8話
アーバンは次にメリーへと目線を向けた。
「⋯メリーの待ち人は、奥様だったようですね」
「誠心誠意尽くします」
「この3日間でこうも瞳に光が宿るとは⋯⋯はっはっは!⋯⋯っと、失礼致しました。やっと、この邸にも変化が訪れると思うと⋯⋯ぐす⋯、」
笑ったかと思えば泣き出したアーバンに、メリーは冷めた目を向けている。
受け取ったままのキャンベル宛の書簡を開き、差出人のイニシャルをなぞった。
「Z⋯これの名は把握しているか?」
「いえ⋯旦那様からもあのように言われており、初めは調査をしましたがすぐに打ち止めとなりました経緯もございます」
「経緯とは?」
「帝国軍により侵略が進んでいた時期がございましたでしょう。旦那様もこちらにまで気を回せない状況でしたから⋯」
それで予算の改変もせず放置し、それを良いことにキャンベルは公爵家の金を横流しした。
しかし、この癖のあるZの書き方には見覚えがある。
「何で見たか⋯」
角張った線と嫌味な程に右に跳ね上げさせる癖。
今まで読んできた戦略の報せ⋯手紙⋯⋯どれにも当て嵌まらないというのに、私はこの文字を見たことがある。
「Zから始まるレーヴェン伯爵様と交流のある家門はザイファルト侯爵様とツォルン子爵様でしょうか」
メリーの言葉に、一人の顔が思い出された。
テカる額と肥えた腹。肉に埋もれた短い指と、それに見合った短い背丈⋯
「ツェーレ男爵だ」
帝国が築き上げられる前、ツェーレ男爵の曽祖父が斡旋と密輸を企て伯爵位を剥奪された家門。一度は没落したが今の男爵の働きで復権は叶った。⋯が、奴は旧貴族派との繋がりが深い。
「戦場にも出ずやたらと書簡を送りあたかも貢献している風を装っていたな」
「ツェーレ男爵が治めるモルトハイムでの評判は特に問題がなさそうでしたが⋯」
「爵位への拘りが強い男だ。王都に近いモルトハイムで悪さはしないはずだ」
だが若い公爵への劣等感は拭えないだろう。総司令官として不在も多く、戻っても気候に問題のある領地に力を入れている。ともなれば⋯
「王都の邸宅が狙われたわけか。大抵の者は分かりやすい欲にまみれたツェーレ男爵の言葉なんぞに誘惑される者など居ないからな」
まんまと、キャンベルが引っ掛かった。
部屋はシン、と静まり、3人の視線が交わった。
既に地下牢へ投獄されているキャンベルを使い、ツェーレ男爵について吐かせるか。それともノルトヴァルト公爵の命令を守り、この件は見て見ぬふりをするか⋯。
キャンベルが投獄された理由は毒殺未遂であるから、現段階では何の問題もない。
「アーバン」
「はい、奥様」
「ノルトヴァルト公爵へ伺いを立てた方が良いか?」
「それは奥様のご判断に従わせていただきます」
「そうか。ならば、キャンベルは地下牢に投獄のまま監視を増やしてくれ」
「そのように致しましょう」
今、問い詰めたとして得られるものは何か⋯数年間の記録はあれどその場に私は居ない。いずれにしてもツェーレ男爵が相手ならばキャンベルは早々に尻尾切りされる。
手にしていた書簡を封筒に戻した。また、この角張った文字を見ることになるだろう。宛先はキャンベルか、私か⋯
「メリー、ツェーレ男爵の情報を集められるか?旧貴族派として主にどの家門についているか。今の時代に何を求め主張しているか」
「承知致しました、奥様」
「アーバンはこの邸宅で働く全ての者の名簿も用意してくれ」
「すぐにご用意いたします」
この機会に旧貴族派を叩いておけば国王も多少の溜飲が下がるだろう。
新たな執務室の準備が出来、帳簿と名簿の確認が終わったのは翌日だった。日当たりの良い部屋は、ノルトヴァルト公爵の執務室とは違い、色使いが多かった。それでいてまとまりもあり、アーバンの彩色のセンスには感嘆する。
