079 第14章 スッファの街 14ー8 宿のサロンにて
宿から出れないマリーネこと大谷は、ラウンジで時間つぶしをするのだが、サロンにはあの玉ねぎ色の髪の毛の女性たちが集まって来ていた。
79話 第14章 スッファの街
14ー8 宿のサロンにて
翌日。
起きてやるのはストレッチ。このネグリジェがストレッチに邪魔なので腰の所まで捲くり上げて開脚柔軟体操。
そして日々の鍛錬。とりあえず捲くり上げた裾を降ろして、鍛錬開始。
空手と護身術である。
それが終わって椅子に座っているとノックが有った。
背の高いメイドが、ワゴンで何か運んできた。
朝ご飯は、部屋にワゴンで持ち込まれたシチューのようなものと、粥。
粥の方は何の穀物なのかは、考えない。ここの農業の収穫物を見ない限り、確たる事は言えない。
メイドが粥の中央部分に黒っぽいペーストを小さな壺から掬い上げて、垂らすように置いた。
粥の味付けはメイドが中央に入れた、魚醤ベースの黒っぽいペースト。これだけ。シンプルだな。
多分これを好みの量で周りの粥に混ぜて食べるのだろう。
スプーンにちょっとだけ付けて舐めてみると、塩味と少し強い魚醤の味、若干の香辛料、そしてやや爽やかな香草の香り。
メイドが見ているので、粥とシチューを出来るだけお淑やかに食べる。
食べ終える頃に別のメイドがワゴンを押してきた。紅茶とフルーツが運ばれてきた。
紅茶を飲んでいると、更に別のメイドが服を持って入って来た。
「お嬢様の今日の服をお持ちいたしました」
お辞儀をして出ていった。
今日は菫色のワンピース
これは腰の所に幅のある帯が付いていて、後ろに大きなリボン。
肩はパフスリーブ。で袖の所が刺繍がしてある。胸元は白い。
このワンピースの生地は一体どれほどの高級品なのか。
こういうのを着てしまうと派手に動けなくなるな。
暫くの間、この宿から出れないので大人しく着ておくか。
例の背の高いメイドが私に着せる。
どうやら、この女性が私の専属か。
「では、何か御座いましたら、鈴でお呼びください」
そう言って出ていった。
何も持ってきていないのが痛い。
あの時に持ったのは武器だけだったからな。
暇になってしまった上に、外に出れない。
鈴を鳴らしてメイドの人を呼ぶ。
「お嬢様、どのようなご用件で御座いますでしょうか」
背の高いメイドの人にラウンジに行きたいと告げた。
背の高いメイドの後について、廊下を歩く。裾を踏みそうで、冷や冷やしつつ、階段を降りて下に行ってラウンジに行く。
案内してくれた背の高いメイドは、そこで戻っていった。
ラウンジにはお客は誰もいないようだ。
ラウンジの一番端にはカウンターがあって、バーテンダーの人がグラスを拭いていた。その横にウェイトレスの女性が一名。昨日はいなかったな。
そのウェイトレスがやってきた。
「何かお出ししますか?」
というので紅茶を頼んだ。
「畏まりました」
と言ってカウンターに戻り、紅茶をいれて持ってくる。
紅茶の横に、小さなお皿が置かれ、焼き菓子が置いてあった。
暫く、その紅茶を飲んで外を眺める。何か、本でも持ってくればよかった。
今日もいい天気で、大きな窓から見える中庭の植物たちとその花が綺麗に映える。
お茶を飲みながら、茫然としつつ外を眺める。
今は身動きがとれない上に、この衣服は私にとっては只の枷にしかならない。
それにしても。
昨日の藍色のドレスもそうだったが、今日のこの服の布地も相当な高級品だろう。
これ一着で一リングレットとかの値段だと言われても、驚きはしない。
元の世界なら五〇〇万の服とか、とんでもないな。
いや女性の晴れ着の和服、それも相当仕立ての良い着物。それなら、かろうじて有り得るだろうか。
この異世界にも蚕はいるのだろうか。
この艷やかな布地は、たぶん綿花のような植物の繊維ではないだろう。
この糸を吐き出す蟲がいるのだとしても、きっと相当グロテスクな蟲のような気がする。
グロテスクな蟲か或いは何かの幼虫が、繭を作る時に出す糸。
あるいは、蜘蛛の一種が獲物を捉えた時に出す糸かもしれない。
しかし、それらを紡いで一本の使えるレベルの太さの糸にして、それを機織りするという、とてつもない根気と時間が必要な代物なのだ。
