結婚に向かない二人
雅樹がひとつめのコンビニ弁当を開ける。もうひとつは車の後部座席に置いてある。ひとつめを食べ終えたらすぐに食べる気だ。
「ほんとうに2つ食べるつもり?」
嫌そうな顔で、芽衣子は聞いた。
機嫌のいい笑顔で、雅樹が答えた。
「おれ、カラダ細いくせに大食いでさぁ。1個じゃとても足りないんだ」
「コンビニ弁当ってカロリーすごいんだよ? いくつあるか知ってる?」
雅樹がちらりと包装に貼ってあるシールを確認すると、可笑しそうにまた笑う。
「これ914kcalだって。もうひとつはカツカレーだからもっと高いかな」
「身体壊さないでね」
「ありがとう〜、メイちゃん。君は優しいなぁ」
雅樹に抱きつかれ、芽衣子は笑いながらも、ほんとうは別のことを思っていた。しかしそれを口にすることはできなかった。
ドライブデートの帰り。コンビニの駐車場。夕陽が照らす車の中。今日のことは楽しかった想い出になるだろう。
しかしいつまでも楽しいままじゃいけない。芽衣子は思っていた。
二人は既に婚約している。彼が少ない給料からプレゼントしてくれたプラチナの指輪は嬉しかった。しかし結婚したら、高価なコンビニ弁当を2つも食べるような夫では困る。もっと財布の紐を締めてもらわないと。
夜になり、車を走らせて、二人は今日寝る場所へと向かっていた。
「結婚したらあたし、好きな漫画本収集やめるから」
芽衣子はそれをわかってほしくて、助手席で彼に横顔を向けたまま、言った。
「海外旅行も行かないし、お金のかかるゲームもやめる。雅樹は何をやめてくれる?」
「えー?」
走る車のハンドルを握りながら、雅樹が答える。
「漫画本ぐらい高いもんじゃないでしょ? 買い続けなよ。俺も趣味のアイドルの追っかけ、やめないからさ」
「はあっ!?」
芽衣子はつい、声を荒らげた。
「やめないの!? あんなのお金かかるでしょ!? 九州から北海道まで追っかけ回して、グッズを買い漁って、ファンクラブに会費払って!」
「まあね」
雅樹は車を運転しながら、へらへら笑った。
「でも俺の生き甲斐だからさ」
「あたしとアイドル、どっちが好きなの!?」
「どっちも」
芽衣子が大きく開けた口から何か言おうとした時、雅樹が車を急停止させた。シートベルトをしていなければフロントガラスから外へ飛び出す勢いだった。
愕然とした表情で雅樹の顔を見ると、照れたように笑いながら、彼が言った。
「通りすぎちゃった」
今夜泊まる予定のラブホテルの前を通りすぎたらしかった。後ろを見ると後続車に追突される寸前だった。甲高い音でクラクションを鳴らされ、雅樹が仕方なさそうにゆっくりと車を前に進める。
芽衣子は震える声で訴えた。
「もう……帰る」
「なんで? 大丈夫だよ。Uターンすれば入れるから」
雅樹がゆっくりと車を動かしながら言う。
「帰るっ! あんたとも結婚しない!」
「今夜は……なし?」
残念そうに雅樹が聞いた。
「今夜どころか永遠にずっとしない! あんたの頭ん中そればっか!?」
赤信号で停まると、芽衣子は助手席のドアを開け、車を降りようとした。その腕を雅樹が掴み、聞く。
「こんなところで降りて、どこ行くつもり!?」
「家! 歩いて帰る!」
「何kmあると思ってんだ!? 30kmはあるぞ!?」
「歩けるっ!」
「いいから乗れって!」
雅樹が思い切り腕を引っ張った。その力に芽衣子は恐怖した。まるで自分を地獄へ連れて行く鬼のような力だと思った。振り向けなかった。振り向いたら雅樹が恐ろしい形相で、逞しい体つきの鬼になっていると感じた。
「いやーっ! 助けて!」
本気で悲鳴を上げる芽衣子をなんとか助手席に引っ張り戻し、体を伸ばしてドアを閉めると、雅樹は車を発進させる。
「……そんな殺人犯に襲われたみたいに叫ばないでよ」
穏やかにそう言う雅樹に芽衣子はまだ恐怖していた。
「あんたってそういう人だったんだ……」
無理やり乗せられた格好のまま、顔を背け、唇を震わせながら、
「結婚したらDV夫になる! あたし……体中アザだらけにされるんだ……!」
そう言って、シクシクと泣きはじめた。
ふーっとため息をつくと、雅樹は優しい笑顔になり、子供をあやしつけるような声で、言った。