「奥様、お急ぎの用件がございます」
扉の前で早口でそう告げたアーバンの声に、メリーへ目配せするとメリーが扉を開けた。
「失礼致します、」
「急ぎの用件とは?」
「大奥様が王都へいらっしゃる事になりました」
ノルトヴァルト公爵の母君であり、前妻との間に確執のあった御方。式には参列されていなかったため、まだ会ったことはない。
「到着予定は?」
「⋯明日の正午、と」
いまから丸一日⋯レーヴェン家で、お祖母様がいらっしゃる時は母が1週間かけて準備をしていた。兄は「王族でもないのにはしゃぎ過ぎだ」とぼやいていたが。
「まずは前公爵夫人が過ごす部屋を確認してくれ。手の空いている者に寝具と装飾具の入れ替えをさせろ」
「かしこまりました!」
心做しかアーバンがかつての母のようにはしゃいで見える。執務室に残ったメリーに同意を得ようとしたが、メリーはアーバンが去った後の扉を柔い表情で見つめていた。
「メリー?」
「はい、奥様」
「どうかしたのか?」
「アーバン執事長が楽しそうでいらしたので」
「前公爵夫人を余っ程慕っているのだろう」
「いえ。アーバン執事長は大奥様がいらっしゃる、と不安そうに入って来ましたが、奥様が狼狽える事無く指示を出された事で嬉々として返事をなさったのですよ」
来賓に対して指示を出さずどうするというのか。メリーは私の思考を読み取ったのか、含んだ笑みを浮かべたまま私の後ろに立った。
「大奥様についてはお話がまだでしたね」
ノルトヴァルト公爵の母君。ベラ・フォン・ノルトヴァルト前公爵夫人は南端に領土を持つセルフィア侯爵家の末娘である。
「前公爵様がお亡くなりの後、既に公爵様も戦地へ赴かれていたため、お一人で北端の領民達を支えていらした方です」
「夫人としての務めを果たした御方⋯か」
「ですがイリーナ嬢との確執もあり、公爵様にも療養地行きを言い渡されたため王都へもいらっしゃっておりませんでした」
「王都に来る理由は⋯私か」
「そのように推測されます」
政略結婚とはいえ、息子の妻となった女の見定めくらいはされると思っていた。これが貴族令嬢であれば、女性特有のしなやかな会話術で場を切り抜けることも出来ただろう。
「私が参加してきたのは軍事会議であり茶会ではないし、相手にしていたのは女性ではなく名だたる軍人達だ」
前公爵夫人の登場に敬礼をするわけにもいかない。
「奥様は奥様らしく、堂々としてください」
「⋯失礼のないよう善処しよう」
額を押さえて俯くと、丁度開いていた帳簿のページに『来賓用高級香』の記載があった。
「メリー、これを見てくれ」
「これは⋯この量がそのまま邸宅にあれば匂いが充満していそうですね⋯」
「主を不在にして長いこの邸宅で来賓用とするには量が多くみえるが」
「恐らく帳簿と実在庫に相互性はないでしょう。そして長期保存に向かないものもあります」
帳簿にはイランイランにムスク、アンバーまである。
全てを横流ししているか、ツェーレ男爵が主導しているとしても発注はキャンベルだ。架空の取引ばかりではすぐに咎められていただろう。
「保管場所の確認と、キャンベルの部屋も探ってくれ」
「承知いたしました」
「見つければ前公爵夫人の寝室に使う」
「⋯これを、ですか?」
訝しげな顔をしたメリーに頷いてみせる。
「帳簿には乗っていないベルガモットの皮とオリスの根を仕入れて来る」
「なるほど⋯香の強いイランイランやムスクの重たさが緩和されながらもオリスの根で高級さは損ないません。そして大奥様は南部出身⋯ベルガモットの香りは歓迎に繋がります!」
今度は表情を明るくしてくれた。
「では、私も向かうとするか」
「⋯?どちらへ行かれるのですか?」
「仕入れさ」
使いを出すよりも馬を出したほうが早い。