第12話「報告はした。記録には残らない。」
夜明け前の詰所は、暑さのわりに静かだった。
下級役員は机に向かい、羊皮紙をめくる。
指先に残るのは、砂と汗の感触。
今回の魔物騒ぎ――
サンド・ドッグの群れ襲撃。
内容だけを見れば深刻だ。
だが、結果だけを並べると、どうにも腑に落ちない。
「……被害、少なすぎる」
死者なし。
重傷者なし。
火傷と軽度の衰弱が数名。
この規模なら、
最低でも数人は倒れている。
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下級役員は別の紙を取り、
街の簡易地図を広げた。
赤――魔物出現地点。
青――部隊配置。
鉛筆で丸――踏みとどまれた地点。
「……重なってるな」
井戸周辺。
食堂裏。
住宅区画。
前線ではない。
だが、前線を支える場所。
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証言を思い返す。
「息ができた」
「倒れなかった」
「水が飲めた」
誰も、「涼しかった」とは言わない。
ただ――
耐えられた。
(それだけで、人は戦える)
下級役員は、ペンを止めた。
この国では、
それ自体が異常だ。
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「熱が、溜まってなかった気がする」
兵士の一言。
別の者は、
「熱が逃げてた」と言った。
(逃げる……?)
この国で、
熱も魔素も、逃げない。
それが常識だ。
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下級役員は、慎重に言葉を選んで書いた。
「今回の被害軽減は、
戦闘能力以外の要因による可能性あり」
それ以上は、
職務権限を越える。
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書類を束ね、提出台に置いた。
しばらくして、
それを手に取る人物が現れる。
治安補佐官――マルク。
下級役員は、自然と背筋を伸ばした。
マルクは無言で紙をめくる。
視線は早いが、雑ではない。
地図を見た瞬間、
ほんの一瞬――
その眉が、わずかに寄った。
(……気づいたな)
下級役員は、そう確信した。
マルクは、地図の“丸”を、
一本の線でなぞるように見ている。
井戸。
食堂。
住宅区画。
そこに、何かがある。
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マルクは、何も言わない。
だが、その沈黙は、
判断を先送りにする沈黙ではなかった。
(……これは、報告書に書けない)
そう思っている顔だ。
下級役員は知っている。
治安補佐官マルクは、
「見なかったことにする」男ではない。
だが同時に、
「早まる」男でもない。
(…重い判断だ)
下級役員は、喉を鳴らす。
もしこれが――
剣や兵力の問題なら、簡単だった。
だが違う。
街そのものが、楽になっている。
それは、
管理できない力だ。
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マルクは、書類を束ね、
元の位置に戻した。
「……引き続き、様子を見ろ」
それだけ言って、去る。
だがその背中は、
いつもより、わずかに硬かった。
(見つけてしまったか)
下級役員は思う。
支えられている事実と、
それを認めた先にある責任。
両方を、
マルクは背負うつもりなのだ。
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詰所を出る。
外は、相変わらず暑い。
それでも――
昨日ほど、ではない。
理由は分からない。
だが、確かに何かが違う。
(街の中に、何かがいる)
それは兵でも、魔物でもない。
まだ名前のない力だ。
そして――
それに最初に気づいた大人たちは、
もう後戻りできない。
報告書には残らない。
だが、街は確かに支えられていた。
その中心にいるのが、
まだ五歳の子供だとは――
誰も、まだ、口にしていない。