「ごめん。そうだね、結婚したらアイドルの追っかけなんてやってる場合じゃないよね。食費も切り詰めなきゃ。俺の給料じゃやって行けないもんな。……わかった。俺、もっとしっかりするよ」
芽衣子がようやく雅樹の顔を見た。まったく信用していない表情だ。しかし落ち着いてはいた。
「本当に? わかってる? これは結婚ごっこじゃないんだよ?」
「わかってるよ。ごめん、ごめん」
「あたしだって……本当はボケボケしてたいんだよ?」
芽衣子の声がどんどん大きくなる。
「本当は……っ! 漫画本だってやめたくないし、海外旅行だって行きたいし……っ! のんべんだらりとなんにも考えずに楽しいことだけしてたいよっ! でも……ダメでしょ!? あんたがボケボケしてるから、あたしがしっかりしなきゃ……っ!」
雅樹は何も言わずに車を運転しながら、ただ鼻を指でさすった。
「二人でボケボケしてられないの……っ!」
雅樹が広いところに車を停めた。何をされるのかと芽衣子は怯える。エンジンを停めると周囲の静けさが際立った。大きな鈴懸の木がざわざわと音を立てる。
「芽衣子……」
雅樹が自分のほうをまっすぐ向き、迫って来るのを芽衣子は見た。その顔は真っ暗で、どんな表情をしているのかまったくわからない。
悲鳴を上げて逃げ出そうとしたがドアにロックがかけられていた。ロックを外そうとしている間に肩を掴まれた。
「ああーーッ!!」
芽衣子は身体を捩り、大きな声を出す。
「誰か……誰かッ! 殺される!」
雅樹が力強く芽衣子の身体を抱き締めた。
「離せっ! 離せーーっ!!」
芽衣子はその首筋に、思い切り噛みついた。
「ううっ……」
雅樹は一声呻くと、自分に噛みついている彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いて、声を出した。
「メイちゃん。不安なのはわかる。結婚前はブルーになるって言うから……。でも、信じてくれよ。俺、メイちゃんのこと愛してるんだ」
穏やかな、優しい声だった。
それを聞くと、芽衣子の力が抜けた。噛みついていた首筋から歯を離すと、ずり落ちて、彼の胸に顔を埋める。その髪を撫でながら、雅樹が言った。
「愛さえあれば、何だって乗り越えられるだろ? 生きて行こう、二人でさ」
「ごめん……」
芽衣子の声も落ち着いていた。
「あたし……、心療内科へ行ったほうがいいかも?」
雅樹が彼女の顔を覗き込んだ。その顔は明るく笑っていた。
「心療内科なんか行くな。明日、一緒に行くんだろ? 貸衣装店へ」
「そうだったね」
芽衣子も笑顔になりながら涙を拭く。
「ウェディングドレス、選ぶんだよね。かわいいの、あるかな」
「あるよ、きっと。芽衣子に一番似合うやつを俺が選ぶから」
「うん!」
彼とまっすぐ見つめ合い、はっとして声を上げる。
「あ! ごめん! 首……、大丈夫!?」
「大丈夫だよ、これぐらい。キスマークつけられたと思えば」
芽衣子は吹き出した。
それを見て雅樹が言った。
「やっぱりホテル、行く?」
「行こ」
車のエンジンをかけると、ヘッドライトが鈴懸の木の緑を明るく照らし出した。小さなくす玉みたいな実がたくさん、二人を祝福して降って来ているように見えた。
「えっちなチャンネル見ようぜ」
ホテルに二人で入ると、雅樹は真っ先にそう言い出した。
芽衣子が何も言わずに好きにさせていると、楽しそうにテレビのリモコンを操作する。
大画面に全裸の男女が映し出された。
プロレスラーのような体格のオッサンが、アイドルのような可愛い女の子に、解剖されるカエルのような格好をさせて、激しく腰を振っていた。めちゃめちゃ痛そう、とだけ芽衣子は思った。
雅樹はこういうものが好きなわりに、あんな痛そうなセックスはしない。笑顔で抱き合って、互いの肌を感じ合って、いっぱいキスをしてくれる。芽衣子は雅樹とえっちなことをするのが好きだった。
雅樹が振り向き、興奮した顔つきで聞いてくる。
「どう? 興奮してきた?」
芽衣子は子供を見るように、くすっと笑った。
こんな痛そうなものを見てハァハァなるわけがない。それとも雅樹はこういうのが本当は好きなのだろうか。暴力的なのを好む人なのだろうか。
雅樹の首筋が紫色になり、血が滲んでいた。
