058 第11章 森を抜けて町へ 11ー4 デモティック
マリーネこと大谷は学習に集中しようとするが、彼の目の前にいる千晶が気になって、集中できない。
58話 第11章 森を抜けて町へ
11ー4 デモティック
ようやく、私が自分で歩いて、自分でトイレに行けるようになるのに、なんと二八日も必要だった。
起きて伝い歩きが出来るように成るまでに一五日。
そこから普通に杖なしで歩いてトイレに行けるようになるのに一三日。
リハビリにかかる期間は相当長かった。
少なくとも飢餓の限界を超えてはイケない事を身を持って味わった。
生きていただけで奇蹟だったのだから。
貰った優遇の体が徐々に回復し始める。
その間に文字を読んでもらいながら発音を教わる。日本語との対比。
千晶さんは優秀な講師だった。
彼女はロゼッタストーンどころでは無い。あの念話の御仁が横にいるのと変わらない上に、意味を正確に発音とともに教えてくれる。
しかし。千晶さんが近すぎて、ドキドキしっぱなしなのだ。しかもなぜかいい匂いがする。
(この人は真司さんの奥さんだろう。何をドキドキしてるんだ、おっさん)自分を叱り飛ばす。
……
とにかく、まず挨拶から覚える。会話はいつだって、そこからだ。
おはようとか、こんにちはとか、さようなら、とか。まずは基本を抑える。
そして自己紹介とか、天気の話とか。そういう日常会話から、だ。
─────────
そして大谷の学習はどんどん進んだ。
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なにしろ出来るだけ短期間で習得しなければならないから、必死だ。とにかく集中だ。
出来るだけ千晶さんの顔は見ないようにした。
彼女の笑顔や、首元か、うなじから香る匂いで集中力が切れる。
(これは恋なのか? 馬鹿な事を考えるな。今の自分の状況をちゃんと把握しろ。おっさん)
しかし集中力が乱れる。
深呼吸だ。
……
心がこんな風に揺さぶられるのは、もう二〇年以上なかった事だ。
男友達はいたが、もう女性との付き合いも結婚も捨てて、仕事と友人との付き合いと自分の趣味に生きてきた二〇年だった。
たまに、ごくたまに、あのそばかすの笑顔の娘が、あの眼鏡のポニーテールの女性の笑顔が、あの背の低い愛くるしい笑顔の女性の顔が脳裏に浮かぶ時は、忘れるために友人を誘っては呑みに行った。
もう、古い古い心の疵痕だ。時々、心の底で淀んだ澱が舞い上がるように、突如として思い出す事があるのだ。それだけ歳を喰ったという事だな……。
もう自分は一人で生きて行くんだ。そう、ずっとそう思っていた。
まさか、こんな風にまた胸が締め付けられるような、笑顔に出会うなんて……。
ツイてない。彼女は真司さんの奥さんだ。
そして私は、たまたま森の中で拾われた少女の姿をした『何か』だ。
私はもっと今の自分の事を知って、身の程を辨えるべきだ。
理解するのだ。おっさん。龍造、泪を出すな。感傷に浸るな。目の前の語学に集中せよ。
……
だめだ。ちゃんと発音できない。もう少し深呼吸だ。
……
やはり、私には女運がない。元の世界でもそうだった。
私は、恋愛には何度かの失敗があった。
まだ大企業の社員だったあの頃…………。三〇年は前になるのか。
ある娘さんとはかなり、いい仲まで進んだ。しかし彼女はやや大きい歯科医のお嬢さんだった。
知らなかった。彼女は一切言わなかったのだ。
私も頑張って小振りな、割と高価なカメオのブローチを贈ったりして、彼女がそれを着けて来てくれたりして何度もデートした。
いい仲が進んだと思っていた。
ある日の事、いつものように食事のデートに誘ったその日に、彼女は初めてすっぽかした。
親が来て、強引に実家に連れ戻されたと知ったのは、だいぶあとになってだ。
あの当時は携帯なんかない。ネットもない時代だ。
連絡が取れないでいたら、彼女の女友達が私にそっと教えてくれたのは、とある男性と強引に見合い結婚させられた、という事だった。
両親が、特に父親が強くそれを望んで、娘さんは反対表明も出来ず婚約し、すぐ結婚になった。
