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第2話 炎と後悔

 人は、恐怖を覚えたとき、どこまで理性を保てるのだろう。

 アリーチェ・フローライトは、その問いの答えを、何度も目の当たりにしてきた。


 周囲は彼女を恐れた。

 その恐怖が敬意に変わり、服従に変わり、やがて怯えと敵意に反転する。


 誰もが膝を折るたびに、胸の奥に奇妙な空洞が広がった。

 埋まらない虚しさが、どこから来るのかは分からなかった。


 **


「主よ。何を望む」


 影から零れる、無数の瞳。

 ノワール=レフティアの声音は、いつも変わらず冷たかった。


「……裏切り者を排除して」


「御意」


 命令を下すとき、胸が震えた。

 それが快楽か、恐怖か、もう自分でも分からなくなっていた。


 **


 夜の公爵邸は、濃い闇に包まれていた。

 高窓から射す月明かりだけが、長い回廊を淡く照らす。

 遠くで、金属を打つ音が重く響いていた。

 王家の軍が屋敷を取り囲み、突破の準備を整えている。


「愚かな……私に刃向かうなど」


 窓の外には、炎を掲げた兵の列が見えた。

 王家の紋章が翻り、焔が影を伸ばしている。


「セルディス……」


 その名を口にして、胸が微かに痛んだ。

 あの頃の少年が、今は討伐軍の先頭に立っているのだろうか。


「ノワール」


「主よ」


「全てを排除しなさい」


「御意」


 影が蠢き、闇に溶けていく。

 この夜が終わる頃には、全てが自分のものになるはずだった。

 そう信じて疑わなかった。


 **


 やがて扉が破られた。

 鉄の蝶番が軋む音が、やけに大きく響く。


 立っていたのは、剣を携えたセルディス・エルヴァレイン。


 月光の下、その表情はどこまでも静かだった。

 黄金の髪は淡い光をまとい、瞳は深い蒼に沈んでいた。


「アリーチェ」


「……来たのね」


「僕が来ると、分かっていたんだろう」


「当然よ。あなたは王家の者。私を討つために生まれたのでしょう」


「そんなことを……」


 セルディスは小さく息を吐き、視線を下げた。

 剣を持つ手がわずかに震えている。


「どうして、君は変わってしまった」


「変わった? 違うわ。私は最初からこうだったのよ。愚かな民を導くために力を振るう。それが私の宿命」


「……それが本心なら、ここで終わる」


 セルディスの声は震えていた。

 それでも剣は真っ直ぐにこちらを向いていた。

 その瞳に映るのは、哀しみとも決意ともつかない色。


「君を討たなければ、この国は守れない。……けれど、どうしても、こんな形で終わらせたくなかった」


 胸の奥が強く締めつけられた。

 その言葉が何より残酷に思えた。


「……そんな信頼など、いらない」


「それでも――」


 セルディスは言葉を切り、息を吐いた。


「これが……僕の答えだ」


 剣がわずかに上がる。

 それは宣告だった。


 **


 外から火矢が打ち込まれ、広間の壁掛けが燃え落ちる。

 焔が走り、絨毯を伝って床を染めていく。

 赤い光が壁に揺らめき、長い影を伸ばした。


 ノワールの影が揺らぎ、淡い光の中で輪郭を結ぶ。


「主よ。我が力は限界に近い。ここを退けば、生き延びる道はまだ残されている」


「……逃げろというの」


「否。我は主と共にある。決断を」


 アリーチェはゆっくりと視線を落とした。

 赤く燃える絨毯に、揺らめく己の影が映っていた。


「……もういいの」


「主……」


「すべてが終わるなら、それでいい」


 ノワールは微かに息を飲んだ。

 それでも頭を垂れ、低く囁く。


「……御意」


 **


 炎はすでに天井に届き、屋敷全体を包もうとしていた。

 外では兵たちが進軍の号令を上げ、石壁が次々と破られていく。

 白い塵が舞い、崩れた天井の隙間から月光がこぼれ落ちた。


 視界の端に、セルディスが剣を掲げる姿が見えた。

 その瞳は、最期まで揺らがなかった。


 **


「アリーチェ」


「……何」


「君を……救いたかった」


 その一言が、胸に突き刺さる。

 どうして、最後の瞬間にそんな顔をするの。

 どうして今さら、その言葉を言うの。


 **


 剣が振り上げられた。

 赤い炎に照らされて、刃が白く光る。

 その光だけが、やけに鮮明だった。


「……ああ」


 全てが終わる。


 それだけが、確かなことだった。


 **


「……違う」


 小さな声が、喉から洩れた。


「私だって……救われたかったのよ」


 焔が吹き上がり、視界を覆い尽くす。

 白と赤が交わり、世界が崩れ落ちていく。


 そのとき初めて、胸の奥で何かが砕ける音がした。


 **


 それが、後悔というものだと知ったのは――

 炎の向こうに、何もかもを置いてきた後のことだった。


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