NO.1 慣れない気遣い
実家で道具のように扱われ、最終的には殺されかけ、政略結婚先でどうにか生き延びた。
それが、イリスのここ数か月の出来事を、いちばん簡単にまとめた言葉だった。
ヴァルツ家は反逆の容疑で崩れ、父も兄も拘束された。
イリスは証言者として扱われただけで、処罰は受けていない。
けれど、助かったからといって、何もかもがすぐに元通りになるわけではなかった。
今は、リヒター家の屋敷にいる。
政略結婚した夫――カーライルの妻として。
窓辺の椅子に腰掛けながら、イリスは湯気の立つカップを両手で包んだ。
(……静か)
怒鳴り声もない。
足音に怯える必要もない。
それでも、身体のどこかが、まだ完全には力を抜けずにいる。
控えめなノックの音がした。
「……入るぞ」
「はい」
カーライルは、書類を抱えたまま部屋に入ってくる。
いつも通りの、落ち着いた表情。
イリスは反射的に立ち上がろうとして――
「……無理に立たなくていい」
低い声が、それを止めた。
カーライルはすぐにこちらへ歩み寄る。
「……まだ、足に力が入りきっていないだろう」
そう言いながら、肩にそっと手を置き、動きを制する。
「あ……いえ、大丈夫……」
「大丈夫でも、座っていろ」
言い切る口調だが、きつさはない。
イリスは少し戸惑いながら、そのまま座り直した。
「……ありがとうございます」
カーライルは短く頷き、ふと窓へ目をやる。
カーテンがかすかに揺れていた。
「……今日は冷えるな」
それからイリスを見る。
「寒くないか?」
「え? あ、いえ……」
曖昧な返事をすると、カーライルは椅子の背に掛けてあったショールを取り上げた。
「念のためだ」
それだけ言って、肩にかける。
布越しに伝わる手の温もりに、イリスは小さく瞬きをした。
「……ありがとうございます」
「風邪を引かれても困る」
理由はそれだけ。
けれど、その視線はわずかに長く残る。
カーライルは時計を確認し、息を整えた。
「……そろそろ戻る」
「お仕事、ですか?」
「ああ。長くはここにいられない」
書類を抱え直し、扉へ向かう。
「……無理はするな」
それだけ言って、部屋を出ていった。
静けさが戻る。
イリスは、肩にかかったショールに触れた。
(……気にしすぎ、じゃないかな)
そう思う。
思うけれど――嫌ではない。
しばらくして、イリスは立ち上がった。
(少しだけ、外の空気を吸いたい)
庭なら屋敷の敷地内だ。
ほんの少し歩くだけなら問題ないはず。
ゆっくり扉を開けた瞬間。
「奥様、どちらへ?」
控えていた侍女がすぐに声をかける。
「あ、ええと……少し庭に。気分転換に」
「でしたら、お供いたします」
迷いのない即答だった。
「一人で大丈夫ですけど――」
「旦那様から、“お一人で外に出されないように”と」
さらりと言われる。
イリスは一瞬言葉を失った。
(……そこまで?)
小さく息を吐く。
「……大げさですよね」
侍女は困ったように笑った。
「ご主人様は、とてもご心配なさっていますので」
イリスはショールの端を握る。
(……本当に、気にしすぎ)
でも。……嫌じゃ、ない。
「……では、少しだけ」
そう言って、侍女と並んで廊下を歩き出す。
廊下の窓から差し込む光は、やわらかい。
過去は消えない。
傷も、すぐにはなくならない。
それでも。
気づけば、誰かが、そばに立っている。
その事実が、思った以上に、心を静かにしていた。
甘々パートにしようと思ったのにまたシリアススタートです(汗)
幸せになるまでお付き合いください!
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