その男性は若い優秀な歯科医だったという。跡取りとしての婿養子か。
私はツイてない。そばかすの似合うあの娘の笑顔を忘れる為に、しばらくは仕事漬の必要があった……。
会社が変わって中規模なソフトハウスに入社したある時など、そこの会社の女性社員と、いい感じになった。
器量もそこそこ良かった、眼鏡の似合うポニーテールの娘だ。私好みな笑顔のキュートな娘だった。
頭の回転が早く、私の指示や説明は全部聞かなくても、ちゃんと要求通りのプログラムをきちんと作って来るくらいには行間の読める娘で、私はこの人となら。と思っていた。
そして何度も一緒に食事をするくらいには付き合いが進み、何度か一緒に呑のんだある日。
彼女の方から演劇を見に行きませんかという誘いがあった。
チケットは私が二枚買った。
ドレスコードありかもしれないので、スーツを着て駅に行った。彼女は先に行ったようだった。私も指定の場所に急いだ。
そして行った先は、今でも忘れる事が出来ない。大きな倉庫っぽい建物の地下だ。
階段を降りて、地下一階の事務所っぽい所でチケットを渡して下に降りると、そこは異様な空間だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、でかい木箱が積まれている。これは舞台セットだった。
上にはステージ用の照明があちこちに付けられていて、スポットライトもあった。見たら桟敷の後ろ、壁際に階段が付いていて、上に機材があった。スピーカーもそこに設置されていた。
廻りは、黒いゴスロリな服装の若い女性ばかり。
男は私独りだった。桟敷席は座布団が置いてあるだけ。
私は相当、場違いなところに来た。とその瞬間思った。周りの視線が痛かった。
そこは、彼女が熱を上げている「アングラ劇団」の劇場で初演の日だった。
そして、なぜ女性陣が黄色い声を上げているのか、すぐに分かった。
今でいうヴィジュアル系なのかと思わしき、すごいイケメンの若い男性がその劇団の団長兼、監督兼、主役という、絵に書いたような「アングラ劇団」だった。
そして、そこで繰り広げられている演劇、歌劇かもしれないそれは、これまたその当時としてはタブーに半分踏み込んでいる表現もいくつか出てくる。アングラ劇団でしか、上演できない演目だ。
主役は海賊をしているが、本当は革命家だった。活動資金を海賊行為で得ていたのだ。
それで捕まるのだが、その主役が牢屋に捕まってる所まで情女が追いかけていって、賄賂渡して牢屋の中に入って、その主役と性行為をする描写があった。
廻りの黒いゴスロリ女性たちから悲鳴なのか嬌声なのか判らぬ声が上がり、両手で顔を隠しつつ指の間で見ているというような、そんなシーンがあった。
男女が絡み、女が上になって上下に動き、その後は男が上になって腰が前後に動く。
勿論二人とも一部服とか着てるし、全身タイツみたいなのを着用してるのだが、あの当時としては、相当淫らな表現だったのは確かだ。
その演劇なのか歌劇なのか、は続き、その情女が半分以上、胸を開けて赤ん坊人形を抱いて出てくる。おっぱい両方もろ出しだ。
そしてその息子が成長したという、前振りがあって再びイケメンの団長が息子役で登場。演者が一斉に歌う。
また革命運動に身を投じる、みたいな演劇だ。
私は、もう充分だった。
こんな場所に何故自分がいるのか、だいぶそう思っていた。
演劇が終わるとカーテンコールで沢山の花束が彼らに渡された。
そこでやっと彼女を見つけた。
誰か、友達に頼まれてとか、知り合いがここで働いてるとか、そういう理由なのかと思っていたが、違った。
最悪だ。
彼女も団長に向けて目がハートだ。ああ、これはダシにされたか。そう思って、そっと階段を登った。
外はいつの間にか雨だった。傘もない中、濡れながら駅まで歩いた、あの日の事は忘れられない。
彼女との事はそれで終わった……。
それからまた会社を変わって、その会社の女性ともかなりいい仲になった。
やや背は低いが笑顔の似合う可愛い人だった。一緒に食事もして、何度も一緒に呑んだ。
そんな事が続いたある日。
