第13話:「整えていた。まさに"調律"だった。」
ハディルは、井戸の縁に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
――今日は、風がある。
それだけで、体がずいぶん楽だった。
(……昔は、これが当たり前じゃった)
数十年前。
ハディルがまだ若く、力仕事も難なくこなしていた頃。
この国の夏は、確かに暑かった。
だが、理不尽ではなかった。
日が沈めば、熱は引き。
夜風が吹き、砂は静かに冷えていった。
眠れないほどの夜など、
一年に数えるほどしかなかった。
「……変わったのう」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
いつからだったか。
はっきりした境目は覚えていない。
だが、気づけば――
夜が、暑い。
風が吹いても、熱が逃げない。
魔素が澱み、空気が重く、息が詰まる。
それが「この国の常識」になってから、
もう何十年も経っている。
若い者たちは、こう言う。
「昔から、こんなものだ」と。
だが、ハディルは知っている。
これは“昔から”ではない。
⸻
桶で水をすくい、口に含む。
冷たいわけではない。
それでも、喉を通る感覚が柔らかい。
(……今日も、じゃ)
ハディルの視線が、自然と井戸の近くに向いた。
そこにいるのは、あの少年――ルーク。
痩せた体つき。
褐色の肌。
黒い癖っ毛に、眠たそうな目。
どこにでもいる、平民の子供だ。
特別な装備もない。
魔法使いらしい雰囲気もない。
それなのに――
あの子がいる場所だけ、空気が昔に近い。
(冷えておるわけではない)
そこが、決定的だった。
温度が格段と下がっているわけではない。
暑さが“暴れていない”。
魔素が、無理に居座っていない。
まるで――
長い間、狂い続けていた何かが、
一時的に元に戻っているような。
「……音が、合っとる」
ハディルは、思わずそう呟いた。
⸻
魔素は、本来、巡るものだ。
土地から立ち上り、
空へ抜け、
また別の土地へ流れていく。
暑さも寒さも、
その流れの結果にすぎない。
だが、この国では――
もう何十年も、流れが悪い。
原因は分からない。
分かっているのは、
“そういう時代になった”という諦めだけだ。
人は慣れる。
慣れてしまえば、疑問も持たなくなる。
(……じゃが)
ハディルは、再びルークを見る。
少年は、壁にもたれて欠伸をしていた。
自分が周囲に与えている影響など、
考えたこともなさそうな顔で。
それでも――
あの子の周りだけ、
魔素が自然に息をしている。
(冷やしておるのではない)
(抑えつけてもおらん)
「……調律、かのう」
ぽつりと出た言葉に、
ハディル自身が少し驚いた。
音楽の言葉だ。
狂った音を整え、
全体の調和を取り戻す行為。
魔法の系統名ではない。
学問的な用語でもない。
だが――
今の状況を表すなら、それしかなかった。
(魔素を、整えておる)
それが事実なら。
それは、
氷魔法より、よほど価値が高い。
数十年、誰もどうにもできなかった歪みを、
子供が、無意識に、直している。
(……知られたら、終わりじゃな)
ハディルは、胸の奥が冷えるのを感じた。
この国は、
長い異変に慣れすぎている。
そして――
“元に戻せる存在”を、決して放ってはおかない。
⸻
「……あの子は、まだ子供じゃ」
そう、心の中で呟く。
眠たそうで、
のんびりしていて、
自分の価値など、何ひとつ分かっていない。
(このまま、不思議な子供のままで……)
しばらくは、それでいい。
ハディルは、そう願いながら、
再び井戸の番に戻った。
今日の空気は、穏やかだ。
それが――
数十年前には、当たり前だったという事実を知る者は、
もう、この街に多くは残っていなかった。
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