NO.3 眠れない夜
夜は、思っていたより静かだった。
リヒター家の屋敷は、夜更けになると物音がほとんど消える。
巡回する護衛の足音も、規則正しく、遠い。
(……もう、あの家じゃない)
そう言い聞かせて、目を閉じる。
けれど――
暗い廊下。
逃げ場のない部屋。
低い声。
床に落ちる影。
そして、しゃがみ込む男。
「可哀想なお嬢様」
止めない。
助けない。
ただ、傷ついた自分を、恍惚と見つめる目。
「そのままのあなたが、美しい」
息が詰まる。
――はっ。
イリスは跳ねるように目を覚ました。
暗い天井。
静まり返った寝室。
ここは、リヒター家。
分かっている。
けれど、胸の奥が冷えたままだ。
カーライルの部屋は、廊下を挟んで向こう側。
呼べば、来てくれるだろう。
でも――
(……迷惑かけたくない)
イリスは震える手でショールを引き寄せた。
夜は、長かった。
翌朝。
食堂で顔を合わせた瞬間、カーライルの視線が止まった。
「眠れていないな」
問いではなかった。
イリスは、少しだけ視線を落とす。
「……昔のことを、思い出して」
それだけで、十分だった。
「あいつか」
短い言葉。
イリスは頷く。
カーライルは黙ったまま数秒考え、静かに言った。
「呼べばよかったのに」
叱る声ではない。
悔やむような響きだった。
「そこまででは……」
「君が眠れないのは、十分“そこまで”だ」
穏やかながら、揺るがない。
イリスは言葉を失う。
カーライルは続けた。
「今夜は、警備を増やす」
「そこまでしなくても……」
「君が安心できる環境を整えるのは、当然だ」
淡々とした言い方だったが、そこに迷いはない。
そして、わずかに視線を逸らしながら、言った。
「……それでも不安なら、私の部屋に来るか」
空気が、止まる。
「え?」
「夫婦なのだから、不自然ではない」
理屈としては、正しい。
けれど、イリスの胸が跳ねた。
「い、いえ! ご迷惑です!」
思わず、強めに言ってしまう。
カーライルは眉をわずかに動かした。
「迷惑?」
「お気遣いいただけるだけで、十分です」
必死に言葉を選ぶ。
「……私は、政略で嫁いだ身ですから」
その言葉に、わずかな静寂が落ちた。
カーライルの目が、ゆっくりと細くなる。
責めるものではない。
イリスには自信が、ない。
大切にされていると感じても、それが義務なのか、本心なのか、分からない。
「……気にかけていただけるだけで、十分です」
それが、精一杯だった。
カーライルは、短く息を吐く。
「……分かった」
それ以上は踏み込まない。
「だが、無理はするな」
その言葉は、昨日と同じ。
けれど、少しだけ優しい気がした。
その日の午後。
リヒター家に、一通の封書が届いた。
差出人の名はない。
封蝋には、かつてヴァルツ家で使われていた古い印。
すでに廃されたはずの、家の象徴。
執事が静かに告げる。
「……奥様宛てです」
イリスの指先が、わずかに止まる。
ヴァルツ家は、もう存在しない。
けれど。
あの家で生きていた誰かの記憶は、消えていない。
庭の空気が、ひやりと冷えた気がした。




