078 第14章 スッファの街 14ー7 宿のお風呂
ここの所、お風呂も入っていないし、お風呂に入りたいと言ったら、宿の主人は大きな風呂を用意するという。
行ってみると、それは岩風呂だった。
78話 第14章 スッファの街
14ー7 宿のお風呂
食事を終えて、お風呂に入りたいと言うと、オセダールは言った。
「お部屋の小さいものでは、ご不満でしょう」
「いえ、そんな事はありません、ただ、汚れや汗を、流したく思います」
「時々、大きなお風呂に入るのを好むお客様がいらっしゃいますので、半地下ですが、大きなお風呂が御座います。そちらを用意させましょう」
ああ、またしても宿の主人に合わせてしまった。
これは時間が掛かりそうだ。
適当にお湯を沸かして、部屋のバスタブに入れば、簡単だったのだが。
暫し、紅茶とフルーツで歓談である。
いつの間にか、私が村で服を作った話になった。
長雨に降られて、やる事がなくて毎日退屈してるくらいなら、服を作りましょうとなって、見様見真似で作った話をする。
ケープの縫いが大変だったとかの話は、千晶さんと大いに盛り上がる。
残念ながら、真司さんには付いてこれない話題だったらしい。
……
そんな雑談をしているとメイドがやってきた。
「ご準備が整いまして御座います」
私はドレスを引き摺るようにして、廊下を歩く。その半地下の風呂に例の背の高いメイドが案内してくれた。
脱衣所には上には幾つも蝋燭が付いていて、辺りを照らしている。
服を脱いで、中に入ると、壁には等間隔で松明が並んで、中を照らしている。
空気の換気の意味もあるのだろう、風呂場の奥には上の方に小窓があり、脱衣所の扉の横に、これまた下の方に小さな換気の口が空いている。
中に入ると、湯気が立ち上る大きな岩風呂がそこにあった。
手前は岩を適度に平らに削った床があった。綺麗に磨かないのは、滑ると困るからに違いない。おそらくはそういう事だろう。
体を洗うために、そこにあった手桶にお湯を少し取って頭からかぶる。
久しぶりの事かもしれない。何杯か頭から被り、体を洗おうと思った。近くの小さな木箱の中にタオルと、白い石があった。
木で出来た小さな椅子に座って洗おうとしたら、後ろに人が立っていた。
例の背の高いメイドが割とぴったりした、素朴な服に着替えていて、髪の毛は上にたくし上げて、タオルで縛っていた。下は半ズボンのような姿である。
「失礼致します。体を洗うのをお手伝いします」
そう言って、私の後ろに座った。
「だいぶ、汚れているし、自分で、洗います」
そう言うと、
「遠慮なさらずに」
と言い、白い石を手にとって、お湯で泡立て始めた。
「それはなんですか?」
私が聞くと、これは乳石ですよ、と言う。
にゅうせき? 聞いた事がなかった。たぶん、石鹸の事だろうとは思うのだが。
「その、にゅうせきが、分からないのです。すみません。田舎者です、ので」
というとメイドは、
「そんな事は御座いません。お嬢様が田舎者だなんてとんでもない事で御座います。第一、お嬢様には立派な名字が御座います。それにお嬢様の挨拶、受け答え、確かに言葉は辿々しゅう御座いますが、この異国の言葉を理解して喋ろうとなさっているのでしょう。その会話と所作にきちんとした教養が御座います」
そう言って、この白い石の説明を始めた。
「これは、セネカルという大きな四つ足の動物が居るのですけど、そうですね、私たちの背丈の二倍か三倍位はある、全て黒い毛か全て茶色の毛の大きい獣たちです。とてもおとなしい動物たちですわ」
ふむ。四、五メートルは楽に有る、獣か。バッファローとかヌーとか、ああいう類だろうな。
「その獣たちが、子供を育てる時に出すお乳を使って、穀物の粉と木の灰と白い石の粉と塩を混ぜて煮ます。それを煮詰めて固めると、乳石になるのですよ」
そうか、やはり石鹸だ。
白い石というのはたぶん石灰石だろう。生石灰だろうが、この辺にはなさそうだが。
これは石灰石を砕いて焼成する事で得られる。石灰は炭酸カルシウムだ。
生物起源のいわば化石か珊瑚や貝殻。或いは化学的沈殿のどちらかでしか、生成されない。
石灰岩は、それらが堆積してできる。風化はしにくいが、地層の中で明確に海の底だった部分がないとな。
こんな亜熱帯に隣接する山脈も無い地域が昔は海の底だったとは考えにくいので、どこか別の地域から持ってきてるのだろう。
……
「本来は子供に与える乳を頂いて作っているのです。子供が大きくなると乳を出さなくなるので、常に乳を出させるために生まれた子供を取り上げてしまって、ずっと乳を出させて居るのだそうです」