よく異世界物で、恐ろしく綺麗なデザインが優れた、カラフルな衣服がポンポンと出現した上に、それをただの普通の人が着ているとか、ちょっとありえない話だ。
布を造るのが自動機械ではなく、人がやったらそんな沢山は作れっこない。
つまり、布を沢山使った複雑なデザインの服は高価なものになる。
元の世界の様な機織りの自動機器はかなり複雑な構造で、これも精密機械が作れないと不可能な話だ。それを魔法で自動織機ですとか、出鱈目すぎる。
そしてカラフルな布。染料によっては、かなり難しい色もあるのだ。
各色の染料となる植物か鉱物が大量に入手可能とかじゃないと、無理な話。
もし高品質の服が溢れているのなら、それはたぶん、奴隷による生産。まあ、ありがちな話だ。
そういえば、ギルドの概要だったか奴隷商売は禁止している。重犯罪という様な事が書いてあった。
多くの国で奴隷商売がタブーなら、或いはひたすら布だけを作っている種族がいて、それを出荷してる村や町とかがあるのかもしれない。それなら有り得る。
ただ、安くはないだろう。
裁縫ギルドが布をどこから仕入れているのか、そしてどれくらいの値段なのか。
それが分らないと服の値段の相場も判らないな。
……
このスッファの街に最初に来た時に行き交う人々の服を観察したが、まともな紳士風の服の人もいれば、ごく普通なおとなしい服の人もいれば、簡素な服の人もいた。
過度に装飾の効いた服を着ている人は見なかった。
そして北部街区のあの店の前の行列の人の服。みんな概ね簡素な服を着ていた。
あれが一般の人のレベルだろう。
そう、物事には理由がある……。それはどんな物にも、だ。
『異世界』だからと言って、その一言で何でも済む訳でもナイ。
ぼんやり、そんな事を考える。
ちょっと外が騒がしい。何人もの声がする。
ラウンジの扉を開けた。廊下の斜め向かいにサロンが見える。
ここのサロンには廊下側には壁も扉もなく、中の様子がそのまま廊下の方から見える。
この宿の一階にある大きなサロンに、あの玉ねぎ色の髪の毛の女性たちが集まっていた。
お香をたくさん持ち込んで、色々混ぜて焚いたお香を鑑賞しその香りを当てる、香合せをやっていた。
元の世界の香道というやつか。
これは組香と言い、二種類以上の香を焚いて香の異同を判別し、その香の名前を言い当てる。
あるいはお題の示す香を選びだし、その香の意味するところを書き出すという遊戯で雅やかなものである。
これ以外にもパズルのような香合わせもある。
競技性の高い物に、競馬香というのもあった。
これは元の世界では、かなり昔の貴族が遊んだ香木の匂いの鑑賞に端を発する。
それはたしか聞香とかいう。
そうか。これは彼女らアグ・シメノス人たちの一般的な娯楽なのだろう。
この王国の事を書いた本によれば、彼女らはフェロモンを「嗅ぐ」という。
香道でいえば、フェロモンを「聞く」のだろう。
そして様々な事がフェロモンで行われ、それぞれが違っていてメッセージ性が有るというような事が書いてあった。
なんとなく「嗅ぐ」のではなく、「聞く」の方がこの人たちにはしっくりくる気がする。
そして、そのフェロモンは普通の人には分からないレベルの物らしい。
彼女らは、優れたその嗅覚をこういう遊びに使っているのだろうか。
絶対嗅覚どころじゃない先鋭化した嗅覚を持っているのだろうな。
彼女たちから、しばしば声が上がっていた。サロンからはお香の香りが外にまで出ていた。馥郁たる香りの立ちのぼるお香が使われている。
あの香の混ぜ方にメッセージを符合させれば、彼女たちにとっては何を言ってるかのクイズにすらなるのだろう。
この地域の北の方、亜熱帯なのだがそこに香木となり得る樹木があるのに違いない。
恐らく沈香や伽羅、白檀のような樹木が生えていてもおかしくない。
それにしてもいい香りがする。優雅な遊びだ。
この宿のサロンは普通に、一階の大食堂に食べに来るお客に開放されているのだろうか。
という事は……。
ハッとした。
玉ねぎ色の髪の毛の彼女たち以外は、私は気をつけないといけないのだ。
つまり、見た事のないウェイトレス、ウェイターには、十分気をつける必要があるのだ。
それが北部街区の商会から送り込まれた「刺客」の可能性がある。
まさか、とは思うが。
