『今から帰ってくるのは、私じゃない』
「帰りたくない」と思ったことはありませんか。
会社から。
家から。
明日から。
あるいは、自分自身から。
この話は、そんな一言では済まなかった夜の記録です。
もし鏡の中のあなたが少しだけ先に笑ったら、
その日はもう、部屋に入らない方がいいのかもしれません。
「お疲れさまです、先に失礼します」
そう言って会社を出たのが、午後七時二十分。
スマホの位置情報アプリには、ちゃんと“会社”と表示されていた。
だからそのメッセージを見た時、私は意味がわからなかった。
> おかえり。今日は早かったね
恋人の拓也からだった。
私は駅のホームで立ち止まった。
> まだ会社出たところだけど
すぐ既読がつく。
> え?
> じゃあ今、部屋にいるの誰?
指先が冷えた。
冗談だと思って、
> そういうのやめて
> と返したが、すぐに拓也から着信が来た。
「彩乃、今すぐ確認して。玄関に女物の靴がある」
「は?」
「お前の靴だよ。昨日履いてた白いスニーカー」
私は無意識に自分の足元を見た。
今日は黒いパンプスだった。
「鍵、閉まってる?」
「閉まってる。でもさっき、中から物音がした」
「警察呼んでよ」
「いや、それが……」
拓也が息を呑むのがわかった。
「さっき、風呂場のドアが開いて、誰か出てきたんだよ」
ホームに電車が滑り込んできたが、私は乗れなかった。
「誰って、泥棒?」
「顔は見えなかった。後ろ姿だけ。でも……」
「でも?」
「お前だった」
---
私はタクシーを拾ってマンションへ向かった。
車内で何度も拓也に電話したが、出ない。
代わりにメッセージが一件。
> ごめん、バレた
意味がわからない。
さらに一件。
> たぶんもう部屋から出る
> お前、帰るな
心臓が速くなる。
マンションに着いた時、部屋の明かりはついていなかった。
三階の303号室。私と拓也が半同棲している1LDK。
エレベーターを降りると、廊下の先に、誰かが立っていた。
女だ。
スーツ姿。肩までの黒髪。
俯いていて顔は見えない。
その女は、私の部屋の前に立っていた。
そしてゆっくり、こちらを向いた。
私だった。
顔も、髪型も、会社帰りのくたびれたスーツ姿も。
違うのは、足元だけ。
白いスニーカーを履いていた。
私は息を止めた。
向こうも同じようにこちらを見ていた。
鏡みたいに。
でも次の瞬間、“私”は薄く笑った。
「遅かったね」
私は悲鳴も出せず、一歩下がった。
“私”は当たり前みたいに言った。
「先に帰ってきただけ。今日は私が中にいるから、あなたは帰らなくていいよ」
「……誰」
「私」
「ふざけないで」
「ふざけてない。だって今日、会社で思ったでしょ」
喉が凍った。
“私”は私の声で、私しか知らない調子で言った。
「このまま自分ごと消えちゃえばラクなのに、って」
---
昼休みのことを思い出した。
部長に資料を突き返され、後輩に気を遣われ、
トイレの個室で一人になった時、確かに思った。
**誰か私の代わりに明日から生きてくれないかな。**
**もう帰りたくない。**
**家にも会社にも、私じゃない私が行けばいいのに。**
ただの愚痴だ。
誰だってそれくらい思う。
なのに目の前の“私”は、にこりと笑った。
「だから来たんだよ」
部屋のドアが開いた。
中から拓也が出てくる。
顔色が悪い。
でも私を見るなり、明らかに怯えた顔をした。
「彩乃……?」
その呼びかけが、私に向けたものなのか、“私”に向けたものなのか、一瞬わからなかった。
“私”が拓也の腕に軽く触れる。
「大丈夫。混乱してるだけだから」
拓也は何も言えない。
その反応でわかった。
もうあいつは、どっちが本物かわからなくなっている。
「拓也、こいつ違う! 私だよ!」
「そう言うと思った」と“私”はため息をついた。
「でもさ、証明できる?」
私は言葉に詰まった。
誕生日。
飼っていた犬の名前。
初めて旅行した場所。
そんなもの、全部同じに決まってる。
“私”は部屋の中へ下がりながら言った。
「ねえ、彩乃。ひとつだけ教えてあげる」
玄関の明かりの下で、その顔が妙に青白く見えた。
「帰りたくないって願ったの、今日が初めてじゃないでしょ」
背中が粟立つ。
「学生のころも、就活の時も、ママと喧嘩した日も、何度も思った。だからそのたびに、少しずつ私ができた」
「……は?」
「私は“代わりに帰ってきた私”の残りカス。今日、ようやく形になれた」
“私”は一歩、部屋の奥へ下がる。
「でも二人はいらない。だから選んで」
拓也がかすれた声で言った。
「何を……」
“私”はリビングを指差した。
テーブルの上に、包丁が一本置かれていた。
「どっちかが消えれば終わるよ」
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ありえない。
