逃げろと言われた侯爵令嬢は、好きな人のために返り咲く。
小気味良い音を響かせ、馬車は大通りを抜けた。
徐々に人通りが多くなってくると、馬車は細道に入りゆっくり止まる。
リュシーは急いで馬車を降り、お付きとして一緒にやって来たサイモンに声をかけた。
「いってきます!」
返事も聞かず、リュシーは走り出す。
「あっ、リュシー! 忘れ物っ……て、もういないや」
サイモンは呆れながらも、やれやれと小さく笑った。
微妙に違う、赤茶色した煉瓦造りの家々が立ち並ぶ、見慣れた街並み。
ガヤガヤと人々が行き交い、月に一度の朝市で路面店は賑わっていた。
リュシーは人の波を縫う様に小走りで進む。
(皆んなの朝食に間に合うかしら?)
どこからともなくパンの焼けた香りがして、ぐうぅ〜っとお腹が鳴った。
串焼きの香ばしい匂いも、リュシーの鼻を刺激する。
「やっぱり、何か食べてくるべきだったわ」
照れ隠しにわざと声に出して言ってみる。
メイド服に身を包み、空のカゴを手にした少女は、路面店の店主達から温かい目で見られてた。
決して、裕福なお屋敷に勤めているからだとか、そんな下心があるのではない。
明るく元気なリュシーは、皆に好かれていたのだ。
「よお! 嬢ちゃん、今日も来たんだな。今朝はいい果物が沢山入ってるぞ」
「おじさん、ありがとう! じゃあ、今日はそれを多めに見繕って、いつもの場所に届けておいてくれるかしら?」
「おう、まかしとけ!」
カゴは焼き立てのパンを入れる為のものだから、その場で受け取ることはない。
目的のパン屋に着くと、待ってましたとばかりに恰幅のいいおばさんが声をかけてくる。
「いらっしゃい! さっき焼き上がったところだよ」
おばさんはカゴを受け取り、中にパンを並べていく。
「んー! いい香り」
「お嬢ちゃんの分もおまけで入れてあるから、皆んなと一緒に食べるといい」
「わっ嬉しい!」
ずっしりと重くなったカゴを持ち、その他の店での注文を終わらせる。
そして、目的の教会へ向かった。
「あっ! リュシーお姉ちゃんが来たよー」
一人の男の子が気が付き、大きな声でシスターを呼ぶと、教会の門の前で待っていた子供たちが駆け寄ってきた。
その中で一番年長の男の子は、お礼を言うとカゴを受け取る。彼が、今日の朝食の当番なのだ。
「お嬢様、ようこそお越しくださいました」
シスターは、丁寧に頭を下げると中へと案内する。
「皆んな元気そうで良かったわ」
「ええ、これも全てリュシエンヌお嬢様のお陰です」
「しっ! ダメよ、今はリュシーなんだから」
「あっ、そうでした。申し訳ありません。ですが……私は今、こうしてお嬢様といるのが夢のようで」
シスターのソランジュは、瞳を潤ませた。
「もうっ! 相変わらずなんだから」
そう言いつつリュシーも目を細めた。
穏やかな風がパタパタと洗濯物をなびかせる。のどかな日常がとても心地良かった。
(こんな日が来るとは……ね)
この教会は、一時期とはいえリュシーとして生活していた場所だ。
あの頃とは違うここが、大好きになっていた。
◇◇◇◇◇
――ドンドン! ドンドンドンドンッ!!
