第9話:「記録をする。それが俺の仕事だ。」
バルサムの朝は、早い。
いや、正確に言えば――
早く動かないと、動けなくなる。
「……今日も、下がらなかったか」
木札に刻まれた数字を見て、俺は小さく息を吐いた。
夜明け直後の気温。
本来なら、ここで一度、落ち着くはずの時間帯だ。
それが、三日連続で下がっていない。
「異常……だな」
俺は、商業都市バルサムの下級役人だ。
役目は単純で、地味だ。
井戸の利用状況。
体調不良者の数。
市場の動き。
そして、気温。
誰も気に留めないような数字を、ただ書き留める。
だが、この国では――
数字が先に悲鳴を上げる。
⸻
外に出ると、すでに空気が重かった。
朝だというのに、肌にまとわりつく熱がある。
息を吸うたび、肺の奥がじんわりと焼かれる。
「……今日は、街を回るか」
木札を抱え、中心部へ向かう。
⸻
井戸広場は、人で溢れていた。
まだ日が高くない時間帯なのに、列は長い。
水を求める人々が、無言で順番を待っている。
だが――
「……倒れていないな」
これが、おかしい。
この暑さなら、誰かが座り込んでいてもおかしくない。
子供や老人が、壁際で動けなくなっていてもいい。
なのに。
人は多いが、致命的な様子はない。
「昨日も、同じだったな……」
俺は木札に、井戸の利用者数を書き足す。
数は多い。
だが、体調不良者の報告は、むしろ減っている。
⸻
次に向かったのは、市場通り。
食堂が並ぶ一角は、相変わらず賑わっていた。
(昼前だぞ……)
この暑さの中、客足が落ちないのは異例だ。
鍋の前で忙しく動く男――
確か、イルハンという名の食堂主。
顔は汗だくだが、動きは鈍っていない。
「……妙だな」
俺は、無意識に視線を巡らせる。
その時――
視界の端に、小さな影が入った。
店の隅。
壁にもたれて座る、ひとりの少年。
痩せ型で、褐色の肌。
黒い癖っ毛が、少し跳ねている。
どこにでもいる、平民の子供。
ただ――
その場だけ、空気が違う。
少年の周囲は、
ほんのわずかだが、息がしやすい。
(……気のせい、か?)
俺は首を振る。
断定はしない。
俺の仕事は、判断じゃない。
記録だ。
⸻
外縁居住区に向かう途中、詰所で足を止められた。
「役人さん」
兵の一人が、声を潜める。
「砂漠側で、魔物の目撃がありました」
「数は?」
「はっきりしません。ただ……夜でも動いているようで」
俺は、胸の奥がひやりとするのを感じた。
夜行性。
この暑さ。
「……分かった。報告は上げる」
木札に、短く書き足す。
魔物活動、活発化の兆し。
⸻
外縁部は、中心部より明らかにきつかった。
同じ街のはずなのに、
ここでは空気が逃げ場を失っている。
倉庫番の男が、壁に寄りかかっている。
「……今日は、厳しいな」
「ええ」
短く返し、様子を見る。
ここでは、確かに体調を崩しかけている者がいる。
(……中心部との差が、はっきりしている)
俺は、頭の中で地図を描く。
井戸。
市場。
食堂。
そして――
あの少年。
⸻
役所に戻り、報告書をまとめる。
内容は簡素だ。
・夜間気温の高止まりが続いている
・魔物の活動が活発化
・特定区域において、被害・体調不良が軽微
・原因不明だが、人の集中あり
最後に、一行付け加える。
「状況、継続観察を要す」
書き終えて、筆を置いた。
(……街に、何かが起きる)
理由は分からない。
だが、数字がそう言っている。
「……頼むぞ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からないまま。
俺は、再び木札を手に取った。
この暑さは、
ただの始まりに過ぎない気がしてならなかった。