「それ……、カットバン貼るね?」
そう言ってバッグを開ける。
「そんなのいいよ、後で」
雅樹が息を荒くして襲いかかってくる。
「シャワー! 浴びないと!」
「メイちゃんの汗の匂い、俺、好きなんだ! そのままでいいよ!」
「いやあーっ!」
抵抗する芽衣子から服を脱がせると、雅樹は勝手にそれを始めてしまった。
しばらくぎゅっと抱き締められながら、芽衣子は思う。
『こうやって抱き合ってるだけで幸せなのに……』
どうして雅樹はわかってくれないのだろう。どうして抱き合うその先をしないといけないのだろう。
それでも夜は、穏やかに、楽しく過ぎていった。
□ □ □ □
貸衣装店内の照明はわざとらしいぐらいに明るかった。
「いらっしゃ〜い。ご予約の辻本さまでございますね? お待ちしていましたのよ」
そう言いながら出迎えた店長は、50歳代くらいの体格のいい、赤いメガネをかけた厚化粧の女性だった。
芽衣子がにっこり笑いながら前に出て、挨拶する。
「今日はよろしくお願いします」
「まぁまぁ、ごゆっくり選んで行ってね? ウェディングドレスはたくさんご用意してありますから」
雅樹はなんだか自分には場違いなところのような気がして、元々大人しいのがさらに口数少なくなっていた。ただ笑顔を浮かべて芽衣子と店長の後をついて行く。
1階には色鮮やかな着物がたくさん並んでいる。その間を通って行くと、西洋のお城のような、赤い絨毯の敷かれた階段が2階へ続いていた。
2階に上がるとまずは色んなコスプレっぽい衣裳が並んでいる。芽衣子はカッパの着ぐるみを見つけると、はしゃぎながら言った。
「これ、雅樹に似合いそう」
「おお。俺、細いから絶対似合うぞ」
「まだ若いのに頭薄いし」
「それは言うな」
奥に行くと薔薇のような赤や可愛いネモフィラのような水色のドレスが並ぶ向こうに、比較的こぢんまりとしたウェディングドレスのコーナーがあった。
「あれぇ……?」
雅樹が思わず小声で呟く。
「もっと多いかと思った」
しかもどれもなんだか埃をかぶったような印象だ。きらびやかな純白というよりは、病院のような、ちょっと嫌な感じの白だった。
芽衣子は笑っていた。説明をする店長の言葉を機嫌よさそうに聞いている。
雅樹はほっとした。この店は自分の母親の紹介だ。店長が友達なのだった。この店で選んでもらわないと母さんの顔が立たないと思っていた。
「それにしても雅樹くんが結婚かぁ」
店長が振り向いて、言った。
「早いもんねぇ。前に会った時はまだ幼稚園だった気がするのに」
自分がこの店長を知らないと感じたわけだ、と雅樹は思う。最後に会ったのがそんなに小さい頃なら。
「ちょっとだけ不安なんですよね〜」
芽衣子が意地悪な口調で、店長に話す。
「ちゃんといいお父さんになってくれるかどうか」
「いい? 芽衣子ちゃん」
店長が教え諭す口調で言う。
「結婚したら絶対にお互い不満は出てくるわ。許し合うしかないの。自分の『こうしたい』『こうして欲しい』はぐっと飲み込んで、妥協するしかないのよ」
芽衣子が横目で雅樹のほうを見ながら、皮肉な笑いを浮かべて言う。
「そういうの、わかってくれるかなぁ。我慢しなさそうな気がする」
「あなたもよ!?」
店長の声が大きくなった。
「あなたにも妥協が必要なの。なんでもかんでも自分の望み通りにって思ったら、結婚って、壊れちゃうの」
芽衣子が目を伏せ、下を向いた。
『もっと言ってやってください』と雅樹は心の中で喜びの声を上げていた。
「それにね、たまには息抜きをしなさい。頑張りすぎは身体に毒よ? 月に一度とか、二人でどこかに遊びに行くぐらいじゃないと、結婚生活もたないわよ?」
店長の言葉に芽衣子は顔を上げ、にっこり笑って返事をした。
「そうですね。はい、わかりました」
雅樹はその言葉が嬉しかった。母がこの店長に何か言ってくれていたのだろうと思った。芽衣子が結婚生活をあまりにも頑張りすぎようとしている、と母に相談したことがあったのだ。
これで芽衣子も妥協しようとしてくれるだろう。たまにはアイドルのライブに行くことも許してくれるかもしれない。雅樹の中にそんな期待が芽生えていた。
結局、芽衣子はドレスをすぐに決めた。買い物の時のように1時間以上かかるのを覚悟していた雅樹は、ほっとした。
