続けました。


数えた分だけ。記録した分だけ。


十二年、暗がりで一人、誰にも聞かれずに呟き続けた名前を。


「第四十一番。右肩甲骨。ヴァイラ」


「第六十八番。胸骨体。ギムル」


「第九十四番。左大腿骨。ネイト」


骨が、一本ずつ、天井へ昇っていきます。


窓を抜け、空へ。竜墓の方角へ。


「第百四十一番。左翼第二指節。ヴァイラ」


――ああ、これは。


毎朝、わたくしが真っ先に触れていた骨。一番罅が入りやすく、一番手がかかり、一番長く話しかけていた骨。


「……長らく、お世話になりました」


光が、優しく揺れました。


「第二百九番。尾椎第十四。ソルヴェイ」


最後の一本が、昇りました。


──────────


沈黙。


玉座の間に残ったのは、百三本。


ばらばらの骨。構造を失い、支えを失い、もはや何の形も成していない骨の山。


王座は、そこに無くなりました。


「……あ」


殿下が、よろめきます。


「……あ、あ」


残骸の前で、膝をつきました。


金髪碧眼、歩き方まで訓練された見栄えのよい青年が、骨屑の中に座り込んでおります。


そのとき。


床が、震えました。


「——!」


衛兵たちが槍を構えます。


広間の石床が、内側から割れました。砂埃。悲鳴。そして。


白銀の髪が、下から現れました。


青灰の角。縦に裂けた金の瞳。


ザハラクが、三百年ぶりに地上に立ちました。


わたくしがご用意した黒い外套を羽織り、きちんと靴を履いて。


「——ひ」


ミレイユ様が、床を這って後ずさります。


竜は、広間を見渡しました。崩れた王座を。骨屑を。震える人間たちを。


そして、ゆっくりと口を開きました。


「三百年前」


声が、空気を揺らします。


「我が兄弟たちは、人を愛して骨を差し出した」


「……」


「ソルヴェイは、人間の子に歌を教えた。エイルファは、人間の船を嵐から守った。ヴァイラは、人間の畑に雨を降らせた。ギムルは、人間の戦を止めた」


竜の瞳が、玉座の残骸に向きます。


「我は反対した。人間は、受け取ったものを忘れる生き物だからだ」


金の瞳が、アルベリクを見下ろしました。


「兄弟たちは笑った。『忘れられてもよい。覚えていてもらうために与えるのではない』と」


「……」


「美しい言葉だな。我は吐き気がしたがな」


ザハラクは、一歩進みました。


「そして三百年」


「……」


「お前たちはそれを、椅子と呼んだな」


誰も、何も言えませんでした。


「名も呼ばず。数も数えず。尻の下に敷いて、磨く者を『骨の匂いがする女』と嘲り、磨かせておきながら『誰にでもできる』と言った」


竜の背後で、黒い影が揺らぎました。翼の形に。


「我は三百年、憎んでおった」


「——だが」


彼は、ふと、こちらを見ました。


金の瞳が、少しだけ和らぎます。


「毎朝、床の上で名を呼ぶ声があった」


「……」


「ソルヴェイ。エイルファ。ヴァイラ。ギムル。――三百年、誰も呼ばなかった名だ」


竜は、ゆっくりと息を吐きました。


「人間の中に、一人だけ、数える者がおった」


「ゆえに我は、今日お前たちを焼かぬ」


影が、消えました。


「感謝せよ。……いや、せずともよい。お前たちは、どうせ忘れる」


──────────


わたくしは、帳面を閉じました。


「以上をもちまして、棚卸しを完了いたします」


一礼。


「なお、請求書の支払い期限は三十日後でございます。分割払いをご希望の場合は、書面にてお申し出ください。利息は年五分、古法第十九条に基づきます」


「……ヴェルナ」


アルベリク殿下が、顔を上げました。


初めて。


本当に初めて、彼はわたくしを見た気がいたしました。


「お前は、毎朝」


「はい」


「毎朝、あの下に潜って、これを……十二年」


「はい」


「……なぜだ」


わたくしは、少し考えました。


「お仕事でしたので」


それから、小さく付け加えました。


「それと、骨が可哀想でしたから」


殿下は、何も言いませんでした。


わたくしは、踵を返しました。


後ろで、ザハラクが鼻を鳴らす音がします。


「行くぞ、人の子」


「ヴェルナでございます」


「ヴェルナ。……腹が減った」


