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実家に殺されかけましたが、政略結婚先での慣れない優しさに困惑しています  作者: 春野スミレ


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7/21

NO.7 掴まれた腕

 手紙が届いて以降、屋敷の警備は目に見えて強化されていた。

 門の配置も、巡回の間隔も変わった。


 そのおかげで――


 イリスの胸の奥にあった冷たい不安は、少しずつ薄れていた。

 庭を歩くのも、以前ほど怖くない。


 その日も、侍女とともに庭へ出た。

 屋敷の端にある小さな温室へ向かう。


「この花、今が一番きれいだそうですよ」


 侍女が言う。

 温室の扉を押すと、温かな空気と土の匂いが広がった。


 護衛は外に立っている。

 温室の中には、イリスと侍女だけ。

 小さな空間。


 イリスは花の列に沿って歩く。

 色づいた花弁に視線を落とした、その瞬間。


 背後に影が落ちた。

 侍女は死角で気が付かない。

 気づいた時には、腕を掴まれていた。


 荒い手。

 そして――強く引かれる。


 息が詰まる。

 身体が後ろへ持っていかれる。


「来い」


 低く、乱暴な声。

 温室の空気が一瞬で凍りつく。


 イリスの喉がひくりと鳴る。

 声が出ない。

 引きずられそうになる。


「奥様!」


 侍女の悲鳴。

 外の護衛が駆け込む足音。


「誰だ!」


 怒声が響いた瞬間、腕が放された。

 男は温室の裏手へ回り、塀を越えて消える。


 ほんの数秒。

 けれど、十分だった。


 イリスはその場に立ったまま、動けない。

 掴まれた腕がじんじんと熱い。

 呼吸がうまくできない。


「大丈夫ですか!」


 侍女が駆け寄る。


「……はい」


 言葉にしようとして、声が震える。

 遅れて、震えが全身に広がる。

 

 報せはすぐに届いた。

 カーライルはほとんど駆けるように温室へ来た。


「なにがあった」


 低い声。

 抑えているが、明らかに速い呼吸。

 イリスは腕を押さえたまま言う。


「……後ろから」


 喉が詰まる。


「引かれて……」


 その瞬間、震えがはっきりと出る。

 カーライルの視線が鋭くなる。


「怪我は」


「ありません」


 首を振った、その直後。

 カーライルはためらいなくイリスを抱き寄せた。

 強く、迷いのない抱擁。


 背中に回された腕に力がこもる。

 彼の呼吸が荒い。

 怒りよりも――焦りに近い。


「……遅れた」


 低く呟く。

 イリスは一瞬、身体を硬くする。


 だが、その腕の中は怖くない。

 さきほどの荒い手とは違う。

 あたたかく、確かな力。


「もう一人にしない」


 はっきりとした声。

 イリスの胸が、きゅっと締まる。


***

 

 その夜。

 カーライルは迷わなかった。


「今夜から、私の部屋に来い」


「……ですが」


「判断だ」


 短い。

 守るための決定。


 イリスは迷う。

 けれど、温室の記憶がよみがえる。


 強く引かれた腕。

 冷たい声。

 そして、その直後の抱擁。


「……はい」


 小さく頷く。

 

 カーライルの寝室は広い。

 天蓋付きの大きなベッド。

 窓辺に月光が落ちている。


 イリスはそっと端に腰を下ろす。

 カーライルは少し間を置いてから反対側へ上がった。


 距離はある。

 だが、これまでよりも近い。

 イリスの鼓動が落ち着かない。


「……落ち着かないか」


 暗闇の中、カーライルの声。


「……少しだけ」


「何もしない」


 はっきり言う。


「ただ、ここにいるだけだ」


 それだけ。


 イリスはゆっくり息を吐く。

 横になり、目を閉じる。

 腕に残る荒い感触が、まだ消えない。


 でも。

 隣の規則正しい呼吸がある。

 あの温室の中では、助けが来た。

 今は、隣にいる。


 安心と動揺が混ざる。

 イリスはほんの少しだけ、内側へ身体を寄せた。

 触れない距離。

 けれど、確かに近い。


***

 

 一方。

 王都南区。


「接触できたか」


 ジェラルドの声は穏やかだった。


「腕を掴むところまでは」

「攫うまではいきませんでした」


 報告は淡々としている。

 ジェラルドは怒らない。


「十分だ」


 静かな声。


「思い出したはずだ」


 机に指を滑らせる。


「恐怖を」


 目が細くなる。


「震えていればいい」


 穏やかな笑み。

 守られている安心が、崩れた瞬間を。

 あの温室のような時間を。


「まだ、間に合う」


 夜は、静かに深まっていった。

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