そう思うのに、足が動かない。
拓也は私と“私”を交互に見ていた。
助けを求めたいのに、その相手すら揺らいでいる。
“私”が言う。
「本物とかどうでもよくない? 明日会社に行ける方が残れば」
その言葉が、胸の奥の一番汚い場所に刺さった。
そうだ。
こいつが本当に私の代わりに全部やってくれるなら。
部長に頭を下げて、
愛想笑いして、
終わらないタスクを抱えて、
母からの無言の圧を受けて、
拓也に“疲れてる?”と気を遣わせながら平気なふりをして。
全部。
こいつが。
“私”はそれを見抜いたように笑う。
「ほら。あなたもそう思ってる」
私は首を振った。
でも遅かった。
その一瞬の迷いを見て、拓也がさらに後ずさる。
「彩乃……どっちなんだよ」
“私”は優しく言った。
「簡単だよ。ほんとに彩乃なら、そんな顔しない」
違う。
その顔は私のものじゃない。
そう言いたかったのに、目の前の“私”がしているのは、今の私が一番したい顔だった。
全部投げ出してしまいたい人間の顔。
私は急に理解した。
こいつは偽物じゃない。
**私が切り捨ててきた“帰りたくない私”そのものだ。**
毎回、明日を押しつけられて、残りかすみたいに溜まっていたもの。
だから知っている。
私の記憶も、口癖も、嫌いなものも。
そして、今ここで一番言われたくないことも。
「ねえ彩乃」と“私”は言った。
「ほんとは私に残ってほしいんでしょ?」
テーブルの包丁がやけに近く見えた。
このままだと駄目だ。
どちらかを選ぶ流れに乗った時点で終わる。
私は玄関の外にある消火器に目をやった。
管理用に廊下の角へ置いてある赤い箱。
一瞬だけ考える。
それから、私は部屋に飛び込んだ。
“私”と拓也が同時に息を呑む。
私はテーブルの包丁ではなく、その横のスマホを掴んで床に叩きつけた。
画面が割れる。
“私”の顔が初めて歪んだ。
「やめて!」
やっぱりだ。
私は叫んだ。
「お前、私じゃない! お前は“私になりたいだけ”だ!」
“私”が飛びかかってくる。
私はそれを避け、玄関のチェーンを外し、廊下の消火器を掴んだ。
重い。
でも振り上げる先は“私”じゃなかった。
私は部屋の鏡に向かって、全力で消火器を叩きつけた。
凄まじい音とともに、姿見が粉々に砕ける。
その瞬間、“私”が喉を潰したような声を上げた。
「やめろ、見えなくなる!」
知らない。
私はもう一度、洗面所の鏡を叩き割った。
次に電子レンジの黒い扉。
テレビ。
窓ガラス。
“私”の輪郭が揺らぎ始める。
そうだ。こいつはずっと、
ガラスや画面の反射の中で、私の代わりに立っていたんだ。
疲れて顔も見たくない夜。
鏡の中で、ほんの少しだけ“私じゃない私”が残っていた。
“私”は床に膝をつき、泣きそうな声で言った。
「私は、お前を助けたかっただけなのに」
私は息を切らしながら答えた。
「助けるなら、私の代わりに生きようとするな」
“私”はぐしゃりと顔を歪めた。
その表情だけは、これまでで一番人間らしかった。
「じゃあ明日も、お前が帰るんだね」
私は震える手で頷いた。
「そうだよ」
“私”はしばらく私を見ていたが、やがてひび割れた窓に映り込んだ自分の輪郭と一緒に、音もなく薄れていった。
あとには、砕けたガラスと、へたり込む拓也と、荒い息の私だけが残った。
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警察には泥棒未遂とだけ説明した。
拓也は何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
数日後、部屋のガラスは全部交換された。
鏡も新しくなった。
私は会社を辞めていない。
部長もまだいる。
人生は別にラクになっていない。
でも、前より少しだけわかる。
「消えたい」と思った時、
本当に消えるのは体じゃない。
毎日帰ってくるはずの、自分の輪郭だ。
そして一週間後の夜。
新しい洗面台の鏡の前で歯を磨いていた私は、
自分の足元に違和感を覚えた。
鏡の中の私は、黒いパンプスを履いていた。
でも現実の私は、裸足だった。
磨く手が止まる。
鏡の中の“私”が、ゆっくり口を開く。
「今日は、まだ帰りたくないんだね」
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語では、
疲れきった心が生み出す“逃避のかたち”を、怪異として描いてみました。
誰かに代わってほしい。
今日はもう、自分でいたくない。
そんな小さな願いは、口に出さなくても心のどこかに沈んでいくものだと思います。
けれど、もし本当に“代わり”が現れたなら、
それは救いではなく、
少しずつ自分を失っていく始まりなのかもしれません。
読み終えたあと、鏡を見る手がほんの少しだけ止まったなら、とても嬉しいです。




