第7話:「井戸番は悟った。そして憂いた。」
ハディルは、井戸の縁に腰を下ろし、ゆっくりと水を汲み上げていた。
昼はとうに過ぎている。
それでも今日は、手が動く。
(……やれやれ)
桶を引き上げながら、心の中で苦笑した。
若い頃ならともかく、
この歳で、昼の井戸番が務まるなど、本来はありえない。
この国は、そういう国だ。
⸻
ラハール中央王国。
大陸の中心に位置しながら、
国土の大半は砂と岩に覆われている。
理由は、誰もが知っている。
――灼熱。
夜になっても気温が下がらず、
水はすぐに温み、
人は簡単に倒れる。
だから、この国では
「水」と「涼しさ」は、命そのものだった。
井戸は、街の心臓だ。
その番を任されるということは、
信用と責任を、同時に背負うということでもある。
(……そして、わしは長生きしすぎた)
ハディルは、自嘲気味に思った。
⸻
この世界には、魔法がある。
それは特別なことではない。
ラハールでは、子供でも知っている常識だ。
火を起こす者。
水を操る者。
土を固める者。
風を呼ぶ者。
兵士も、職人も、商人も、
魔法を「技術」として使う。
だが――
すべての魔法が、同じ価値を持つわけではない。
(特に、この国ではのう……)
ハディルは、井戸の水面を覗き込んだ。
火の魔法は、役に立つ。
水の魔法も、役に立つ。
だが、それらは「補助」だ。
決定的に違うのが――
温度を変える力。
熱を奪う力。
氷。
この国で、それは
「便利」ではなく、
「力」だった。
⸻
ハディルは、今日の出来事を思い返す。
――あの少年。
名は、ルークと言ったか。
痩せた体。
眠たそうな目。
どこにでもいる、平民の子供。
それなのに――
あの子が井戸のそばに立った瞬間、
空気が、変わった。
(……偶然では、ないじゃろう)
長く生きていれば、
分かることがある。
奇跡と、異常の違い。
奇跡は、二度起きない。
だが異常は、繰り返す。
(あの子が来ると、楽になる)
その事実だけで、
十分すぎるほどだ。
⸻
(知っておる者は、狙う)
それが、この世界の常識だ。
王家。
貴族。
大商人。
宗教者。
力を見つければ、
守る前に、囲い込む。
本人の意思など、
後回しだ。
ましてや、子供なら――なおさら。
(……知らぬが、仏)
ハディルは、深く息を吐いた。
あの少年は、
まだ何も知らない。
自分が、
この国でどれほどの価値を持つのか。
知らないからこそ、
笑っていられる。
(それで、ええ)
知ってしまえば、
もう戻れん。
⸻
夕方。
井戸の番を終え、
ハディルは立ち上がった。
今日の街は、
どこか静かだった。
倒れる者も少なく、
怒号も聞こえない。
(……不思議な日じゃった)
だが、心は晴れない。
なぜなら、
不思議な日は――
必ず、代償を連れてくるからだ。
「せめて……」
誰にともなく、呟く。
「あの子が、自分で選べる日まで」
井戸の水面に映る夕焼けが、
ゆらりと揺れた。
ハディルは、それを見つめながら、
静かに歩き出した。
老いた井戸番は、知っている。
この世界は、
優しくない。
だからこそ――
今はまだ。
涼しいだけの少年が、
ただの少年でいられることを。
心の底から、願っていた。