「酷い事とお思いになるかもしれませんけど、子供を殺してしまう訳ではないんです。親の目に入る所で育てないという事です」
「判りました」
そう言うと、
「これはとても質の良い乳石で、これで肌を洗うとすべすべになります」
私が振り向くと、彼女は微笑した。
「お嬢様も、これで洗ってお肌すべすべです」
と言いながら、怪訝な声を出した。
「これは……どうなさいましたか?」
「え?」
何かあるのか。私の背中に。
「お嬢様は、背中の大分下の腰に近い場所に大きな痣が御座いますね。どうなさいましたか?」
「私には、分からないのです。村に、いた時、誰も、それを、言いませんでした。何度も、お風呂には、入ったのですけど」
私には見えないのだから、分からない。
「一六歳より、前の、記憶も、ないのです」
「まぁ。そうでございましたか。聞いてはいけない事でしたか」
「いえ、大丈夫です。それより、その、痣は、どのようなものですか」
「私には何かの模様、いえ、これは紋章のようにも見えますけど。紋章学は学んだ事がありませんので、旦那様ならお分かりかもしれませんが」
「そうなんですね」
紋章学か。ありそうな話だ。家ごとに独特の紋章を用いて、それをケープやマント、鎧の上に着る前掛け等に縫い込んで、自分はどこぞの者ぞ、とやっている文化が有るのだろう。
そういう紋章は大抵王国に紋章記録官がいて、同じ物が登録されたりしないように、細かいルールとか紋章設定に口をだすのだ。
オセダールなら判るかも知れないと、このメイドは言った。
やはり彼は大きな家の執事だったか、貴族そのものだったかも。
それにしても、背中の痣……か。何なんだろう。神様が弄った体なので、まっさらだと信じていたが、そうじゃないんだという事は、おばばが言っていた。
血の匂いが魔物をおびき寄せると。
そしてこの体そのものが弄られた歪な器、か。
このうえ、まだ『何か』有るのかも知れないな。
「記憶がないという事は、何か酷い事に遭ったのかも知れませんね。時々、そういう事が御座います。貴族同士の仲違いで。原因が砂漠の民の仕業という人々の噂も御座いますね」
「砂漠の民? 何処の、方々ですか?」
「ここから、ずっとずっと遠い所に、アシンジャール王国という砂漠の中の国が有るので御座います。其処の人々が、とても恐ろしい人々だそうで、他の国の人々が殺し合うのを見て喜ぶのだとか」
「とても、恐ろしい、人々ですね」
「はい。ここからはだいぶ離れてございますから、この国はそういう事は起こってませんわ」
彼女は、私の背中を洗ってくれているので、自分で前の方を洗い始める。
自分の見間違えでなければ、胸がまっ平らだったはずなのに、膨らみ始めていた。喜ぶべきなのか、この膨らみは。
唐突に、やたらと服の薄い豊満な体つきの若い顔の天使の事を思い出した。
随分と久しぶりに彼女の事を思い出したのだった。あの大きな胸。
まあ、それより先に背が伸びて欲しかった。
そんな私の思いを、彼女が感じ取ったのか、こんな事を言った。
「大丈夫で御座います。お嬢様ももっと背が伸びて、胸も大きくなって立派な淑女になられますわ」
彼女はこっちを覗き込んでそう言った。
私は顔が赤くなったかも知れない。
中身は何処まで行っても五〇もだいぶ過ぎた、草臥れたおっさんである。
淑女とか言われても困る。大変に困る。
「もうすぐにでも社交界入り、間違いなしです」
彼女はそんな事まで言う。
自分は、そう云う世界は縁遠いものだと思っているし、むしろ金属相手に汗にまみれてハンマーを振るっていたり、細工をしたりしていたいのだが。
そう、職人のスローライフが目標なのに。だ。
「私は、ただの、冒険者です。社交界、だなんて、想像も、していませんでした」
とそう言うと、
「この国では、それも私たち准国民にはよくある事に御座います」
「准国民?」
聞いた事がないが、たしかあの王国概説では、この国の国民はアグ・シメノス人だけだと書いてあったな。
「あの顔の同じ女性たちだけがこの国の国民ですから、私たちは皆、准国民ですわ。ここに何一〇年住もうとここで生まれようと、それは変わりません」
「そうなりますと、扱いも、だいぶ、違うのですね?」
「そうです。この街を守るのも、自分たちでやらないといけません。増え過ぎた魔獣が街を襲うのを防ぐのも、冒険者の方々の重要なお仕事で御座います」
「あの方たちは、自分たちに大きな脅威が来ない限りは軍隊を出しません。ですので、押し寄せる魔獣を駆除するのは、とても崇高なお仕事ですわ」
