第2話 炎と後悔
人は、恐怖を覚えたとき、どこまで理性を保てるのだろう。
アリーチェ・フローライトは、その問いの答えを、何度も目の当たりにしてきた。
周囲は彼女を恐れた。
その恐怖が敬意に変わり、服従に変わり、やがて怯えと敵意に反転する。
誰もが膝を折るたびに、胸の奥に奇妙な空洞が広がった。
埋まらない虚しさが、どこから来るのかは分からなかった。
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「主よ。何を望む」
影から零れる、無数の瞳。
ノワール=レフティアの声音は、いつも変わらず冷たかった。
「……裏切り者を排除して」
「御意」
命令を下すとき、胸が震えた。
それが快楽か、恐怖か、もう自分でも分からなくなっていた。
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夜の公爵邸は、濃い闇に包まれていた。
高窓から射す月明かりだけが、長い回廊を淡く照らす。
遠くで、金属を打つ音が重く響いていた。
王家の軍が屋敷を取り囲み、突破の準備を整えている。
「愚かな……私に刃向かうなど」
窓の外には、炎を掲げた兵の列が見えた。
王家の紋章が翻り、焔が影を伸ばしている。
「セルディス……」
その名を口にして、胸が微かに痛んだ。
あの頃の少年が、今は討伐軍の先頭に立っているのだろうか。
「ノワール」
「主よ」
「全てを排除しなさい」
「御意」
影が蠢き、闇に溶けていく。
この夜が終わる頃には、全てが自分のものになるはずだった。
そう信じて疑わなかった。
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やがて扉が破られた。
鉄の蝶番が軋む音が、やけに大きく響く。
立っていたのは、剣を携えたセルディス・エルヴァレイン。
月光の下、その表情はどこまでも静かだった。
黄金の髪は淡い光をまとい、瞳は深い蒼に沈んでいた。
「アリーチェ」
「……来たのね」
「僕が来ると、分かっていたんだろう」
「当然よ。あなたは王家の者。私を討つために生まれたのでしょう」
「そんなことを……」
セルディスは小さく息を吐き、視線を下げた。
剣を持つ手がわずかに震えている。
「どうして、君は変わってしまった」
「変わった? 違うわ。私は最初からこうだったのよ。愚かな民を導くために力を振るう。それが私の宿命」
「……それが本心なら、ここで終わる」
セルディスの声は震えていた。
それでも剣は真っ直ぐにこちらを向いていた。
その瞳に映るのは、哀しみとも決意ともつかない色。
「君を討たなければ、この国は守れない。……けれど、どうしても、こんな形で終わらせたくなかった」
胸の奥が強く締めつけられた。
その言葉が何より残酷に思えた。
「……そんな信頼など、いらない」
「それでも――」
セルディスは言葉を切り、息を吐いた。
「これが……僕の答えだ」
剣がわずかに上がる。
それは宣告だった。
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外から火矢が打ち込まれ、広間の壁掛けが燃え落ちる。
焔が走り、絨毯を伝って床を染めていく。
赤い光が壁に揺らめき、長い影を伸ばした。
ノワールの影が揺らぎ、淡い光の中で輪郭を結ぶ。
「主よ。我が力は限界に近い。ここを退けば、生き延びる道はまだ残されている」
「……逃げろというの」
「否。我は主と共にある。決断を」
アリーチェはゆっくりと視線を落とした。
赤く燃える絨毯に、揺らめく己の影が映っていた。
「……もういいの」
「主……」
「すべてが終わるなら、それでいい」
ノワールは微かに息を飲んだ。
それでも頭を垂れ、低く囁く。
「……御意」
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炎はすでに天井に届き、屋敷全体を包もうとしていた。
外では兵たちが進軍の号令を上げ、石壁が次々と破られていく。
白い塵が舞い、崩れた天井の隙間から月光がこぼれ落ちた。
視界の端に、セルディスが剣を掲げる姿が見えた。
その瞳は、最期まで揺らがなかった。
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「アリーチェ」
「……何」
「君を……救いたかった」
その一言が、胸に突き刺さる。
どうして、最後の瞬間にそんな顔をするの。
どうして今さら、その言葉を言うの。
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剣が振り上げられた。
赤い炎に照らされて、刃が白く光る。
その光だけが、やけに鮮明だった。
「……ああ」
全てが終わる。
それだけが、確かなことだった。
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「……違う」
小さな声が、喉から洩れた。
「私だって……救われたかったのよ」
焔が吹き上がり、視界を覆い尽くす。
白と赤が交わり、世界が崩れ落ちていく。
そのとき初めて、胸の奥で何かが砕ける音がした。
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それが、後悔というものだと知ったのは――
炎の向こうに、何もかもを置いてきた後のことだった。