深夜の豪雨の中、何度も……何度も教会のドアは叩かれた。
どの位、時間が経っただろうか。
ギギッと軋む音を立て、やっと扉が細く開いた。
「どうかなさいましたか?」
明らかに、嫌そうな表情をしたシスターが顔だけ出す。
びしょ濡れで立っていた女と子供をジロジロと見た後に、警戒を解いたのか微笑むとしっかりと扉を開けた。
「夜分に申し訳ありません。馬車がこの雨で横転してしまい、暫くこの……娘を、預かって頂けないでしょうか?」
リュシーと言う名の少女は、目を開いているのに、どこか虚ろな表情をしている。母親らしき女は怪我をしている様で、泥が着いた服は赤黒く滲み、顔色は真っ青だ。
必ず迎えに来ると言った女は、手持ちのお金を全てシスターに渡し、片足を引き摺りながら豪雨の中消えていった。
少女は貴族っぽい服装で、美しい銀髪は目を引いた。
「リュシー。もしも迎えが来なかったら、あなたはここにずっと居ていいのだからね」
シスターは思っていた。かなり具合の悪そうだった女は、きっともう……迎えには来られないだろうと。
リュシーの濡れた頭を撫でながら、シスターはその服装には不釣り合いな笑みを浮かべた。
――あれからニ年。
シスターのセシルが思った通り、リュシーに迎えは来なかった。
リュシーは記憶を無くているのか、自分の事は全く話さない。そのせいもあり、孤児院の環境にすっかり馴染んでいるように見えた。
粗末で汚れた服に、一日一回のわずかな食事も、当たり前だと受け入れている他の孤児と同じように。
そんな、ある日。リュシーはシスターセシルに呼ばれた。
「リュシー、ご挨拶なさい」
そうセシルに言われ、目の前に座る貴族らしき男に、ぺこりと頭を下げた。
「ほほう、本当に見事な銀髪だな。瞳の色もそっくりだ」
「では、この子でよろしいでしょうか?」
一見すると里親として、子供を引き取りに来たような感じがする。……が、そうではない。
品定めする男に、手を擦る女。まるで、売人と客のやり取りのようだった。
「侯爵様も喜ぶでしょう。では、これで」
男はドンっと、重そうな袋を置いた。
「確かに」とセシルは受け取る。中身を確認すると、リュシーの背を押し前に出す。
「この子は、記憶がございません。きっとその行方不明のお嬢様に間違いありませんわ」
「そうか……記憶が。ならば屋敷に帰り、教育を受ければ思い出すに違いない」
わざとらしい会話をリュシーに聞かせた。
(侯爵様って……まさか)
「あなたは今日から、デュランド侯爵家の長女リュシエンヌ様です。よろしいですか?」
(――!!)
リュシーはその言葉に戦慄を覚えたが、どうすることも出来ない。
ただ頷くしかなかった。
◇
男の前に座らせられ、揺れる馬車の中で侯爵家についての説明を受ける。
リュシエンヌは、母親である侯爵夫人と出かけた日に豪雨に見舞われ、事故に遭ったのだ。
運悪く雷が落ち、馬が驚き横転したのだろうとの見解だった。焼け焦げた馬車の中から、夫人と助けに入ったのか御者の遺体は見つかったが、リュシエンヌは靴しか見つからなかったのだと。
馬車から投げ出された可能性も考えられ、侯爵はリュシエンヌの死亡届は出さなかった、と男は言った。
「ですから、あなた様がそのご令嬢なのです」
偽の記憶を植え付けるかの様に話されたが、リュシーにはその必要はない。
唇を噛みギュッと見窄らしいスカートを握った。
(私は、本物のリュシエンヌだもの)
予想はしていたが、母親が亡くなった事実を告げられ苦しくなる。必死で泣くのを堪えた。
(……ウソばっかりだ)
リュシーは、シスターとこの男の会話を思い返した。二人は、リュシーをリュシエンヌとは別人だと思っている。
そう、リュシーは何かの目論見のために、この男に買われたのだ。