崇高とか、そこまで言わなくても。とは思った。
たしかに、ここの亜人たちには命がけなんだろう。普通に獣を刈り取るのとは全く違うんだろうな。
私もそうだが、優遇の有るあの二人が飛び抜けているだけなのだ。
それはあの新人実習でよく判った。
それに森の中のあの死闘。恐らくはとびきり腕のいい暗殺者として雇われて来た男たちでも、魔獣に正確に対応出来たのは、たった一人だけだ。
二人は喉を喰い千切られていた。そして変な刀の男は、特殊な攻撃の電撃で死んだ。
私が最初に街道で出会った、あの護衛たちもあの咬まれる攻撃で死んだのだろう。
あれでは無理もない。
そして今回、ステンベレの惨劇で、大勢の冒険者が命を失った。
まあ、私がそこにいたとしても最初から光られたら、どうにも出来ないだろう。
せいぜい二頭か三頭、斬ったかどうか。
この異世界での魔物狩り冒険者という仕事は、常に命がけなんだという、ある意味悲壮なまでの覚悟と意識がないと出来ない職業という事だ。
高額報酬なのも、その領域の人が少ないのも、そういう事なのか。
私とか真司さんは、ある意味、彼らの範疇からまったく外れているのだ。
規格外なのだ。
……
彼女は背中と腰を洗い終え、脇まで洗ってくれる。
頭を洗い流し、更に髪の毛まで乳石を付けて洗い始めた。
「髪の毛は大事です。よく洗っておきましょう」
そう言って、かなり泡立てられた。彼女が髪の毛とともに、後ろから手を回して私の胸やら腹まで泡立てて、洗う。
そして彼女は後ろから、私の脚をよく洗う。
くすぐったい、変な感覚だった。
だいぶ泡立てられ、髪の毛は何度も丁寧に櫛を通された。
やっと体も頭も洗い流され、私はお風呂に入った。
「お湯は熱く御座いませんか?」
丁寧にお湯の加減を聞かれた。
「大丈夫です。丁度いいです」
そう言って笑顔で返す。
初めて、ここで膝立ち姿の彼女をきちんと正面から見た。
整った顔つき。肌の色は普通というか、この地域の人々の色から見たらやや色白。
ここのお風呂の気温で、だろう僅かに上気した顔は薄っすらとピンク色で汗が滲んでいた。
長い黒い髪の毛をタオルで上にたくし上げて縛ってある。
耳はやや細く長い。鼻筋が通っている。
目はややパッチリ。唇はすこしばかり厚い。
これは私の基準で言えば、美女と言っても問題ないだろう。
その彼女の着ている簡素な服が濡れてしまっていて、ぴっちりと張り付いて彼女の体の凹凸をはっきりと映し出している。
半ズボンの姿の下半身はやや股を開き気味で、膝立ちの彼女の姿は官能的だった。
思わず顔に出そうで慌てて視線を逸した。もしかしたら、もう真っ赤になっていたかもしれない。
顔を逸して、口を真一文字に閉じて、鼻の下までお湯に浸かって目を閉じる。
おっさんは、こういう時に困る。
もう自分は男ですら無い、『何か』になっているのだ。意識だけが男というのはこういう時に困る。本当に。
しかし、向こうだってまさか男性のウエイターみたいなバーテンダーみたいな人に私の体を洗わせる訳には行かなかったのだろう。それは理解してる。
彼女が裸で入って来なくて、本当によかった。
暫くの間浸かり、逆上せてしまう前にお風呂を出て、体を拭いてシャツ着てパンツを穿く。髪の毛はまだ濡れている。タオルで丁寧に拭いた。。
流石にドレスをまた着ろとは言わないだろう。
服は、簡素なワンピースがおいてあった。ネグリジェという事か。お部屋着にしなさいと。たぶんそういう事だな。
宿の主人が、大凡の私の背丈であれこれ用意させたに違いない。
この簡素なワンピースは袖と首周りには、かなり複雑な刺繍がしてある。
これを着ていると、別のメイドがやってきた。
背の高いメイドはドレスを持って何処かに行ってしまった。
この別のメイドの案内で、彼女の後ろについて部屋に戻る。
ふかふかなベッドの上に転がった。
贅沢を言えば、一人でゆっくりのんびりと浸かりたかった。
岩風呂だったしな。
やれやれ。
この社交? もどきはまだ続くのだろうか。
真司さんたちには大変に世話になっているので、これもその恩返しの一環だと割り切ってはいるものの、はやく村に戻りたかった。
しかし、あのドーベンハイ・スルルー商会だったか、あそこの攻撃が止まない事には、おちおち街も歩けないのだ。
自分の立ててしまった、厄介なフラグにつくづく溜息が出た。
つづく
岩風呂を堪能できたが、自分の背中には痣があると言う。どんな痣なのか判らないのだが、それは紋章の様に見えると言うのだった。
次回 宿のサロンにて
サロンにやってきたのは、あの玉ねぎ色の髪の毛の長身の女性達一行であった。