オセダールの足元まで彼奴等の毒針が迫っている可能性は十分ある。
相手は、あんなに沢山の暗殺者や傭兵らしき男たちを雇っていたのだ。
あの帰り道で出会った、屈強の男たちはたぶん商会の部下ではあるまい。
それをかなり潰したので、向こうは頭に血が上っている可能性はかなりある。
常在戦場、か。
私の頭の中に有る、危険検知の第六感に頼るしかないな。
今、武器が手元に無いから、何か事が有れば、体術で何とかするしか方法が無い。
ダガーくらいは手元に置きたいのだが。
オセダールはこの南街区で、あの商会の勝手にはさせないと言っていたが、入り込まれていたら例によって、降りかかる火の粉は自分で払わねばならない。
しかし、恐らく相手が暗殺者だとして、いて二人までという気がする。
一度でも私に勘付かれたら、相手のチャンスは狭まる。
二手に分かれて、なにか仕掛けてくる可能性は十分ある。
そうなると、メイドたちにまで危険が及ぶ。
メイドに化けて私の部屋に入り込んだり、何か罠を仕掛ける事は十分あり得る。
襲って来る奴がいたら、締め上げて仲間がいるかどうか吐かせたいが、相手が喋るかどうか。街路に出た暗殺者を締め上げたが、武器すら喋らなかったくらいだ。
仲間がいるかなんて、多分喋らないだろう。
今度は相手が女性でも躊躇ってはならない。躊躇えば、自分が死ぬ。
やれやれ。私の気の回し過ぎなら、いいのだが。
場合によっては、北部街区の商会が頭に血が上りすぎて、オセダールを暗殺しかねないな。
しかも、私にその罪が及ぶように細工して来る可能性すら有る。
彼を私のダガーで刺殺していたら、言い訳が通るとは思えない。
まずい。自分の武器を取り戻さないと。
私は立ち上がって、玄関の所に急ぎ、ポーターの青年を呼んだ。
「お嬢様。どうなさいましたか、血相を変えて」
「私の武器、全部、ここに、出して、下さい」
「畏まりました」
彼は私の剣を取りに行った。
程なくして、彼は私の鉄剣、そしてその剣帯、ブロードソードとベルト。
ダガー二つを持ってきた。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「どうなさいました?」
「この武器が、何処かに、行ってしまったら、私が、困るので、手元に、暫く、置きます」
そう言って、私はベルトをまず腰に回した。そこにブロードソード。ダガー二つ。
大きな剣帯は肩に掛けずに手に持った。
鉄剣は鞘を持って運ぶ事にした。
このドレスが汚れてしまうが、背に腹は代えられない。
取り敢えず、ラウンジに戻る。
サロンにいる彼女たちは、まだ香を聞く雅やかな遊戯に興じていた。
考えてみれば、あの人たちの服装は門番か警備隊の鎧姿か、あの娼婦の様な姿か監査官の姿という、極端な三者余りにも違いすぎる服装しか見ていない。
このサロンにいる玉ねぎ色の髪の毛の女性たちは、整ったドレス姿である。
おそらくこの遊戯の為に着替えて来ているのだ。
そう思う理由は、この王国の国民である彼女たちは、全員ワーカーだという。
貴族はいない。商業に従事する者もいない。
農業従事者か、生産者か、土木建築職か、管理職か、子育てか、神官か、兵士または警備隊か、という極端さ。あとは遊び人か。
となれば、ここの人たちは農業者か生産者がお休みを取っての参加か、遊び人であろう。
もう昼になった。大食堂の方は一般の人も来るのだろう。
オセダールはどこにいるのか。彼を守らなければ。
ラウンジのカウンターにいるバーテンダーに聞いてみるか。
「お尋ねしたいのですが。オセダール様は、どこに、いらっしゃいますか」
「お嬢様、その恰好はどうなさいました」
「これには、理由が、あっての事。ご主人に、会いに、行きたい、のです」
「旦那様は今日は山下様、小鳥遊様とお出かけしています」
「解りました」
これで一応、この屋敷の中でオセダールが刺される危険は、当面ない。
外に一緒に行った白金の二人が護衛の様なものだ。
然し、真司さんにはその意識が有るかどうか。
相手の仕掛けが不意打ちでも、それを凌駕する彼の反応速度があると信じるしかない。
あとは、私の部屋だな。
この脚を取られて転びそうな服に閉口する。
急いで歩くようには出来ていない。
自分にあてがわれた部屋の前に着いた。