その彼女はどこで知ったのか、金曜の夜に課長と私とのサシ呑みの間に入ってきて、強烈に呑んだ。
ああ、これが笊ではなく、枠というやつか。初めて見たとか思っていると、とっくに終電を越えている。
結局朝まで呑んで解散したのだが、その彼女は課長と一緒に新宿駅の初電に乗って消えた。
……文字通り。
週が開けても、課長も彼女も出て来ない。
一週間がすぎ一〇日がすぎ、とうとう二週間が過ぎた。
そして私が課長の住んでいるアパートに行かされる事になった。
部長命令で逆らえない。
アパートは鍵がかかっていて、大家に事情を話して開けてもらうと、蛻の殻。
家具とベッドと布団、食器、電化製品が残され、それ以外は何もなかった。
新聞が一〇日分以上、ドアポストの内側に落ちていた。
彼女のアパートもほぼ同じだったと後で聞いた。
二人はあの後、情事を交わして駆け落ちしたのだ。……逐電か……。
その後、課長から私の部屋に小さな封書が届いた。
内容は簡単な挨拶と、すまなかった、と一言だけだけ書いてあった。
消印は都内だったが差し出し住所は記載されていなかった。
その後、だいぶだいぶ経って地方で小さなソフトハウスの社長夫人に収まった彼女から年賀状が届き、幸せそうな二人の写真が其処にあった。
…………
まあ、運が無いな。そう思って更に仕事に打ち込んだ。
三ストライクならバッターアウト、打者交代。
もう彼女を作ろうとか考えない様にしよう。それが、もう二二年前の事。
そして、今横にいる千晶さんも笑顔の似合う美人だ。しかも付きっ切りで私に教えてくれている。
しかし、この人は真司さんの奥さんだ。そして私は何故か、少女のような姿の『何か』と来てる。
まあ、運が無いな。とことん運がない。
しかし、だ。
男の体貰って転移して来ても、『横取り愛』とか『寝取り』とか私の守備範囲を大幅に逸脱してる。
……却下。却下だ。大却下だ。
ハーレムとか、そういうのも、な。私には無理だな。これも大却下だな。
さあ、落ち着け。もう一回深呼吸だ。
「どうしたの?マリーネちゃん。さっきから何度も深呼吸して……」
「いえ、なんでもありません……」
さあ、勉強に集中だ。
……
私はリュックの中に仕舞っておいた、厳重に結んだ革袋から、あの本を取り出した。
亜人たちが使う文字が私のいう所のミミズ文字であり、やはり植物図鑑だった。
人族かと思っていたんだが、人族の文字ではなかった。
植物を解説してるのだろうな、というくらいしか判らなかったのが、千晶さんに習ってカタコトでも、理解が進んだので、どうにかこの本の中身が少しは分かるようになった。
この変なミミズ文字は、亜人たちの固有言語が余りにも異なっていた為に、意思疎通の為に作られたという。
長い間に人間族とエルフ族を除く、ほぼ全ての種族がこれを使えるようになったという、共通民衆語だった。
人間族が全くこれを使えない訳ではなく、一部の者たちは使えるそうだ。
使えるか、使えないかの差は、亜人たちとコミュニケーションを取ろうとしているか否か、という事だろうな。
これら以外に王族や貴族が使う文字もあるという。所謂貴族語であろうと思われた。
取り敢えず、他の本も見せる。
すると、千晶さんはこれも読めるという。流石、転移者の優遇。
三冊は 古代エルフ族の使う文字であり、神官文字と一部は神聖文字だという。
内容はかなり複雑らしく、じっくり読んでみないとわからないと、彼女は言った。
残りの二冊は、なんと古代竜の用いた神聖文字であり、どうやら何かの呪文の本の一部だった。これは本が足りないらしい。
とても珍しい本で、彼女はこれは重要な前のほうの本が無いと言った。
詳しい内容は、もっと読んでみないと分からないという事だった。
どういう事だろうな。
一冊は村長の奥方の本棚だったが、もう一冊はあの細い男性の部屋だろうと思われる本棚からだ。
前のほうの本がない?
村長の部屋にあったのだろうか。
そういえば、村長の部屋の本棚は、本が全部下に落とされていて、めちゃくちゃだったな。
賊が本を持って行ったのだろうか。
……まさか、ピンポイントで?