(私を買ったのは――お父様かもしれない)
リュシーは記憶を無くしてなどいない。
事故に遭ったばかりの時は、放心状態で言葉を発するのが困難だっただけだ。
だから全て覚えている。
侯爵夫人である母親に守られ、乳母によって馬車から逃された。
(でも……。あの時、カミナリは落ちていなかった)
『リュス……逃げなさい。――から、逃げるのです』
最後の言葉が耳に残っている。
(お母様は、何から逃げろと言ったの? もしかして、お父様……)
乳母はそれを知っていたのかもしれない。シスターに、リュシエンヌでもなく、愛称のリュスでもない。よくある名前のリュシーと伝えたのだから。
きっと、迎えに来られない事情があるに違いないと、リュシエンヌは子供ながらに感じとった。
だからこそ、記憶がないと勘違いされたままで、つらい日々を過ごし続けたのだ。
ある日突然いなくなる孤児や、新しくやってくる不自然なまでに怯えた孤児。汚くて薄暗い、孤児院とはこんな場所なのかと衝撃を受けた。
けれど、リュシエンヌは母親と一緒に、何度も違う教会へ行った事がある。孤児院への寄付や、慈善活動にもついて行っていた。
この男とシスターセシルのやり取りで確信した。
(きっと、変なのはあの孤児院だけだ)
リュシエンヌは、自分がまだ子供で何の力もないと知っている。正体を明かすのは危険だと思った。
(偽物と思われたっていい)
侯爵家に戻るのは不安だったが、大好きな人にもう一度だけ会いたかった。楽しかった、その記憶だけを支えにやってきたのだから。
リュシーとして侯爵家に帰り、リュシエンヌを演じよう。そして、従順なふりを続けながら生きて、真相を突き止めようと心に誓った。
◇
リュシエンヌは、十五歳になっていた。
ドカドカと、不機嫌さを表したかのような足音が聞こえる。直後、バアァーンっと扉が開く。
「お姉さま! 私の大切なアクセサリーを盗んだでしょう!」
不躾な態度で、大声でわめき散らす異母妹のアリーチェ。
「アリーチェ、私は何も知らないわ」
「まあ! 平気で嘘をつくのですねっ。あれを!」
アリーチェは、自分の侍女から母親が使う躾棒を受け取り、「しばらく誰も近付けちゃだめよ」と侍女を下がらせた。
母である侯爵夫人の葬儀が終わった数日後に、平然とやって来たという継母と異母妹。あの男がリュシエンヌを長女と言ったのは、その為だった。
扉が閉まると同時に、バチンッバチンッと嫌な音が外に漏れる。侍女は満足そうにその場から離れ、夫人のもとへと報告に向かった。
「このっ、このっ!」
「ねえ、アリーチェ。疲れない?」
頃合いを見計らい、リュシエンヌはそう声をかけた。
はぁはぁと息を切らしたアリーチェは、床を叩くのを止める。
「疲れます……でも! これをしておけば、リュスお姉様と二人っきりになれるのですものっ!」
愛らしい笑顔を見せたアリーチェは、ソファーに座るリュシエンヌの隣に座りピトっとくっ付く。
アリーチェは、リュシエンヌの味方だ。
本人曰く、初めて会った日に一目惚れしたのだとか。変な意味ではなく、リュシエンヌが自分の姉だと感動し、懐いてしまった。
それをよく思わなかった母親のジャクリーヌは、リュシエンヌは偽物で本当の姉妹ではないと伝えた。
ショックを受けたアリーチェは、リュシエンヌを嫌……わずに、泣きながら彼女を問い質したのだ。
そんな優しい異母妹だったから、リュシエンヌは本当の事を教えた。
そして、味方になると約束をし、こうして演技しながら会いに来る。こっそり、高級なお菓子を隠し持って。
たわい無い話に花を咲かせ、一緒に美味しいお菓子を食べ終わるとちょうど侍女が戻ってくる。
アリーチェは、また似合わない顔つきで侍女を従え、部屋を後にした。
◇
