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実家に殺されかけましたが、政略結婚先での慣れない優しさに困惑しています  作者: 春野スミレ


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10/21

NO.10 小さな違和感


 夜会の翌朝。

 庭にはまだ薄く朝靄が残り、白い花弁の先に露が揺れていた。


 静かで、穏やかな光景。

 けれど、屋敷の空気は張りつめていた。


 巡回の足音が増え、門番の視線がいつもより鋭い。

 イリスはそれを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。


 昨日の夜。

 背後からかけられた、あの不気味な声。


 ――守られている顔は、似合わない。


 思い出せば、胸の奥がざわつく。


 けれど同時に、別の感触が蘇る。

 迷いなく抱き寄せられた腕の強さ。


 周囲のざわめきを遮るように低く落ちた声。


 絶対に守る。

 あの一言。


 怖さは、消えてはいない。

 だが、それ以上に確かなものがある。


 過去から逃げたくない。

 カーライルがいてくれれば、頑張れる気がした。

 

 

 同じ頃、書斎では。


 机の上に広げられた夜会の記録を前に、カーライルが静かに目を走らせていた。


「昨晩、奥様を庭へ誘導した貴族と、間接的に関わった貴族は合わせて3名」


 側近の報告は淡々としている。


「あの男――ジェラルドとの接触、金銭の受け渡しなど、直接の証拠はありません。ただ、どの貴族もヴァルツ家の被害者という共通点がありました」


「被害者?」


 カーライルは短く問う。


「はい。」

「簡単に、説明します。

 一人目は、領地経営を大きく傾けられた家の当主、ハインリヒ。

 ヴァルツ家の主導した事業のもと、不利な契約を結ばされかなりの借金を抱えています。

 二人目は、政治の場で捨て駒にされた男。マティアス。

 派閥争いのとき、ヴァルツ家の密告により地位を得るチャンスを失いました。

 そして三人目の男ルシアン。

 この者は少し言いにくいのですが……奥様が関わっています。

 奥様と深い関係を築き、情報工作や、交渉を有利にするために利用されたようです」


 カーライルは言葉に詰まる。

 ここで来るか……。


 ――ヴァルツ家への恨み。それにイリスも関わっている。

 彼女が無理やりに強要された結果だったとしても。


 断罪された一族。

 その娘が、何事もなかったかのように生きている。

 それを快く思わない者がいても、不思議ではない。


「奴がこの3人をけしかけた可能性は?」


「今まで何事もなかった事を考えると、可能性は高いと思われます」


 苛立ちを隠せない。彼女の意思とは関係無いところで、恨みが生まれている。


「他には」


「リヒター家内部で怪しい動きが。巡回時間や外出予定が漏れている可能性があります。ただ、確証はありません」


 カーライルは目を細めた。


「他言はするな。……内密に洗え」


「は」


 怒りをはらんだ声が静かに響く。

 敵は外だけではない。



 

 夕暮れ。

 書斎の扉が控えめに叩かれた。


「入れ」


 短く答え、顔を上げたカーライルは、わずかに目を見開いた。

 入り口に立っていたのはイリスだったからだ。


 彼女からここを訪ねてくることは、ほとんどない。


「どうした」


 声は落ち着いているが、その奥にわずかな驚きが滲む。


「何かあったのか」


 カーライルは心配そうに彼女を見つめた。

 イリスは言いにくそうに口をひらく。


「いえ。ただ……少し、お話を」


 カーライルは机から離れ、向かい合う位置に立つ。

 責める空気はない。

 急かす様子もない。

 ただ、静かにイリスの言葉を待った。


 向かい合ったまま、イリスは少しだけ視線を落とす。


「昨晩、庭でお会いした貴族の方ですが……ヴァルツ家の被害者だとおっしゃっていました」

「名は伺っていませんが……落ち着いた方でした」


(どいつだ……?)


 沈黙が落ちる。

 イリスは視線を落とした。


「……おそらく私も、関わっています」

「命じられたこととはいえ、私も手を貸しました」


 後悔するような声音。

 カーライルはすぐには答えなかった。

 机を回り、イリスの前に立つ。


「確かに罪は残る」


 静かに言う。


「だが、君一人の責任ではない」


 イリスが顔を上げる。


「それでも解決したいと望むなら、私は手を貸そう」


 そこにあるのは理屈ではなく、同情に近い温度だった。

 胸のなかの氷の塊が溶けていくような気がした。


「ありがとうございます」


 イリスは続ける、


「役に立つかは分かりませんが……、ジェラルドは、人の心を操るのが上手いんです」

「弱いところに付け込んだり、周りを崩して孤立させていくような……」


 ヴァルツ家での彼を思い出して言った。

 カーライルは頷く。


「十分だ」

「内部も洗っている。若い使用人に接触があった」


イリスの胸がざわつく。


「彼も何かを握られているのかもしれない」


イリスは静かに息を吸った。


「……私のせいで、また誰かが」


「違う」


強くはない。 だが、はっきりと。


「君を孤立させるために、ヴァルツ家への恨みの感情を利用しているんだ」


そして少しだけ声を柔らかくして続ける。


「不安か」


イリスは迷う。

怖い。

だが――


「カーライル様が動いてくださるなら、大丈夫です」


素直な言葉だった。

カーライルは何も言わない。 ただ、わずかに視線が和らぐ。


「何かあれば、隠すな」


今度は彼女の危機を見逃さない。


「はい。ありがとうございます」


イリスの心は、優しさと決意に満ちていた。

 

***

 

 一方、リヒター家の使用人の間に、小さなさざ波が立ち始めていた。


「先日の夜会で、奥様が旦那様と離れて別の男性と話していたらしい」

「親しげだった、と」


 事実を歪めた言い回し。

 ほんのわずかな角度の違い。


 けれど、それは確実に印象を変える。

 イリスの耳には届いていないが、廊下を歩きながらその空気の違和感を感じていた。


 視線が少しだけ長く留まる。

 足音が微妙に途切れる。

 隠れるようなささやき。


 廊下の奥、窓の外はすでに闇に沈み始めていた。


 小さな綻びは、まだ形を持たない。



 屋敷の裏手。

 若い使用人が、震える手で小さな紙片を受け取る。


 顔は伏せられ、相手の姿は影に紛れて見えない。


「約束は守れ」


 低い囁き。

 使用人の喉が上下する。

 返事はない。

 ただ、小さく頷いた。


 遠くで、巡回の足音が響く。

 静かな屋敷のどこかで、確実に何かが動き始めていた。

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