第22話:「噂は止まらない。形を変えて。」
最初は、誰の口から出たのか分からなかった。
本当に、何気ない一言だったはずだ。
「……最近、あの辺、少し楽じゃないかい?」
昼下がりの市場。
干し布を畳んでいた女が、汗を拭いながら零した。
「気のせいでしょ」
隣の女が笑って返す。
「この暑さで、楽なわけないじゃない」
それで終わる話だった。
――はず、だった。
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翌日。
今度は、別の場所で。
「井戸の列、昨日は倒れるやつが少なかったな」
桶を洗っていた男が言う。
「……言われてみれば」
「水も、ぬるいのは同じなのに、飲めた」
誰かが首を傾げる。
「風向きか?」
「分からん。でも……楽だった」
理由は出ない。
結論も出ない。
ただ、
「昨日は楽だった」という事実だけが残る。
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さらに別の日。
城門近くの露店で。
「昼に、荷を運べたんだ」
「嘘だろ、この時期に?」
「本当だ。死ぬかと思ったが……途中から、息ができた」
周囲が、静かになる。
誰かが、小さく呟いた。
「……あの辺、最近おかしいよな」
おかしい。
異常。
だが、恐怖ではない。
むしろ――
助かる、という感覚。
⸻
噂は、形を変え始める。
「場所」の話から、
「時間」の話へ。
「同じ時間なのに、違った」
「昨日と、今日で、違う」
そして――
「誰がいたか」という話へ。
⸻
「そういえばさ」
市場の隅で、老人が言った。
「子供、見なかったか?」
「子供?」
「眠そうな顔の」
「ああ……」
思い当たる者が、何人かいる。
「黒髪で、痩せてて」
「目が……青い」
「ああ、あの子か」
名前は知らない。
素性も知らない。
でも、
顔だけは浮かぶ。
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「不思議な子だよな」
「来ると、楽になる」
「何もしてないのに」
誰かが、冗談めかして言う。
「歩く冷水袋、みたいな」
笑いが起きる。
だが、
笑いは長く続かない。
(……もし、本当なら)
誰も、その先を言葉にしなかった。
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一方で。
その頃の俺はというと、
レオンの家へ向かう途中だった。
(……今日は、まだマシだな)
砂の照り返しは強い。
それでも、息ができる。
前なら、この時間は外に出なかった。
(……まあ、俺が歩いたあとだからだろうけど)
そんなふうに思うくらいには、
もう自覚している。
俺のやっていることは、氷魔法と同じことだ。
集中すれば触れた水を冷やすこともできるし、
どうやら、周囲の魔素を落ち着かせることもできる。
派手じゃない。
強くもない。
(ほんと、人間クーラーだよな)
⸻
市場を抜けるとき、
何人かの視線が、俺に向いた。
目が合うと、逸らされる。
(……最近、多いな)
声はかけられない。
でも、見られている。
まるで、
「確かめている」みたいに。
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城門の近くでは、
兵士たちが小声で話していた。
「……あの子か?」
「分からん。でも……似てる」
「青い目の、子供だ」
俺は聞こえないふりをして、通り過ぎる。
(そのうち、来るな)
理由はない。
でも、そんな予感だけはあった。
⸻
噂は、もう止まらない。
誰かが広めたわけじゃない。
誰かが嘘をついたわけでもない。
ただ、
助かった経験が、
人から人へ渡っているだけだ。
そして――
その中心に、
眠そうな顔の少年がいる。
本人だけが、
そのことに気づいていない。
⸻
噂は、静かに街を巡る。
熱を運ぶ風のように。
だが、それとは逆に――
確実に、温度を下げながら。