「パンケーキでよろしければ」


「蜂蜜はかかっておるか」


「かかっております」


「ならば行く」


最後の竜が、わたくしの隣を歩き出しました。


扉が開き、朝の光が差し込みます。


わたくしは、一度だけ振り返りました。


骨の山と、そこに座り込んだ元・婚約者。


――はい。


十二年分の引き継ぎ、完了でございます。


お疲れ様でした、わたくし。


──────────


王太子アルベリク・ヴァン・レイガルドは、廃嫡された。


理由は婚約破棄ではない。王国の象徴を失ったことでもない。


『十二年間提出された公式報告書を一度も確認せず、国家資産の帰属を誤認した』


という、ひどく事務的な理由だった。


処分は、竜墓の清掃係として三年の労役。


初日、彼は手袋を渡された。


「素手で触れば魔力を吸われます。三枚重ねて、二刻ごとに交換」


説明したのは、腕まくりの侍女長だった。彼のことを一瞥もしない。


「布は、この油に浸してから。乾いた布で擦ると表面を削ります」


「……は、はい」


「返事はいりません。手を動かしてください」


石段を百八十段、下りる。


竜墓の最奥。そこに、二百九本の骨が静かに横たわっていた。帰ってきた兄弟たち。


アルベリクは、一本の骨の前にしゃがみ込んだ。


左翼第二指節。番号は、第百四十一番。


罅が、三本入っている。


油を含ませた布で、そっと擦る。


擦る。


擦る。


一刻が経った。罅は、まだ三本ある。


二刻が経った。表面の艶が、ほんの少しだけ戻った。


彼は、手を止めた。


手袋の中で、指が痺れている。腰が固まって、立てない。汗が顎から落ちて、石床に小さな染みを作った。


「……一本」


声が、かすれた。


「一本磨くのに、二時間かかるのか」


誰も答えない。


三百十二本。


毎朝、夜明け前。


十二年。


彼は計算をしようとして、やめた。数字が怖かった。


代わりに、ふと、壁を見た。


竜墓の石壁に、小さな刻みがある。無数に。


指でなぞると、それが数字だとわかった。日付。日付。日付。


十二年分の、朝の記録。


誰にも見せるつもりのない、たった一人の出勤簿。


「……ああ」


アルベリクは、骨の前で、額を石床につけた。


謝罪の言葉は、出てこなかった。


彼はただ、理解した。


それだけだった。


──────────


ミレイユ・フォンテの実家は、賠償金で傾いた。


男爵領の森は売られ、屋敷は抵当に入り、彼女は大神殿の下働きに入った。


皿を洗う。床を拭く。鍋を磨く。


白かった手が、三月で赤く荒れた。


あるとき、彼女は竜墓への配給運びを命じられ、そこで清掃係の男とすれ違った。


痩せて、髪が伸びて、手が真っ黒な男。


「……アルベリク様」


「ミレイユか」


二人は、しばらく黙っていた。


「あなたが」


ミレイユが、先に口を開いた。


「あなたが、彼女を捨てなければ」


「お前が浄化しなければ、こうはならなかった」


「わたくしは知らなかったのよ!」


「俺もだ」


「っ——」


彼女は、配給の籠を置いて走り去った。


以降、二人は口を利かなかった。


互いの顔が、自分の罪の形をしていたからだ。


──────────


そして、大神官ソルミナは、ある日の午後に静かに息を引き取りました。


七十三歳。文書庫の机に伏したまま。


手には、わたくしが送った照合済証の控えが握られていたそうです。


余白に、震える字でこう書き添えてありました。


『読む者が、来た』


『わしの五十年も、記録であった』


──────────


竜墓の麓に、小さな工房を開きました。


看板は自作です。板に、焼きごてで文字を入れました。


『竜骨修復・資産台帳作成 承ります』


「地味ですねえ」


ハンネが腕組みをして評します。


「地味なお仕事ですので」


「客、来ます?」


「来ないかもしれませんね」


──来ました。


三日目に、冒険者が駆け込んできたのです。


「竜骨の剣が折れた! 修復できるって本当か!?」


「拝見いたします」


わたくしは【鑑定(骨限定)】を発動しました。


──────────

対象:竜骨(加工品・亜竜種・幼体)

