第1話 滅びの令嬢
アリーチェ・フローライトは、その名に相応しく輝かしい少女として生まれた。
公爵家の嫡子として、幼い頃から何もかもを与えられていた。
教育も礼節も、魔導の才さえも。
屋敷の庭には常に花が咲き、小鳥が囀り、全てが彼女を称えるように彩られていた。
「アリーチェ様は本当にお綺麗でいらっしゃる……」
「このお年で、もう第二階梯の魔導式をお使いに……」
侍女や教師が声を潜めて驚嘆するたびに、幼い胸が誇らしさで満たされた。
そうして、彼女の足元には自然と人が膝を折り、褒め言葉を捧げるのが当然になっていった。
そんな日々の中で、ひとりだけ、彼女に目を逸らさずに声をかけた少年がいた。
「アリーチェ、今日も魔導の稽古をしていたのか」
庭のバラの垣根の向こうから、金糸の髪が風に揺れる。
セルディス・エルヴァレイン。
この国の第一王子にして、彼女の婚約者――幼い頃から共に過ごした唯一の同世代だった。
「ええ。今日は〈燐光の陣〉を試したの。少しだけ、詠唱を省略できるようになったわ」
「すごいな」
その言葉に、胸が僅かに高鳴った。
けれどそれを悟られないように、アリーチェは背筋を伸ばして言う。
「……当然よ。私は、皆に認められる存在になるの」
セルディスは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「じゃあ、もっとすごい魔法も見せてよ」
「そのうちね」
白い鳥が枝から飛び立ち、ふたりのあいだを通り過ぎていった。
その頃はまだ、全てが正しい未来へ続くものだと信じていた。
ほんの小さな綻びも、この胸に芽生えた淡い誇らしさも――
やがて自分を呪縛するものだとは、夢にも思わなかった。
**
十歳を過ぎる頃には、アリーチェの才は公爵家の誇りであると同時に、周囲にとって恐怖の象徴になっていた。
ひとたび杖を振れば、強化陣は三重に重なり、攻撃魔導式は大人の騎士すら凌駕する。
「少女が持つにはあまりに強大すぎる力」
そう囁かれる声を、彼女は遠巻きに聞いていた。
「何も知らないくせに」
胸の奥に、黒い水が溜まっていく感覚があった。
恐れも、羨望も、何もかもが煩わしかった。
それでも、隣にいるはずの人は変わらずにいた。
セルディスはいつも変わらない声で言う。
「君は、力を持っている。それは罪じゃない。ただ、どう使うかが大事なんだ」
「……どう使うか、ですって?」
「いつか、その答えを君自身で見つけてほしい」
幼い頃に交わした言葉と同じ瞳で言われると、酷く腹立たしくなった。
この人は何も分かっていない。
力がなければ、何も守れない。
魔導こそが、全てだ。
「私は……私の思う正しさのために生きるわ」
それは、決意ではなく呪いだったのだと、後になって気づいた。
**
成長するほどに、アリーチェは権力を手に入れた。
王宮に顔を出せば、臣下が一斉に頭を垂れる。
魔導の権威も、家柄も、すべて彼女に揃っていた。
恐れは敬意に変わり、敬意はやがて虚ろな服従になった。
思い通りにならないものなど何もない。
そう信じ込んでいた。
ノワール=レフティア。
その名を呼べば、影から無数の眼が現れる。
「主よ。何を望む」
「邪魔な者を排除して」
「御意」
冷たい声が、虚ろに響いた。
そうして、ひとり、またひとりと自分の前から去っていく。
恐怖は根を張り、周囲は沈黙し、ただ空虚だけが残った。
**
「……アリーチェ」
ある日、久しぶりに訪れた王宮の廊下で、セルディスが言った。
「君は変わった」
「当然よ。私はこの国を背負う立場。子供のままではいられないわ」
「……そうだな。でも」
「何?」
「……いや」
セルディスはそれ以上何も言わなかった。
蒼い瞳はどこまでも遠くを見ていた。
アリーチェには、その視線の意味が分からなかった。
あるいは、分かりたくなかったのかもしれない。
**
誰もが跪く中で、唯一、あの人だけが膝を折らなかった。
それが許せなかった。
同時に――羨ましかった。
この歪んだ国で、どこまでも真っ直ぐでいられる心が。
**
だけど、もう戻れなかった。
力を握った手を、離せなかった。
それが、滅びの始まりだった。