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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『今から帰ってくるのは、私じゃない』

作者: 佐倉 透
掲載日:2026/04/09

「帰りたくない」と思ったことはありませんか。


会社から。

家から。

明日から。

あるいは、自分自身から。


この話は、そんな一言では済まなかった夜の記録です。


もし鏡の中のあなたが少しだけ先に笑ったら、

その日はもう、部屋に入らない方がいいのかもしれません。


「お疲れさまです、先に失礼します」


そう言って会社を出たのが、午後七時二十分。

スマホの位置情報アプリには、ちゃんと“会社”と表示されていた。


だからそのメッセージを見た時、私は意味がわからなかった。


> おかえり。今日は早かったね


恋人の拓也からだった。


私は駅のホームで立ち止まった。


> まだ会社出たところだけど


すぐ既読がつく。


> え?

> じゃあ今、部屋にいるの誰?


指先が冷えた。


冗談だと思って、


> そういうのやめて

> と返したが、すぐに拓也から着信が来た。


「彩乃、今すぐ確認して。玄関に女物の靴がある」


「は?」


「お前の靴だよ。昨日履いてた白いスニーカー」


私は無意識に自分の足元を見た。

今日は黒いパンプスだった。


「鍵、閉まってる?」


「閉まってる。でもさっき、中から物音がした」


「警察呼んでよ」


「いや、それが……」


拓也が息を呑むのがわかった。


「さっき、風呂場のドアが開いて、誰か出てきたんだよ」


ホームに電車が滑り込んできたが、私は乗れなかった。


「誰って、泥棒?」


「顔は見えなかった。後ろ姿だけ。でも……」


「でも?」


「お前だった」


---


私はタクシーを拾ってマンションへ向かった。

車内で何度も拓也に電話したが、出ない。


代わりにメッセージが一件。


> ごめん、バレた


意味がわからない。


さらに一件。


> たぶんもう部屋から出る

> お前、帰るな


心臓が速くなる。


マンションに着いた時、部屋の明かりはついていなかった。

三階の303号室。私と拓也が半同棲している1LDK。


エレベーターを降りると、廊下の先に、誰かが立っていた。


女だ。

スーツ姿。肩までの黒髪。

俯いていて顔は見えない。


その女は、私の部屋の前に立っていた。


そしてゆっくり、こちらを向いた。


私だった。


顔も、髪型も、会社帰りのくたびれたスーツ姿も。

違うのは、足元だけ。

白いスニーカーを履いていた。


私は息を止めた。


向こうも同じようにこちらを見ていた。

鏡みたいに。


でも次の瞬間、“私”は薄く笑った。


「遅かったね」


私は悲鳴も出せず、一歩下がった。


“私”は当たり前みたいに言った。


「先に帰ってきただけ。今日は私が中にいるから、あなたは帰らなくていいよ」


「……誰」


「私」


「ふざけないで」


「ふざけてない。だって今日、会社で思ったでしょ」


喉が凍った。


“私”は私の声で、私しか知らない調子で言った。


「このまま自分ごと消えちゃえばラクなのに、って」


---


昼休みのことを思い出した。


部長に資料を突き返され、後輩に気を遣われ、

トイレの個室で一人になった時、確かに思った。


**誰か私の代わりに明日から生きてくれないかな。**

**もう帰りたくない。**

**家にも会社にも、私じゃない私が行けばいいのに。**


ただの愚痴だ。

誰だってそれくらい思う。


なのに目の前の“私”は、にこりと笑った。


「だから来たんだよ」


部屋のドアが開いた。

中から拓也が出てくる。


顔色が悪い。

でも私を見るなり、明らかに怯えた顔をした。


「彩乃……?」


その呼びかけが、私に向けたものなのか、“私”に向けたものなのか、一瞬わからなかった。


“私”が拓也の腕に軽く触れる。


「大丈夫。混乱してるだけだから」


拓也は何も言えない。


その反応でわかった。

もうあいつは、どっちが本物かわからなくなっている。


「拓也、こいつ違う! 私だよ!」


「そう言うと思った」と“私”はため息をついた。

「でもさ、証明できる?」


私は言葉に詰まった。


誕生日。

飼っていた犬の名前。

初めて旅行した場所。

そんなもの、全部同じに決まってる。


“私”は部屋の中へ下がりながら言った。


「ねえ、彩乃。ひとつだけ教えてあげる」


玄関の明かりの下で、その顔が妙に青白く見えた。


「帰りたくないって願ったの、今日が初めてじゃないでしょ」


背中が粟立つ。


「学生のころも、就活の時も、ママと喧嘩した日も、何度も思った。だからそのたびに、少しずつ私ができた」


「……は?」


「私は“代わりに帰ってきた私”の残りカス。今日、ようやく形になれた」


“私”は一歩、部屋の奥へ下がる。


「でも二人はいらない。だから選んで」