極めて古典的な仕掛けだが、ドアの隙間に紙を挿みたい。
だが、紙なんて無い。
私は自分の髪の毛をダガーで数本切り取って、結んだ。
これをドアの下、ヒンジに近い方に仕込む。
誰かが開ければ、これが動く。
侵入者が驚異的な観察力を持っていない限り、この小さな髪の毛の意味する所になぞ、気が付かない。
恐らくドアの下の僅かにはみ出た、この結んだ髪の毛にすら気が付かないだろう。
よし、仕込みは終わった。
つづく
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大谷龍造の雑学ノート 豆知識 ─ 香道 ─
香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。
香を聞く遊びの発祥は平安時代の頃と考えられている。
元々は仏供養の香を使って、匂いを楽しむ貴族文化となり、これを香を聞く。と称した。
そして数種の香料を調合した薫物を合わせて優劣を競う薫物合が物合の一つとして行われるようになった。
その原料となる香木の質の善し悪しを競ったのである。これは宮廷遊戯であり、組香とは趣旨が異なる。
これには名香合というものもあり、客らが二組に分かれて所持してきた名香を出香し、その優劣を競ったり、香の風情、香銘の出典、来歴などを勘考して判定するという、雅な物であった。これらは香道と並びつつも公家などの遊戯として安土桃山時代の頃まで続いたという。
きちんとした道、そして競技となったのは室町時代だったと云う。
この元は仏供養の香や宮廷と貴族の香に、鎌倉幕府時代以降の武士の香、そしてそこに禅の教えまでもが加わり、茶道、華道、能等と共に室町時代に香道が誕生する。
これは婆沙羅大名らを含むごく一部の上流階級の贅を極めた芸道として発展して行く事となる。
そして文化としての洗練度を高め、独自の世界を構築するに至った。
これは香りを鑑賞する道という、全く他国に類を見ない日本独自の芸道である。
香道は礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められるという。
しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを愉しむ事にある。
香木の香りを聞き、鑑賞する聞香、香りを聞き分ける遊びである組香の二つが主な要素である。
聞香は室町時代後期、三条西実隆の御家流を祖とする志野流、建部流、米川流等のいくつかの流派に分かれた。
なお、志野流は一子相伝の家元である。
その志野流のお家断絶の危機にあって、高弟の建部隆勝は門下の蜂谷宗悟に志野流継承を薦め、香道断絶を逃れた。蜂谷宗悟が四代目志野流を継いで、以降家元となる。この志野流同期に、キリシタン大名の蒲生氏郷がいる。
建部隆勝は後に「建部流」の祖とされるが、隆勝の門弟のさらに弟子に米川常伯がいる。この米川常伯が米川流を開いたとされる。
この米川流が江戸時代の大名家が親しんだという安藤家流の祖とされている。
いくつかの流儀に分かれたが、流儀により、使う香炉や火道具等に違いがある。
組香とは、ある一定のルールに即した香りの楽しみ方である。
ルールがあり、これは執筆と呼ばれる記録係により「記録」されるので、これは競技と言える。
極めて多種多様の分野に取材したルールに則って香りの異同を当てるもので、非常にゲーム性に富む物である。
しかし、香道においては答えの成否や優劣を競うものではないとされる。
本格的に競技として愉しまれたものが競馬香であった。
招かれた客が二組に分かれて香を使って、当て比べをして、馬を模した駒を進めるという競技で、極めてゲーム性の高い物で人気があったと云う。
これはどれも鼻識の競技なので相当、鼻が良い事と記憶力、そして教養が高くないと当てられない。
湯沢の友人の雑学より
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あの玉ねぎ色の髪の毛の女性達はサロンで香合わせをやっていた。
一方、マリーネこと大谷は、不穏な空気を予感する。
次回 宿の大食堂
一般に開放されている大食堂は、昼になると賑わいを見せていた。
そしてそこには不穏な人物が。