損傷:柄側接合部より破断

備考:接着ではなく、骨髄腔への魔力再導通により修復可

──────────


「修復可能でございます。費用は金貨三枚、工期は五日」


「た、助かる! ギルドの鑑定士は『買い替えろ』って言うだけで」


「鑑定士の方々は、金属がご専門ですので」


それ以来、依頼が途切れなくなりました。


折れた竜骨武器の修復。古代遺物の真贋鑑定。ダンジョン産素材の目録作成。


とりわけ最後の仕事が、思いのほか引きが強うございました。


「お嬢、またギルドから。『三十年分の倉庫、何がどこにあるか誰もわからない』って」


「……お引き受けします」


「地獄ですよ、あれは」


「はい。でも、得意分野でございますので」


──ええ。前世で、何度もやりました。


誰も触りたがらない倉庫。誰も作らなかった目録。


それを作れる人間は、少ないのです。少ないから、価値がある。


査定板のわたくしの欄には、今こう書かれております。


──────────

ヴェルナ・ドラグホルム

職位:専門鑑定士(骨素材・特級)

スキル:【鑑定(骨限定)】【記録】

備考:ギルド指定・唯一

──────────


『ハズレ二種持ち』は、消えておりました。


──────────


弟のトビアスは、快復いたしました。


竜骨粉の正式な調薬——ザハラクが「我の鱗を削ってやる、ありがたく思え」と言い出したので、適量を配合いたしました。ちなみに削るとき、彼は二時間泣きました。


「痛いのだぞ! 我は痛いのだぞ!」


「麻酔はお使いになりますか」


「竜に麻酔など不要だ! ……う、うう、やはり使う」


今では、トビアスは工房を手伝っております。インク壺を抱え、小さな手で几帳面に数字を書き込む、見習い台帳係です。


「ねえさま、第四十七番の罅、昨日より〇・二ミリ伸びてる」


「よく気づきましたね」


「ぼく、ねえさまの字、全部読んだもん」


彼は、ザハラクの角によじ登るのが日課です。


初めて竜を見たとき、トビアスは怖がりもせず、こう言いました。


「おっきい猫みたい」


三百年の孤独を抱えた竜は、その場で泣きました。号泣でした。


──────────


そのザハラクは、工房に居座っております。


「ヴェルナ。パンケーキ」


「本日、何枚目でしょうか」


「……二十八枚目だ」


「昨日は三十一枚でしたね」


「我は竜である。小食である」


「そうですか」


「そうだ」


彼は蜂蜜をたっぷりかけて、幸せそうに食べます。頭を撫でると、角の先がほんのり赤くなります。本人は気づいておりません。


「ちょっと、竜」


ハンネがエプロンで手を拭きながら台所から出てきました。


「パンケーキ三十枚分の皿、洗ってから寝なさい」


「我は竜であるぞ!」


「皿洗いのできない竜に、蜂蜜はやりません」


「…………洗う」


王国軍を単独で壊滅させられる存在が、袖をまくって流しに立ちます。


……まあ、幸せそうなので、よいかと存じます。


──────────


宰相ギーゼル閣下は、初めての正式依頼書を携えて、工房に来られました。


「王国全土の、国家資産目録の再編を依頼したい」


「それは、大仕事でございますね」


「三十年はかかるだろう。報酬は応相談だ」


彼は、書類を差し出しながら、片眼鏡の奥で目を伏せました。


「ヴェルナ嬢。ひとつだけ、約束する」


「はい」


「今度は、読みます」


わたくしは、受領印を押しました。


「承りました」


──────────


翌年の春、新王が工房を訪ねてこられました。


アルベリク殿下の従弟にあたる、まだ十七歳の若い王。護衛もつけず、泥だらけの馬に乗って。


「ドラグホルム伯爵令嬢」


彼は、工房の土間で深く頭を下げました。


「お願いに参りました。――『竜骨の王座』を、再建していただけないでしょうか」


わたくしは、作業の手を止めました。


「理由をお伺いしても?」


「王国の権威が、揺らいでいます。周辺諸国が、象徴を失った我が国を侮り始めている。……象徴が必要なのです」


正直な方でした。


「陛下」


わたくしは、鉛墨を置きました。


「造りません」


若い王は、顔を上げました。


「……それは、我々への怒りゆえ、でしょうか」