「いい店長さんだったね」
車に乗り込むと、雅樹がにこにこ笑顔で言った。
「ウェディングドレスは……なんか少なかったけど」
芽衣子はシートベルトを締めると、無表情に前を見たまま、答えた。
「当日のメイクもあのおばさんがしてくれるんだって」
「あ……。そうなんだ? 聞いてなかった」
雅樹がハハハと笑う。
「ダッサい昭和風のメイクされそう」
芽衣子は絶望したような表情だった。
「ドレスも……何、あれ? あんたのオカンの知り合いだっていうから我慢してたけど、カビが生えそうな重たいのばっか。もっと今風のやつ、ないの?」
雅樹は何も答えず、残念そうに目を伏せるだけすると、車を発進させた。
「とりあえずあたし、妥協したからね? これでいいでしょ?」
そんな芽衣子の声を隣に聞きながら。
□ □ □ □
軽い前髪を風に悪戯されるのを直すわけでもなく、左手をぶらんと下げて、雅樹はぼーっとしていた。
右手に持ったソフトクリームが今にも滴りそうだったので、芽衣子は溜め息混じりに教えた。
「それ」
「ん?」
「ズボンに垂れちゃうよ」
「ああっ!」
芽衣子は見ていられなくて、遠くのほうへ目を移した。遊園地は色んな家族で溢れていた。とても頼り甲斐のありそうな、黄色いポロシャツ姿の逞しいお父さんが3歳ぐらいの男の子を肩車しながら歩いているのが目に留まる。ちっちゃな奥さんはとても幸せそうな笑顔で腰のあたりにくっついていて、そんなに良くもない天気の下、一点の曇りもない青空がそこにあるように見えた。
本当に雅樹で良かったのだろうか。ソフトクリームのコーンをだらしなくペロペロと舐めている彼をチラリと見る。
あたしは結婚ごっこをするわけではないのだ、と芽衣子は思った。一生のチームを組んで共に生活を闘い抜くための片割れは、本当にこの人でいいのか。これは気の迷いではないのか。人生で一番の底にいた時にたまたま出会い、あたしの気を楽にしてくれた。それで夢を見ちゃったのではないか。そして今、それが段々と覚めている。
「バイキング乗ってみようよ」
雅樹がそう言いながら先を歩いて行く。
「……うん」
芽衣子は微笑んでうなずいて見せ、彼が前を向くと笑顔を消した。
あまりにも楽しそうに、まるで散歩中の犬みたいに、前しか見えていないように先を歩いて行く。
今、後ろをついて歩いているあたしが倒れても、きっとこの人は気づきもせずに先を歩いて行くのだろうと、芽衣子には思えた。そんな確信があった。
あたしが倒れて頬を小石で擦り剥いて、誰かに踏まれてから気づいたって遅いんだよ?
わかってる?
そう思ったら、本当に頭がくらくらして、目の前が見えなくなった。
立っていられなくなり、足が崩れて、左向きに身体が倒れ、
「芽衣子!?」
倒れる前に抱き止めてくれる腕があった。
目を開けると雅樹の顔が目の前にあった。
「大丈夫か!? 急にどうした!?」
死んでしまうんじゃないかと心配するように覗き込んで来る雅樹に、芽衣子は少しだけ曇り空が晴れたような気がして、目を細めて微笑んだ。
「ううん。大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」
「歩けるか? 肩に掴まれ。医務室連れて行こうか? なんならもう帰ったほうがいいんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫。たまによくあることだから。自分でわかってる」
嘘をつくと、ちょっとだけ王子様みたいな彼の肩を借りて、芽衣子はわざとフラフラと歩いた。
すぐに元通りの元気になってみせると、雅樹は安心したようだ。
「雅樹。バイキング、乗ろうよ」
「本当に大丈夫か? 無理はするなよ?」
「大丈夫だって。楽しもうよ」
「よーし。じゃ、一番後ろ乗ろうぜ!」
雅樹が芽衣子の手をしっかりと握る。芽衣子は彼の肩に頭を乗せた。幸せそうで立派な家族たちが歩く中を、寄り添い歩いていった。二人だけがまるで初々しい大学生のカップルのようだった。夢よりも不安を多く抱きながら、それでいてその顔は無邪気に笑っていた。秋の陽射しは暖かく、二人の後ろに長い影を作っていた。