リュシエンヌがこの侯爵家に居る意味――。
それは、幼くして王族の婚約者になっていたからだ。
事故で行方不明になっても、ずっとそれは隠されていた。領地内の端の端、辺鄙な場所で起こった出来事。リュシエンヌは、馬車に乗っていなかった事にされていた。
幸か不幸か、リュシエンヌと婚約者の第三王子は会ったことがなかった。それが、侯爵の隠蔽を後押ししたのだ。
(まあ、だからこうして私の居場所が残っていたのだけど)
偽物のリュシエンヌの役目は、このまま婚約を引っ張り、正式な婚約式直前に病気になること。代わりに、アリーチェを嫁がせる算段になっている。
それまでに、アリーチェを社交界デビューさせ、淑女の教育も終わらせる予定らしい。
万が一偽物を嫁がせて、王家を謀ったのがバレでもしたら、侯爵家は終わりだ。
けれど、侯爵家は王家との良好な関係を強固にしたい。だから、どうしても本物の娘を嫁がせておく必要がある。
もしも、リュシーの存在がバレたら切り捨てるつもりだ。自分達も騙されたと言って。
つまり、リュシーは繋ぎの捨て駒なのだ。
たまたまだが、リュシエンヌは自分の社交界デビューの日に無理がたたり、体調を崩して国王拝謁の儀が終わるとすぐにタウンハウスへ戻ってしまった。病弱アピールができたと、夫人が喜んでいたのを思い出す。
(お父様は、今も昔も……私のことは、道具としてしか見ていなかったから)
そのせいか、父親なのにデュランド侯爵は一切会いにやって来ない。
そして、前侯爵夫人とリュシエンヌ付きだった使用人は、総入れ替えされていた。今は、全て現夫人の味方。
この家の中心にいる夫妻や上級使用人は、リュシーがリュシエンヌを演じていると知っている。
そのせいか、あまり外に出してもらえない。
殆どの時間をこの部屋の中で過ごすよう、ずっと閉じ込められているのだ。
(とは言っても、抜け出すけどね)
自分の育った屋敷だ。避難用の抜け道は、幼い頃から母と乳母に教わっている。
乳母を思い出すと、チクリと胸が痛む。生きていてくれるのを願うしか出来ない自分がもどかしい。
(そっちも、いつか……)
◇
――ある晩。
皆が寝静まった深夜、リュシエンヌは邸の外に出た。
庭園の道具置き場の裏、昔からある生垣に囲まれて一見すると分からない場所。リュシエンヌの部屋からここに出られるのを知っているのは、侯爵と庭師、執事親子のみ。
「お嬢様、こちらへ」
小さな声で言ったのは、執事の息子であり、後々に業務を引き継ぐサイモンだ。
幼馴染みでもあるサイモンは、すぐにリュシーが本物のリュシエンヌだと気が付き、誰にも知られないように接触してきた。
そして事情を聞くと、外へ出られないリュシエンヌの代わりに動いてくれた。
「暗いので」と差し出された手を取り、リュシエンヌは庭園を抜けて、目的の場所へと向かう。
もう、使われなくなった古い温室管理の小屋。幼い頃のサイモンとリュシエンヌの秘密基地だった。鍵を開けて中に入る。
小さな明かりを灯すと、床板を上げて集めた資料を出しリュシエンヌに渡した。
サイモンは、あの横転事故を不審に思い、独断で真相を探っていたのだ。
そして、やっと火災の起こった原因を突き止めた。
「……そう。これで、はっきりしたわ」
リュシエンヌの声は震えている。
サイモンは黙ってリュシエンヌの肩をギュッと抱いた。
◇
――婚約式の日がやってきた。
扉を開くと、華やかで美しいドレスに身を包み、今日の主役は頬を染めた。
「リュスお姉様!」
「アリーチェ、おめでとう。とっても綺麗よ」
瞳を潤ませた妹は、嬉し涙を浮かべた。
アリーチェの婚約者は、リュシエンヌの婚約者だった第三王子だ。
アリーチェの社交界デビューの日に出逢った二人は、一目で恋に落ちた。