……
まあ、これらも後で読み方を教わろう。何か分かるかもしれない。
「竜がどうやって、文字をこんな小さい本に小さい文字で書くんですか?」
「古代竜ほどの知性の持ち主なら、人の姿になるくらい、なんでも無い事よ」
彼女はそう言った。
なるほど。
一瞬、あの巨大な白銀の竜が人の姿になったらどういう姿なんだろうか、と考えた。
……
とにかく、ミミズ文字に集中して、寝る間も惜しんで読み続ける。
そして発声練習を兼ねて声に出して読む。
ようやく動けるようになると、亜人文字の読み書きを続けるために、道具を借りた。
木から板を作って削るのに鋸と鉋が必要だった。
真司さんにお願いし、村人に言って借りて貰った。
切ってもいい木を尋ねる。
あの村なら、自分で全て出来たが、ここではそうはいかない。
コレは伐採していいという木を小さな手斧でガツガツやって楔形に削り跡を作り、反対側もガツガツ削った。
だいぶ体が回復してきている。
道具だけ借りて、自分で数枚の板を作って学習版とした。
切った木は残り全て薪にして、借りた村人に道具を返し薪をお礼とした。
……
学習に集中した。ここで覚えてしまえば自由に会話したり、あるいは買い物もできそうだ。
あの魔物たちの牙を売って当面の資金を出せるだろう。
世話になっている二人へのお礼もしたい。
……
よく晴れた日。
私は充分にストレッチをして、それから洗濯をしていた。
シャツとパンツの上に寝間着のワンピースを着て、汚れた服を何枚もぬるま湯と木の灰で洗う。
ズボンが絶望的なまでに汚れているのだ。そしていつもの服も、だ。
上下とパンツ。そして私が寝ていたベッドのシーツ。これまた強烈に汚れていた。
きれいに洗って返さねば。
ふむ。長期戦だな。
こういう時間は有効に使うべきだ。
まずは、自分の声がちゃんと出ているのか、時々不安になるからな。
よし。
こういう時は発声練習だ。
たしか発声練習のトレーニングでよく使われるという有名なやつだ。
「あめんぼ。 あかいな。 ア・イ・ウ・エ・オー!」
「うきもに。 こえびも。 お・よ・い・で・るー!」
「かきのき。 くりのき。 カ・キ・ク・ケ・コー!」
この詩は本当はかな学習歌なのだという。
元の世界では滑舌の練習によく使われるもので、演劇の劇団員の人たちも使っていたという。
あいうえおの歌とか、あめんぼの歌とか色んな名称で、誤称されているが本当は北原白秋先生の「五十音」の詩だ。
四(五)、四、五で構成された定形詩で最後の五音はしっかり区切って発音する。
そうする事で、自分の苦手な音が浮き彫りになり、それを練習するのだと聞いた覚えがある。
とにかくボッチの期間が長すぎた。
ここの異世界の発音とは全く違うが、自分の思う通りの発声ができなくては、そもそも他の言葉を喋る事など覚束ない。
洗濯を続けながら、トレーニングする。
「なめくじ。 のろのろ。 ナ・ニ・ヌ・ネ・ノー!」
後ろにいつの間にか千晶さんがいて、クスクス笑っていた。
「普通の人は、そういう発声練習は思いつかないと思うわよ?」
クスクス笑っていた。いい笑顔だった。眩しい。
「自分が暫くの間、喋っていないから、だいぶ発音がずれてるかもしれないので、確かめたかったんです」
やはり一人で住んでいる訳ではないから、色々勝手が違う。
「迷惑だったでしょうか?」
「そんな事ないわよ。気にしないで続けて」
「はい」
許可が出た。続行だ。
「まゐまゐ。 ねぢまき。 マ・ミ・ム・メ・モー!」
声は出ているが、イントネーションが狂っていないか、不安だった。
洗濯後の井戸での濯ぎも、これまた時間がかかった……。
どうにか、白くなったシーツと服、ズボンを干す。
二つの太陽は真上から傾こうかというくらいには時間がかかっていた。
平和な昼下がりだった。
つづく
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大谷龍造の雑学ノート 豆知識 ─ デモティック ─
デモティックとは古代エジプトの通俗文字、あるいは民衆文字の事を示す。
デモティックもヒエログリフの一種で、後期に使われた草書体の一つとも言われている。
しかし、いつごろからそうなったのか、完全に検証されているわけではない。
神聖文字であるヒエログリフ。聖刻文字ともいう。
これはエジプトではピラミッドや神殿などに刻まれたあの絵文字である。
これは王家だけが使う文字だ。
ギリシア語のヒエログリュピカに由来する。
これは、古代ギリシア語ラテン翻字 ヒエロス。意味は「聖なる」に、古代ギリシア語ラテン翻字グリフォ。「彫る」を意味する言葉を足した造語だ。「聖なる彫り物」という意味だ。
古代エジプト遺跡で主に碑銘に用いられていた為に聖刻文字とも呼ばれた。
しかしヒエログリフも筆記体があり、文字としても使われていた。
そして神官文字。ヒエラティック。
