2話
午前から気候の良い庭園でメイドが用意した紅茶を啜った。白を基調とした丸テーブルに直接日が当たらないようにツタを伸ばす青々とした草花の屋根。
青空には煙が立ち上がる事もなく小鳥が飛び、聞こえる声は男の野太い叫び声ではなく女性の可憐な話し声。
たったの1年。23年という長い月日で染み付いた意識を変えるのには短過ぎる経過。手に持つは剣ではなく繊細な造りのティーカップ。中身は安い酒ではなく高価な紅茶。
「紅茶も良いが酒を飲みたい」
「午後から王宮へ登城される予定となっております故、ご勘弁ください」
「そうか⋯そういえば名を聞いていなかったな」
「メリーとお呼びください。今朝方、奥様付きのメイドに任命されました」
「よろしく頼むよ、メリー」
レーヴェン家で女主人に仕える侍女やメイドは皆、母の指南により剣を扱えた。だがメリーは背も小さく線も細い。
戦争が終わったのだから剣の扱いは必要ないか⋯いや、しかし何かあった時のために教えるべきか。
花の香がする紅茶を飲み干し、見飽きた庭園から視線を逸らすように瞼を閉じた。気配を消すことの出来ないメイドのメリー。その存在を背中に感じても不快感はない。
「とても若く見えるが、一人で私付きのメイドをするのか?」
「⋯力不足でしたら侍女長へご報告ください」
「いや、実のところ湯浴みも着替えも一人で出来る」
「では、何かご要望はございますか?」
要望、と聞いて初めに思い浮かんだのは酒だったが、先程断られたため別の何かを探す。
「⋯そうだ、部屋の装飾は特にこだわりはないが何もない方が好ましい」
「現在配置された装飾をシンプルな物へ変更させて頂きます。どのようなお好みかお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「いや、夜遅くに残党が忍び込まないとは言い切れないから、暗闇でも動けるようにスペースは空けるようにしてほしい」
「はい?あ⋯⋯承知⋯致しました、」
「難しければ構わない。配置を覚えれば良いだけだ」
「いえ。領地の者にも奥様の部屋については共有しておきます」
一瞬、戸惑いを感じたがまた淡々と返すメリーは、その後も私の後ろに控えていた。
何も動かぬ私は今、どのくらいの時間を過ごしているのか分からない。10分か、1分か、1秒か⋯常に走り続けた私が歩みを止めた今の時間は、体感では1秒も過ぎていない。
「⋯お茶を変えますか?」
「いや、いい」
いつの間にか注がれていた紅茶はすっかり冷めていた。時間が過ぎた証を目の前にしても尚、心は動かない。
午後。王宮へ向かうために部屋に戻り、メリーと他のメイドがドレスを並べたが騎士の服のままで良いと断った。朝の様子から大して面倒にはならないと考えていたが、メイド達はならばメイクだけでもと必死に食い下がってきた。
「私が着飾った所でなんともならんが⋯」
「公爵様と並ばれるのです。此処で奥様が引いてくださらないと私達は職を失うことになります」
「なるほど⋯そこまでは考えていなかったよ」
公爵のメンツのために、彼女たちの仕事を私の堕落で奪ってしまってはいけない、と。
「ではドレスに着替える。それに合わせてメイクを頼む」
「承知致しました」
メリーは無駄な動きも無くテキパキと働く。他のメイドは明らかに私を避けたそうにしているが⋯
そうして完成したメリーの作品、基、私の姿は、見たこともない女の姿と変わっていた。肌触りの良い生地に刺繍が施され、高い位置から入ったスリットは動きやすくもスースーする。肩は無防備。胸元まで無防備。なんといっても⋯シャンパンのような色合いは見慣れない。
「奥様、いかがですか?」
「⋯やはり騎士服にしよう」
「それは成りません」
「ならばもっと落ち着いた色を⋯」
「奥様の真紅の髪色に良くお似合いです」
「⋯⋯そこのメイド、お前が持つドレスを持ってきてくれ」
引き下がりそうにないメリーから視線を逸らした先に映ったメイドに声をかけると、肩を跳ねて驚かれた。
「は⋯はい」
朝、白目になり倒れたメイドだ。その手に持つ深緑のドレスを受け取りメリーに渡すと、あまり表情の動かないメリーが虫を見るような目つきへと変わった。
「私が用意したリストにこのような物はございませんでしたが⋯」
「こ、これは侍女長様が用意したリストの中に⋯」
「そうですか。私のリストではありませんので却下いたします」
きっぱりとしたメリーの言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。メリーの手の中で深緑のドレスがわずかに揺れる。その指先に込められた力は何を表そうとしているのか⋯。
この色を、私は母の色として覚えていた。
戦場に咲く深緑の影。誇り高き騎士であった母は、いつもこの色を身に纏っていた。血に染まってもなお、美しいと誰もが囁いた、あの深い森のような色。
私は、ただその記憶に触れたくて手を伸ばしたに過ぎない。
「この色を着てはならない理由があるのか?」
「奥様に似合わない、というだけです」