「いいえ」


わたくしは、窓の外を見ました。


竜墓の丘。そこに、二百九本の骨が静かに眠っております。毎月、わたくしとトビアスが磨きに行く骨。


「王座は、骨では支えられないからでございます」


「……」


「三百年、あの王座を支えていたのは、三百十二本の骨ではございません。毎朝、夜明け前に潜って罅を数えていた、誰かの手でございます」


「……」


「そしてその手は、代替可能ではございませんでした」


若い王は、長く黙っておりました。


それから、小さく頷きました。


「……仰る通りです」


「ですが」


わたくしは、微笑みました。


「椅子ならお作りしますよ。木でね」


「木?」


「樫がよろしいかと。硬くて、よく粘ります。きちんと手入れをすれば、三百年は保ちます」


「三百年」


「はい。ただし、条件がございます」


わたくしは、帳面を一冊、取り出しました。新品の、何も書かれていない帳面。


「毎年、手入れの記録をつけてください。誰が、いつ、どこを直したか。木目のどこに罅が入ったか」


「……私が、ですか」


「陛下が。あるいは、陛下の次の方が。その次の方が」


わたくしは、帳面を差し出しました。


「読まれない記録は、ただの紙でございます。ですが、読む人がいる記録は、三百年を繋ぎます」


若い王は、両手で帳面を受け取りました。


「……承知しました」


彼は、帳面を胸に抱えました。


「毎年、書きます。そして、読みます」


「では、お引き受けいたします」


わたくしは、立ち上がりました。


「納期は一年。樫材の選定から始めますので、まずは山へ参りましょう」


「山へ?」


「ええ。木は、立っているうちに見ておかないと、わかりませんので」


──────────


王が帰られたあと、わたくしは新しい帳面を取り出しました。


『木製玉座 製作台帳 第壱巻』


表紙に、そう書き入れます。


表紙を閉じ、一度深呼吸をして、一ページ目を開きました。


……あら。


書いてありました。


真新しいはずの、誰も触っていないはずの一ページ目。


その一行目に、古めかしい、角張った筆跡で、こう記されております。


『ようやく来たな、記録の娘』


「——」


インクは、乾いておりました。ずいぶん昔に。少なくとも、百年以上前に。


「ヴェルナ」


ザハラクが、戸口から顔を出します。パンケーキの皿を手に。


「どうした。顔が白いぞ」


「……ザハラク様」


「なんだ」


「大葬の記録では、集まった竜は三百十三体だったそうです」


「……ああ」


「骨は三百十二本。あなたを入れて、三百十三」


「数は合うな」


「はい」


わたくしは、帳面を閉じました。


「ですが、ソルミナ様は仰っておられました。竜墓の最深部には、まだ数えられていない骨が、一本あると」


竜の手から、皿が落ちました。


割れた音が、やけに響きます。


「……ザハラク様?」


「ヴェルナ」


金の瞳が、縦に細く裂けました。


「我が封じられていた石板の、さらに下だ」


「はい」


「我は、三百年あそこにおった。だが一度も、下を見たことがない」


「……なぜです」


「怖かったからだ」


竜は、初めて見る顔をしておりました。


「下から、音がするのだ」


「音」


「紙をめくる音がな」


──────────


わたくしは、蝋燭に火を入れました。


袖口の鉛墨を確かめ、新しい帳面を抱えます。


「トビアス。ハンネ。少し出かけてまいります」


「どちらへ?」


「竜墓の、最深部へ」


わたくしは、扉を開けました。


夕陽が、丘を赤く染めております。


「数えていない骨が、一本ございますので」


――棚卸しは、まだ終わっておりません。



(了)


※ 最後までお読みくださり、ありがとうございました。読まれない記録はただの紙でございますが、読んでくださる方がいる記録は、きっとどこかへ繋がります。ブックマーク・評価をいただけましたら、ヴェルナが帳面に『読者数』の欄を一行増やします。続編では、竜墓最深部の『数えていない一本』を棚卸しに参ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。