実際にはヒエログリフより歴史が古い事が分かっている。これは筆記体である。
書くのに時間の掛かるヒエログリフは議事録などを書くのには向かない。
神官会議の記録を行う書記官たちが主に用いた。
実際の所、発見された末期のヒエラティック文書には宗教的な記述が多かった故に神官文字という名称が付いた。
しかし、実際にはヒエラティックはもっと、ずっと多様である。
ヒエログリフが成立以後は、時代が進むとこのヒエラティックは速記用のものや、宗教的修飾語を一切省いた事務、あるいは文学、工学や数学の記述などあらゆる物に使われる様になっていく。
これは古代エジプト文明でも本当に初期の頃から存在していた物が、神聖文字と相互いに影響し合いながら少し変化していった物である。
最後がデモティックであり、古代エジプトでは民衆には民衆用の文字が授けられていた。
別物と思われていたが、これもヒエログリフを元とする、筆記体から派生した草書体であるとする学説が有力であり、現在ではそのように考えられている。
この事が確認されたのは紀元前七〇〇年から六六〇年ころのデモティックが刻まれた物が発見され、紀元前六〇〇年ころには一般化したという考古学会の見解だが、恐らくはもっとずっと古いと考える。単に見つかっていないだけだ。
何故そう考えるか、一般の作業員で優秀な者たちに神聖文字であるヒエログリフも授けられたからだ。
これは碑文や壁画にヒエログリフを刻むのは優秀な作業員たちだからである。
全部を全部、神官たちが刻んだわけではない。
そして壁に描かれたヒエログリフの綴り間違いも何箇所か見つかり、作業員が間違えて覚えていて作成した事も判明している。
これを神官たちが刻んだのなら、神聖文字の間違いは許されないのでこうしたミスは無かったハズであろう。
神官文字や民衆文字が刻まれた物はパピルスが多く、一部はオストラコン(陶片や石灰岩片)に記され、日常生活の記録、読み書きや数学の為の学習教材の作成、文学作品、工学、建築などの設計などを記していたと考えられるが、殆ど現存する物が無い。
だが、無いからと言って、紀元前七〇〇年以前に、それらが全く存在せずに、いきなりそのあたりで広まったと考えるのは無理がある。
古代エジプトは現代の一般の人々が思っている以上に実は一般民衆に学が有った。
知識の多く、いや殆どは神官たちが使うヒエラティックテキストで刻まれた事は分かっているが、それでもその知識を一般作業員たちに全て口伝で教えていった訳ではないと考える。
文字の助けを借りなければ、事実上、不可能であろう。
優れた土木工事や治水、ピラミッドや神殿の建築はこうした民衆への教育が無ければなし得なかったのである。
こうした民衆に学があったと思われる文明は多い。代表的な物でも古代ギリシア文明は勿論の事、古代シュメール文明やヒッタイト帝国、エーゲ海のミノア文明など枚挙に暇がないであろう。
一般民衆が文字が縁遠い物となるのは、実は東ローマ帝国時代およびローマ帝国滅亡後、欧州に七〇〇年近い暗黒時代が訪れた時の事であろう。
教会が全てを支配したあの時代は、文字に因る記録は全て教会の神父や修道士たちが行ったのだ。そして人々に教えられるのは文字ではなく、聖書の教えだ。
神学校に入る者以外は、文字を学ぶ方法は極めて乏しかった。
裕福な者たちや規模の大きい商人たち以外は、まず学ぶ事が出来なかった。
その後のルネッサンスを経ても一般の人々がみんな読み書き出来た訳では無かった……。
文字がこのレベルだから、数学なぞ、とんでもない。
数学など、一部の優秀な者たちや発明家さえ知っていればいいのだ、という時代は長く続く。
裕福な家に生まれなければ、教育も満足に受けられない時代である。
科学らしきものが芽生えていくのは、少なくとも一六世紀後半に入ってからである。
…………
人の思考が言語とそれを表す文字を生み出すが、言語と文字は人の思考を逆に支配して文化と文明を形作るのだ。
言語を見える形にした物が文字である。
人間の思考と意志は、言葉とそれを表す「文字の綴り」によって『支配されている』のである。
どんな時も、文字の綴りである言葉こそが思考を『支配』している。
湯沢の友人の雑学より
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彼には過去に女性の付き合いで、全く運の無い出来事によるトラウマがあった。
それはどれも彼に責任がある事ではなかった。
それゆえに、猶更、諦めていたはずの恋愛感情が巻き上がり、彼の心は乱れたのだった。
それを乗り越えて、どうにか、とうとうマリーネこと大谷は読めて、喋れるようになって行く。
それがこの異世界において、さらにマリーネの、いや大谷の背負う運命を複雑にして行く事になった。
次回 街の見学
マリーネこと大谷の学習した結果の、その成果を見ることになった。