メリーは一歩も退かない。だが、その目の奥に一瞬、揺らぎが見えた。私の問いかけに、彼女の理論的な態度が少しだけほころんだ。
「それは、主観か? 判断か?」
静かに、問いを重ねる。
メリーはしばし沈黙したまま、そしてようやく、真っ直ぐに私の目を見据えた。
「……この色は、戦場の香りがいたします。奥様がいま纏うべきものではないと、私は判断いたしました」
あぁ、なるほど。あくまで、私の“今”の立場と役割を考えての選別か。彼女は従順に見えて、また、意志がある。
私は無言のまま、深緑のドレスを見下ろした。滑らかな布地の感触、母の気配、私の記憶。全てをまとめて、胸の奥へとしまい込む。
「わかった、メリー。お前の判断を尊重しよう」
驚いたように目を瞬かせたメリーに、薄く笑いかける。
「感謝申し上げます」
深緑のドレスを抱きかかえるようにしたメリーは一礼した。
鏡の中には、肩を露わにした私が映っている。普段なら守られるべき部位が、今は薄い布一枚で覆われているにすぎない。その無防備さに、未だ慣れない。
だが。
これは鎧ではない。盾でもない。戦争が終わった今、私は別の役割を背負わされているのだ。
女として、公爵家の夫人として、王の臣として。
「準備が整いました。馬車の用意もできております」
扉の外から、別のメイドの声が聞こえた。
メリーが扉を開け、私に道を示す。
私は軽く顎を引いて立ち上がった。いつもならば無造作に結ばれただけの髪型は歩くだけで揺れ動くのに、メリーに整えられ綺麗にまとめられた髪は一本も落ちて来ない。
「奥様、目元をお触りになりませぬように」
貴婦人たちは⋯目に砂が入ったらどのように対処するのだろう。
馬車までの見送りはメリーだけだった。我が家ではメイドだけでなく庭師まで駆け付ける程で、その落差に、あの家には私にとって多くの家族が居たのだと思い知らされる。
「そうか⋯嫁げば離れるのか⋯」
馬車の窓枠に肘をついてぼやく。
昨日の式では父や兄と会話をするまでの時間を与えられなかった。知人の式に出たことはないが、あんなに簡素で意味を成さないものなのだろうか。
馬車は滑らかに舗装された道を進んでいた。かつて軍馬で駆け抜けた土の感触とは違い、衝撃も少なく、音も静かだ。
視線を外へ向けると、遠くに王都の城壁が見え始めていた。重厚な石造りの建物が幾重にも重なり、その上にそびえる王宮の尖塔が、空を割るように天を指していた。
馬車が王宮の前庭に到着すると、すでに数人の侍従とメイドが待機していた。彼らの動きは無駄がなく、洗練されている。私が降りると、皆が一斉に深く頭を下げた。
「ノルトヴァルト公爵夫人、ようこそお越しくださいました」
その声に、かつてのように「楽にしろ」と返しそうになるのを、寸前で飲み込む。
ここは戦場ではない。
私はうなずくだけで言葉を控えた。すぐに案内され、王宮の一角へと通される。
長い廊下。高い天井。煌びやかな装飾と、磨き上げられた床。どこを見ても、金と権威の匂いがする。人の死の匂いはない。だが、もっと厄介なものがここにはある。
それは、沈黙と視線。
廊下を進むごとにすれ違う者の目が、こちらへと注がれているのを感じる。私の真紅の髪、軍人として知られた過去。誰もが私を「場違いな者」として見ているのが分かった。
しかし、目が合う事もない。彼等もまた、人としての本能が私と視線を交えることを避けているのだろう。戦狂とは、戦場を共にしていない者にとっては恐怖の対象でしかないらしい。
「こちらに、公爵様がお待ちです」
扉の前で案内係が立ち止まり、胸元に手を添えて深く礼をした。
扉が開かれた。
広い部屋の奥、窓から差し込む光のもとに、彼はいた。
私の夫、ヴァルター・フォン・ノルトヴァルト公爵閣下。
整った顔立ちに冷静な目元。軍服ではなく王家の色を取り入れた正装を着ているにもかかわらず、しかし軍人の空気を纏っていた。姿勢がまっすぐで、光を反射させる金髪が空気を切り裂くような鋭さを強調させる。
「公爵夫人」
低く冷淡な声に、背筋が自然と伸びた。
「昨夜は眠れたか?」
「はっ」
片膝をつきそうになったが堪えた。しかし反射的に飛び出ていった返事は妻とはかけ離れていただろう。
「⋯生粋の騎士なんだな」
呆れているような声色に、私は肩の力を抜いた。肩幅に広げた足を閉じ、後ろで組んだ手も前に戻す。
「戦場しか知らぬ故、至らぬ点は早急に改善致します」
「構わない。誓約さえ守れば俺から求めるものはない」
「誓約⋯自由の尊重と互いに干渉しない、という決め事でしょうか」
「そうだ」
どんなに慣れようと周りを見回しても染み付いた感覚を取り除けない事はこの1年間で実感している。今日ここに来るまでの道のりですら、私は、戦場を駆けていた時と比べてしまうのだから当然だ。
だが、ノルトヴァルト公爵が提示した誓約については⋯
「お任せください」
与えられた使命を全うする事こそ騎士としての当然の極みである。相手がかつての総司令官であれば尚更だ。
私は自信に満ちた表情を晒してノルトヴァルト公爵へ視線を向けた。