当然、リュシエンヌは全力で二人を応援し、第三王子も味方につけたのだ。
妹の幸せそうな姿に、感慨もひとしおだ。
――喝采の中、めでたい婚約式が行われた。
(ここまで来るのは、本当に長かった……)
◇
全ての元凶は、もうこの世にいない。
あの豪雨の横転事故は、人の手によって起こされたと言える。
父親であるデュランド侯爵でもなく、継母のジャクリーヌでもない。
犯人は――使用人で御者だった男。
リュシエンヌの母カトリーヌに懸想し、異常なまでの行動に出ていた。男は屋敷内に居ても不自然ではない上、御者という立場を利用したのだ。
侯爵が不審になるようにカトリーヌの浮気を匂わせ、あたかも隠れて馬車を出させていると伝えた。
侯爵はそれを信じ、男に妻の動向をずっと報告させていたのだ。そう、ありもしない出来事を。
仕事仲間の人望があり、人柄も評判よく馬の扱いが上手い。そんな顔を持つ、狡猾な男だった。
侯爵は婿養子で、身分も妻より低かった事を気にしていた。
だから、素直に尋ねることが出来ず、疑心暗鬼に陥ってしまったのだ。
結果――。
心の安息を外へ求め、ジャクリーヌとの間にアリーチェが産まれた。
御者は、使用人仲間の侍女を利用し、その事実をカトリーヌの耳に入れた。
だが、カトリーヌは鵜呑みにはしなかったのだ。信頼のおける者に調べさせ、そうなってしまった経緯も探った。
そして、浮上した男の存在。御者は当然クビになった。
だが、男の異常な執着は続いていた。
悩んだカトリーヌは、夫に相談しようとしたが、聞く耳を持ってもらえなかったのだ。すれ違い、深まった夫婦間の溝は、そう簡単には修復が出来ない。愛情が他に向いてしまったのだから、尚更だった。
カトリーヌはリュシエンヌを連れて、一時的に遠くの叔母の家に避難する事にした。
まさか、まだあの男と内通していた侍女が、屋敷内に居たとは思いもしないで。
手配された馬車には、カトリーヌとリュシエンヌ、そして乳母ソランジュが乗っていた。
豪雨に見舞われ、危ないので一時的に馬車を安全な場所に避難するよう、御者に伝えた時だった。
雷の光で振り向いた御者の顔を見ると――それは、クビにした筈の男だった。
カトリーヌとソランジュは、どうにか逃げなくてはとスピードが緩んだ時に馬車のドアを開けようとした。だが、それに気付かれてしまい、馬車は激しく揺らされたのだ。
急激な雨で、滑りやすくなっている山道。無謀な運転で事故は起こった。
馬車は車輪をとられ、崖に転落した。辛うじて、途中で引っかかり大破はまぬがれたのだ。
だがカトリーヌは、毛布に包まれて寝ていたリュシエンヌを抱えるように庇い、全身を打ち付けた。
自分はもう助からないと考え、乳母にリュシエンヌを託すと、伸びている御者の男を道連れに火を放ったのだ。馬車に備え置かれていた、野営用の着火剤を使って。
――途中からは推測だ。
でも、それが……リュシエンヌとサイモンが導き出した真実だった。
男の家を探し当て、大量に残されたカトリーヌの肖像画と証拠となるメモも見つけた。
最初から、カトリーヌを永遠に自分のものにするつもりだったのだ。
リュシエンヌは証拠を持ち、父親と対峙した。
本物の娘である、リュシエンヌとして。
侯爵は信じる他なかった。
乳母についての話は、詳細で疑いようもない。今、この屋敷にソランジュの存在を知っているものは、限られているのだから。
そして決め手は、髪で隠れている場所にある珍しい痣だった。
真実を知った侯爵は崩れ落ち、自分の愚かさと弱さに咽び泣いた。決して、妻を……カトリーヌを愛してなかったわけではないのだ。
父親が少し落ち着いた頃、リュシエンヌは口を開いた。
「お父様、お願いがございます。当初の予定通り、私の病弱さを理由に婚約を解消させて下さい。そして、アリーチェを代わりに推薦していただきたいのです」
