NO.2 門前のジェラルド
庭は静かだった。
春の風が、やわらかく枝を揺らしている。
侍女に付き添われながら、イリスはゆっくりと石畳を歩いていた。
体はまだ本調子ではない。
それでも、外の空気は、思ったより軽かった。
そのとき。
門のほうから、かすかなざわめきが届いた。
低い声。
押し問答のような気配。
侍女が顔を上げる。
「……確認してまいります」
ほどなくして、別の使用人が駆けてきた。
「奥様に面会を求める者が、門前に」
イリスは小さく瞬きをする。
「……名は?」
使用人が一瞬ためらってから告げた。
「ジェラルド、と」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
足元が、わずかに揺れる。
(……どうして)
脳裏に浮かぶのは、薄暗い廊下。
血のにおい。
泣き声。
そして、その隣で、静かにこちらを見つめていた男。
止めはしなかった。
助けもしなかった。
ただ、傷ついたイリスを見下ろしていた。
あの目。
――哀れみではない。
震える姿を、どこか恍惚とした表情で見つめる目だった。
壊れそうなものを、愛でるように。
「奥様?」
侍女の声に、はっとする。
「……元、側仕えです」
声が、わずかに掠れる。
「カーライル様にお伝えいたします」
侍女がすぐに屋敷へ向かった。
しばらくして、カーライルが庭へ現れる。
「誰だ」
低い声。
「……ジェラルドです。ヴァルツ家の、元側仕え」
カーライルの目が、わずかに細くなる。
「会いたい、と言っているのか」
「……はい」
「君はどうしたい」
問いかけは短い。
イリスは、答えに迷う。
拒絶すべきだと分かっている。
でも、胸の奥に残る記憶が、言葉を濁らせる。
「……唯一、気にかけてくれた人では、あります」
カーライルの視線が、静かに落ちる。
「……悪い人では、ないと……思うのですが……」
言いながら、自分でも確信がない。
“気にかける”の形が、どこか歪んでいたことを、思い出してしまうから。
カーライルは数秒、黙ったままイリスを見つめた。
「ここで待っていろ」
それだけ言って、門へ向かう。
門の外に立っていた男は、深々と礼をした。
整った身なり。
穏やかな微笑。
だが、その目だけが、笑っていない。
「リヒター公子殿」
「何の用だ」
カーライルは淡々と返す。
「お嬢様の様子を、確認しに参りました」
「無事だ」
「……本当に?」
ジェラルドは、わずかに首を傾ける。
「あなたはお嬢様のためになっていますか?」
声は柔らかい。
だが、瞳の奥にある光は、濁っている。
「ヴァルツ家で、あの方がどのように扱われていたか……ご存知ですか?」
カーライルの内側で、何かがきしむ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「力になれるのは、私だけです」
にこり、と笑う。
笑顔なのに、目が笑っていない。
「可哀想なお嬢様を理解できるのは、私だけだ」
その言葉に、カーライルの声が、ほんのわずかに低くなる。
「……ここはリヒター家だ」
一歩、前に出る。
「今後、無断で近づくな」
ジェラルドは、すぐには動かなかった。
屋敷の奥を見つめる。
遠くに、小さく立つ銀髪の影。
その姿に、目が細められる。
あの頃と同じだ。
まだ、壊れきっていない。
まだ、震えている。
美しい。
「……また、参ります」
深く一礼する。
「必ず」
カーライルが庭に戻る。
イリスの指先が、ショールを強く握っていた。
「……帰った」
短く告げる。
「……そう、ですか」
カーライルは、その手の震えを見逃さなかった。
「あれは危険だ」
はっきりと言う。
イリスは小さく首を振る。
「……悪い人では、ないと……思うんです」
言葉が揺れる。
「ただ……少し、違和感があって……」
自分でも説明できない感覚。
優しかった。
でも、その優しさは――自分のためではなかった気がする。
カーライルは、静かに告げる。
「君が怯える相手は、危険だ」
強い声ではない。
だが、はっきりしている。
「二度と、近づけさせない」
イリスは、そっと目を伏せた。
遠く、門の外。
ジェラルドは屋敷を振り返る。
口元は穏やかな笑み。
だが、その瞳は、暗い。
「……大丈夫です」
小さく呟く。
「あなたには私が必要です。必ず迎えに行きます」
その声には、疑いがなかった。