拓也がかすれた声で言った。


「何を……」


“私”はリビングを指差した。

テーブルの上に、包丁が一本置かれていた。


「どっちかが消えれば終わるよ」


---


ありえない。

そう思うのに、足が動かない。


拓也は私と“私”を交互に見ていた。

助けを求めたいのに、その相手すら揺らいでいる。


“私”が言う。


「本物とかどうでもよくない? 明日会社に行ける方が残れば」


その言葉が、胸の奥の一番汚い場所に刺さった。


そうだ。

こいつが本当に私の代わりに全部やってくれるなら。


部長に頭を下げて、

愛想笑いして、

終わらないタスクを抱えて、

母からの無言の圧を受けて、

拓也に“疲れてる?”と気を遣わせながら平気なふりをして。


全部。


こいつが。


“私”はそれを見抜いたように笑う。


「ほら。あなたもそう思ってる」


私は首を振った。

でも遅かった。

その一瞬の迷いを見て、拓也がさらに後ずさる。


「彩乃……どっちなんだよ」


“私”は優しく言った。


「簡単だよ。ほんとに彩乃なら、そんな顔しない」


違う。

その顔は私のものじゃない。

そう言いたかったのに、目の前の“私”がしているのは、今の私が一番したい顔だった。


全部投げ出してしまいたい人間の顔。


私は急に理解した。


こいつは偽物じゃない。

**私が切り捨ててきた“帰りたくない私”そのものだ。**


毎回、明日を押しつけられて、残りかすみたいに溜まっていたもの。


だから知っている。

私の記憶も、口癖も、嫌いなものも。

そして、今ここで一番言われたくないことも。


「ねえ彩乃」と“私”は言った。

「ほんとは私に残ってほしいんでしょ?」


テーブルの包丁がやけに近く見えた。


このままだと駄目だ。

どちらかを選ぶ流れに乗った時点で終わる。


私は玄関の外にある消火器に目をやった。

管理用に廊下の角へ置いてある赤い箱。

一瞬だけ考える。


それから、私は部屋に飛び込んだ。


“私”と拓也が同時に息を呑む。


私はテーブルの包丁ではなく、その横のスマホを掴んで床に叩きつけた。

画面が割れる。


“私”の顔が初めて歪んだ。


「やめて!」


やっぱりだ。


私は叫んだ。


「お前、私じゃない! お前は“私になりたいだけ”だ!」


“私”が飛びかかってくる。

私はそれを避け、玄関のチェーンを外し、廊下の消火器を掴んだ。


重い。


でも振り上げる先は“私”じゃなかった。


私は部屋の鏡に向かって、全力で消火器を叩きつけた。


凄まじい音とともに、姿見が粉々に砕ける。


その瞬間、“私”が喉を潰したような声を上げた。


「やめろ、見えなくなる!」


知らない。

私はもう一度、洗面所の鏡を叩き割った。

次に電子レンジの黒い扉。

テレビ。

窓ガラス。


“私”の輪郭が揺らぎ始める。


そうだ。こいつはずっと、

ガラスや画面の反射の中で、私の代わりに立っていたんだ。


疲れて顔も見たくない夜。

鏡の中で、ほんの少しだけ“私じゃない私”が残っていた。


“私”は床に膝をつき、泣きそうな声で言った。


「私は、お前を助けたかっただけなのに」


私は息を切らしながら答えた。


「助けるなら、私の代わりに生きようとするな」


“私”はぐしゃりと顔を歪めた。

その表情だけは、これまでで一番人間らしかった。


「じゃあ明日も、お前が帰るんだね」


私は震える手で頷いた。


「そうだよ」


“私”はしばらく私を見ていたが、やがてひび割れた窓に映り込んだ自分の輪郭と一緒に、音もなく薄れていった。


あとには、砕けたガラスと、へたり込む拓也と、荒い息の私だけが残った。


---


警察には泥棒未遂とだけ説明した。

拓也は何も言わなかった。

言えなかったのだと思う。


数日後、部屋のガラスは全部交換された。

鏡も新しくなった。


私は会社を辞めていない。

部長もまだいる。

人生は別にラクになっていない。


でも、前より少しだけわかる。


「消えたい」と思った時、

本当に消えるのは体じゃない。

毎日帰ってくるはずの、自分の輪郭だ。


そして一週間後の夜。


新しい洗面台の鏡の前で歯を磨いていた私は、

自分の足元に違和感を覚えた。


鏡の中の私は、黒いパンプスを履いていた。

でも現実の私は、裸足だった。


磨く手が止まる。


鏡の中の“私”が、ゆっくり口を開く。


「今日は、まだ帰りたくないんだね」



お読みいただき、ありがとうございました。


この物語では、

疲れきった心が生み出す“逃避のかたち”を、怪異として描いてみました。


誰かに代わってほしい。

今日はもう、自分でいたくない。

そんな小さな願いは、口に出さなくても心のどこかに沈んでいくものだと思います。


けれど、もし本当に“代わり”が現れたなら、

それは救いではなく、

少しずつ自分を失っていく始まりなのかもしれません。


読み終えたあと、鏡を見る手がほんの少しだけ止まったなら、とても嬉しいです。

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