二人の気持ちは知っている。きっかけを作れば、些細な障害など互いに乗り越えられるだろう。
言葉を失い唖然とする侯爵に、更にリュシエンヌは続ける。
「そして、この侯爵家は私が継ぎます。その為に、領地経営をしっかり教えて下さい。どうも、お父様の目の届いてない場所が多々あるようですから。その辺りは、私に任せて頂きたいのです」
ハキハキとものを言うリュシエンヌは、カトリーヌの生き写しの様だった。
「わかった……全ての要望を受け入れよう」
やっと声を発した侯爵に、リュシエンヌはニッコリと微笑んで、更にいくつか付け加えた。
「あと、ときどき平民のリュシーとして、外に遊びに行かせて下さいませ」と美しい笑みで締めくくった。
それから、使用人の監督不行き届きだった執事は、退職を願い出たが、リュシエンヌは却下した。
執事にはやってもらわなければならない事があったので、罰としてそれを命じた。
使用人の徹底した再教育と、乳母であるソランジュ探しだ。
ちなみに、現侯爵夫人は――簡単には納得しないだろう。
侯爵自身が夫として責任を持ち、きちんと話し合うと言っていた。愛情があるからこそ、理解されるまで向き合うと。
そして……
執事はありとあらゆる手を尽くし、乳母を見つけ出した。
◇◇◇◇◇
「お嬢様が亡くなったと聞かされた時は、死んでお詫びするしかないと思っておりました」
「ちょっと、恐ろしいこと言わないで!」
ソランジュの一言に、リュシーは大きな声を出してしまう。
「ですが、それは私の逃げでございます。奥様は、その様な事を望む方ではございません。修道院に入り、命尽きるまでお二人に祈りを捧げる……それだけが、私に残された道だと考え直しました」
「そっちを選んでくれて、本当に良かったわ」
心底嬉しそうにリュシーは笑った。
ソランジュは、やはり大怪我で何度も生死を彷徨ったそうだ。
やっと歩けるようになり、孤児院へ迎えにきた時には、リュシーは売られた後だった。シスターは、しらばっくれてリュシーは病死したと伝えたそうだ。
「まさか、あの頑固男が修道院へ迎えにくるとは思いませんでしたが」
ふふっと、ソランジュは笑う。
執事はまさかの土下座をしたらしい。
この教会と孤児院の実態を執事はちゃんと炙り出し、侯爵は責任をもって対処したのだ。
そして、ソランジュを新しい孤児院の責任者兼シスターとして迎えいれた。乳母経験のあるソランジュは適任だった。
「執事は頭が硬いものね。サイモンみたいに柔軟になれば良いのだわ」
「サイモン贔屓は相変わらずですね」
ソランジュは意味深長な言い方をする。
「それは光栄なことですね」
いつの間にかやってきたサイモンが、会話に割って入った。
「えっ、どうしたの?」
「どうしたじゃありません。せっかく用意したのをお忘れですよ」
呆れるように言ったサイモンから袋を渡された。
ハンカチに、孤児院に居る子供たちの名前を全員分、リュシエンヌが刺繍したのだ。
「まあ、お嬢様が!」
「ヘタだけど、誰かがちゃんと自分を覚えていてくれるって、嬉しいものだから」
チラリと、リュシエンヌはサイモンを見た。
「あらあら。よい花嫁修行にもなりますからね」
「そ、そんなんじゃないわよ!」
「そうですよ。刺繍が出来なくても、お転婆でも、リュシーでもリュシエンヌでも、私は問題ありませんから」
しれっとサイモンは言ってのけた。
「――へっ!?」
「まあ、まあ、ごちそうさま」
クスクス笑うソランジュ。
隠しても、二人の仲はとうの昔にバレていたのだ。
――春はもうそこまで来ていた。
リュシエンヌが侯爵に出した残りの要望。
それは、リュシエンヌが侯爵領を継いだら、サイモンを夫に迎えるということだった。