NO.10 小さな違和感
夜会の翌朝。
庭にはまだ薄く朝靄が残り、白い花弁の先に露が揺れていた。
静かで、穏やかな光景。
けれど、屋敷の空気は張りつめていた。
巡回の足音が増え、門番の視線がいつもより鋭い。
イリスはそれを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
昨日の夜。
背後からかけられた、あの不気味な声。
――守られている顔は、似合わない。
思い出せば、胸の奥がざわつく。
けれど同時に、別の感触が蘇る。
迷いなく抱き寄せられた腕の強さ。
周囲のざわめきを遮るように低く落ちた声。
絶対に守る。
あの一言。
怖さは、消えてはいない。
だが、それ以上に確かなものがある。
過去から逃げたくない。
カーライルがいてくれれば、頑張れる気がした。
同じ頃、書斎では。
机の上に広げられた夜会の記録を前に、カーライルが静かに目を走らせていた。
「昨晩、奥様を庭へ誘導した貴族と、間接的に関わった貴族は合わせて3名」
側近の報告は淡々としている。
「あの男――ジェラルドとの接触、金銭の受け渡しなど、直接の証拠はありません。ただ、どの貴族もヴァルツ家の被害者という共通点がありました」
「被害者?」
カーライルは短く問う。
「はい。」
「簡単に、説明します。
一人目は、領地経営を大きく傾けられた家の当主、ハインリヒ。
ヴァルツ家の主導した事業のもと、不利な契約を結ばされかなりの借金を抱えています。
二人目は、政治の場で捨て駒にされた男。マティアス。
派閥争いのとき、ヴァルツ家の密告により地位を得るチャンスを失いました。
そして三人目の男ルシアン。
この者は少し言いにくいのですが……奥様が関わっています。
奥様と深い関係を築き、情報工作や、交渉を有利にするために利用されたようです」
カーライルは言葉に詰まる。
ここで来るか……。
――ヴァルツ家への恨み。それにイリスも関わっている。
彼女が無理やりに強要された結果だったとしても。
断罪された一族。
その娘が、何事もなかったかのように生きている。
それを快く思わない者がいても、不思議ではない。
「奴がこの3人をけしかけた可能性は?」
「今まで何事もなかった事を考えると、可能性は高いと思われます」
苛立ちを隠せない。彼女の意思とは関係無いところで、恨みが生まれている。
「他には」
「リヒター家内部で怪しい動きが。巡回時間や外出予定が漏れている可能性があります。ただ、確証はありません」
カーライルは目を細めた。
「他言はするな。……内密に洗え」
「は」
怒りをはらんだ声が静かに響く。
敵は外だけではない。
夕暮れ。
書斎の扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
短く答え、顔を上げたカーライルは、わずかに目を見開いた。
入り口に立っていたのはイリスだったからだ。
彼女からここを訪ねてくることは、ほとんどない。
「どうした」
声は落ち着いているが、その奥にわずかな驚きが滲む。
「何かあったのか」
カーライルは心配そうに彼女を見つめた。
イリスは言いにくそうに口をひらく。
「いえ。ただ……少し、お話を」
カーライルは机から離れ、向かい合う位置に立つ。
責める空気はない。
急かす様子もない。
ただ、静かにイリスの言葉を待った。
向かい合ったまま、イリスは少しだけ視線を落とす。
「昨晩、庭でお会いした貴族の方ですが……ヴァルツ家の被害者だとおっしゃっていました」
「名は伺っていませんが……落ち着いた方でした」
(どいつだ……?)
沈黙が落ちる。
イリスは視線を落とした。
「……おそらく私も、関わっています」
「命じられたこととはいえ、私も手を貸しました」
後悔するような声音。
カーライルはすぐには答えなかった。
机を回り、イリスの前に立つ。
「確かに罪は残る」
静かに言う。
「だが、君一人の責任ではない」
イリスが顔を上げる。
「それでも解決したいと望むなら、私は手を貸そう」
そこにあるのは理屈ではなく、同情に近い温度だった。
胸のなかの氷の塊が溶けていくような気がした。
「ありがとうございます」
イリスは続ける、
「役に立つかは分かりませんが……、ジェラルドは、人の心を操るのが上手いんです」
「弱いところに付け込んだり、周りを崩して孤立させていくような……」
ヴァルツ家での彼を思い出して言った。
カーライルは頷く。
「十分だ」
「内部も洗っている。若い使用人に接触があった」
イリスの胸がざわつく。
「彼も何かを握られているのかもしれない」
イリスは静かに息を吸った。
「……私のせいで、また誰かが」
「違う」
強くはない。 だが、はっきりと。
「君を孤立させるために、ヴァルツ家への恨みの感情を利用しているんだ」
そして少しだけ声を柔らかくして続ける。
「不安か」
イリスは迷う。
怖い。
だが――
「カーライル様が動いてくださるなら、大丈夫です」
素直な言葉だった。
カーライルは何も言わない。 ただ、わずかに視線が和らぐ。
「何かあれば、隠すな」
今度は彼女の危機を見逃さない。
「はい。ありがとうございます」
イリスの心は、優しさと決意に満ちていた。
***
一方、リヒター家の使用人の間に、小さなさざ波が立ち始めていた。
「先日の夜会で、奥様が旦那様と離れて別の男性と話していたらしい」
「親しげだった、と」
事実を歪めた言い回し。
ほんのわずかな角度の違い。
けれど、それは確実に印象を変える。
イリスの耳には届いていないが、廊下を歩きながらその空気の違和感を感じていた。
視線が少しだけ長く留まる。
足音が微妙に途切れる。
隠れるようなささやき。
廊下の奥、窓の外はすでに闇に沈み始めていた。
小さな綻びは、まだ形を持たない。
屋敷の裏手。
若い使用人が、震える手で小さな紙片を受け取る。
顔は伏せられ、相手の姿は影に紛れて見えない。
「約束は守れ」
低い囁き。
使用人の喉が上下する。
返事はない。
ただ、小さく頷いた。
遠くで、巡回の足音が響く。
静かな屋敷のどこかで、確実に何かが動き始めていた。




